「香穂さん、おまたせ。ふふっ。どんな感想を聞かせてくれるかな?」
 
 慎重に運ぶソーサーの上、ふわりとカフェオレの香りが鼻をくすぐる。
 何度も練習をして、よかった。泡立てたクリームの上、ココアで書いたト音記号も美しい。
 香穂さんを自宅に呼ぶ、と決めて、まず1番に買ったのが、一緒に聞きたいと思っていたCD。
 それと、このカフェオレを作るためのコーヒーメーカーだった。
 1年以上の付き合いで、香穂さんがコーヒーより、紅茶の方が好みだってことはわかっていたけれど。
 コーヒーのほろ苦さ。秋という季節。今、僕たちが置かれている18歳という年齢。
 これらがとてもしっくりくる、ってこと、なんとなく伝えたいって思ったんだよね。
 
「加地くん、すごく可愛い! このト音記号、加地くんが描いたの?」
「うん。……君がどんな顔をするかなって思ってね」
「本当にすごい……。わ、小さな八分音符もある」
「音符には罪がないから、失礼なことはいえないけど。
 可愛げのある形、といったら、ト音記号と八分音符が1番だね。
 正直なところ、ヘ音記号や全休符なんかは、なかなか形が決まらないんだ」
 
「さ、温かいうちに飲んで?」
 
 そう勧めると、香穂さんは律儀に両手を胸の前で合わせ、そっとソーサーを持ち上げる。
 そんな彼女の仕草だけで、僕は幸せになれる。
 彼女が喜んでくれたら、それだけで僕はいいんだ。
 
「さて、と。早速だけど、CD、かけるね」
 
 一口。二口。
 香穂さんの白い首が揺れるのを見届けたあと、僕はいそいそとオーディオラックに向かった。  
*...*...* Neck (Kaji) *...*...*
 埋め込み式のスピーカーが、名残惜しそうに最後の音を終える。
 聞き惚れているのかと思って、声をかけるのをためらっている間に、
 香穂さんは、僕の肩を少し借りる格好で、静かな寝息を立てている。
 
 『Amazing Grace』
 ♪Amazing Grace, how sweet the sound. That saved a wretch like me.
 アメイジング・グレース。なんて素敵な言葉だろう。こんな惨めな私を救ってくれた。
 
 ソプラノの女性シンガーが切々と想いを訴えている。
 素人にありがちな、ベタついた表現はそこにはなく。
 聞き終えて、初めて物哀しさを感じさせる曲想はさすがだと思う。
 
 大体、異国の地で生まれた言葉を、細部まで正確にこちらの言葉で著すのは難しい。
 だけど、そこは人間同士。わかり合う努力をすればある程度のニュアンスは伝わる。
 
 "Amazing Grace"。
 素晴らしい、恩恵。『素晴らしい』を少しだけ強調するなら、『素晴らしきかな』くらいか。
 Grace は、恵み。神の、導き。天恵。
 この場合の訳は、訳者が自分の思いを押しつけるのではなく、
 カタカナで表現して、読者に語感を楽しませるのもいいかもしれない。
 
 ……天恵。神の恵み、か。
 
「……僕にとっての天啓は、香穂さんだったよ」
 
 僕は彼女が眠っていることを幸いに話しかける。
 いつも彼女には心に浮かぶことをありのままに話してきたつもりだったけど、
 イジけている自分は格好悪い、って自覚もあったから、僕という人格すべては伝え切れてないと思うんだ。
 
「……君が、いてくれたから」
 
 一度は音楽の世界から遠ざかった僕に、まだ居場所があると教えてくれた香穂さん。
 一緒にアンサンブルを組んだ仲間たち。
 細かなことはなに1つ言わない父だけど、高3の秋、今頃になって、ぽつりと呟いたことがある。
 
『葵。お前の転校は成功だったな』
『ふふっ。いきなりなに? 僕が器用だってこと、父さんもよく知っているでしょう?』
 
 笑顔で取り繕って適当に返事はしたけれど、父さんはなにもかもお見通しだったらしい。
 茶目っ気たっぷりに肩をすくめると、真っ直ぐに僕の目を覗き込んだ。
 
『仲間に恵まれて。自分と真摯に向き合っただろう?
 その経験は、必ずこれからのお前を助けてくれるよ。……私が、そうだったようにね』
 
 僕は香穂さんの白い首筋に口づける。
 香穂さんの隣りの席になったときから。
 いや。厳密にいえば、公園で彼女の音を知ったときからかもしれない。
 香穂さんからは優しげな香りが漂ってきた。
 その香りの源が、彼女の首筋にあると知ったときの僕の歓喜は、多分誰にもわからないだろう。
 
 やっと。たった1つだけど、知ることができた。
 ──── 誰も知らない、香穂さんに関する僕だけの秘密。
 
 
 
 僕はこれから彼女に対して行う、強引ともとれる行動に頭を熱くしながら、
 彼女の首筋に顔を埋めると、思い切り深く息を吸い込んだ。
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