『でも、ですね……。おれは今、1人ではないですし、彼女の都合も聞かないと』
『なるほど。得てして芸術家は早熟だという理論があるが、君もその一員と定義づけができるのだろう』
 
 『ヴァイオリンを聴いてくれるときの吉羅理事長は、とても優しいんですよ?』
 なんて、香穂ちゃんが言っていたことを否定するように、電話口の声は皮肉めいている。
 どう返事をしたらいいのかと考えていると、くぐもった声は断定的に結論だけを告げた。
 
『では、君の家族の分のチケットも用意しよう。帰国期間は任せる。これでどうだね』  
*...*...* Sholder (Ouzaki) *...*...*
「ごめんね、香穂ちゃん。突然帰国という話になって」
「いえ。私、本当に嬉しいんです。お父さんお母さんにも会えるし。
 乃亜ちゃんや須弥ちゃんや、大学のみんなにも会えるもの。……みんな、元気かなあ」
 
 いつもにまして香穂ちゃんの表情は明るい。
 おれと結婚をして。ウィーンの街で暮らすようになって、もうすぐ1年。
 日頃は寂しいとか、日本が恋しいとか、おれに訴えることはなかったけれど。
 香穂ちゃんはまだ二十歳を過ぎたばかりの女の子で。
 ほとんどの友だちが学生というポジションで、授業や恋愛、バイトなどで自由な生活を謳歌している中、
 ふと自分の立ち位置を振り返ることもあったかもしれない。
 
(……よく、決心してくれた)
 
 異国の街で暮らすこと。おれと結婚をすること。
 
 もちろんおれはこの生活を後悔したことは一度だってない。
 ……わかってはいるのに。
 心弾んでいる様子の香穂ちゃんを見ていると、……罪悪感じゃない、いや、罪悪感に近いのか。
 おれは香穂ちゃんのごく普通の生活を取り上げてしまったのではないかという思いが沸いてくる。
 だけど、香穂ちゃんと結婚したことに一片の後悔もない、我が儘な自分がいることも真実で。
 
 香穂ちゃんは風呂上がりの白い顔を上気させて、ぽすんとベッドに横たわった。
 
「明日はほぼ1日中フライトだし、今日は早く休みましょうってお話でしたよね?
 パスポートもチケットもOK……、と。帰国の準備も、OKです」
「ふふ。そう? ありがとう」
「じゃあ、信武さん。私、もう寝ますね? おやすみなさーい」
 
 今は、いい。
 二人きりといってもいい。日本の文化と隔絶された、この古い街で暮らしているなら、
 おれたちは、1つの遊びしか知らない子どものように、ヴァイオリンを弾いて、リンゴをかじり。
 オーストリア名産のAlmdudlerを飲んで毎日を過ごす。
 香穂ちゃんも、自分を振り返ったり、身近な友だちと比べたり、という心の動きに戸惑うこともないだろう。
 
 ……でも。
 帰国して。日本語の溢れる街でその空気を吸い、周りを見渡したとき。
 ──── この子はまた、おれのところに戻ってきてくれるだろうか?
 
 おれは眼鏡をサイドテーブルに置くと、香穂ちゃんの寝ているベッドに滑り込む。
 そして温かな身体を自分の胸に押し当てた。
 固いところがどこにもない身体。
 もしかしたら女の子って、実は骨までも柔らかいのかな。
 おれの身体の輪郭を見極めて、ぴったりと馴染む力があるのだろうか。
 香穂ちゃんを腕の脇に抱え込む。
 普段は肩に負担をかけないように、と、もっと下、脇腹の辺りに感じる息が、すぐ耳の横にある。
 
「ん……。信武さんの、肩……?」
「今日は、いいんだ」
 
 しなやかな髪。肩から続く細い腕。華奢な指にはなにも付いていない。
 その代わり、目を凝らして見なくてはわからないような細いプラチナのネックレスが、
 彼女の肌色を引き立てるように光っている。
 
「……君は、今、幸せ?」
「はい……?」
「おれといて、幸せ?」
 
 甘えるような、小さな声が情けない。
 これ以上ないくらい、近くにいて。
 結婚という糸で縛りつけていても、香穂ちゃんへの想いは止められなくて。
 きっと今、香穂ちゃんの中に自分の精を吐き出したとしても、それでもまだ足りなくて。
 
「信武さん……」
 
 そんな獰猛な思いも、彼女のたった一言で、穏やかに落ち着いていく。
 
 
 
 
「……ずっと、そばに、いますよ? ……信武さんの、そばに」
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