*...*...* Ears (Yunoki) *...*...*
「いよいよ、明日、ですね。……どうしよう、私、すごく緊張しています」
 
 クリスマスコンサートの前日。
 日野は大きく息をつくと、港の欄干を握って船が行き交うのを眺めている。
 何度も注意をしたからだろう。
 こいつはこの時期になって、ようやく自分の指を大切にするという自覚が出てきたらしい。
 ふわふわとした素材のベージュの手袋を身につけている。
 
「俺は、ちょっとつまらないかな」
「はい? つまらない……?」
「明日限りで、あたふたするお前を見ることができなくなるだろ?」
「うう……。柚木先輩、こんなときも からかうんですか?」
「当然」
 
 日野は丸い頬を膨らませて俺を見上げる。
 一応これで、怒っているつもり、らしい、けれど。
 やれやれ、怒るなら怒るで、もう少し『猛々しさ』や『神々しさ』を身につけて欲しいものだね。
 今のこの顔じゃ、懐に入れた仔猫が、もぞもぞと動いているくらいにか感じないんだけど。
 
 俺は日野の隣りに並ぶと、こいつが見つめていた船に顔を向けた。
 夜冷えが増した海岸で、灯りが満ちた船は、富や名誉、幸福、喜びのすべてを詰め込んで漂っているようにも見える。
 俺はふと、自分の中に浮かぶ感情が、今見ている船と似ている気がした。
 
「気負うことなんてないさ。いつものお前を出せれば、十分だよ」
「柚木、先輩……?」
「言い換えれば、お前が今更ジタバタ足掻いても無駄だってこと。
 せいぜい、この緊張感を楽しんだらどうだ? いい思い出になると思うぜ」
 
 俺の言葉が意外だったのだろう。
 日野はさっと目の縁を赤らめると、俺を見上げる。
 そして、それを恥じるかのように再び海の灯りに目を向けた。
 
 
『だいじょうぶだいじょうぶ』
 
 昔、妹の雅に読んでやった本の一節が浮かんでくる。
 主人公の『ぼく』が困ったり、怖いことに出会うたび、『ぼく』の『おじいちゃん』が、そのフレーズで励ます話だ。
 
『お兄ちゃま、もっと、読んで?』
 
 雅は、話の中の『おじいちゃん』の役を俺に求めていたのかもしれない。
 2度、3度読むころには、安心しきった顔をして ことんと眠りにつくのが常だった。
 
 束の間の凪が止み、海風が日野の髪をかき上げる。
 軽やかな髪の奥、朱く染まった耳朶が見える。
 欄干を掴んでいる腕が、少しだけ震えているのは、寒さからか。明日への不安か。
 
 俺は日野の頭に手を添えると、一歩前に近づいた。
 
「そうだ。おまじない、してやろうか? 演奏のとき、緊張しなくなるおまじない」
「え? そんなおまじないがあるんですか?」
「まあね。俺はお前より物知りだから」
「そ、それはそうだけど……。本当に?」
「ああ。……さ、お前はいい子だから目を閉じて」
 
 日野はこくりとうなずくと、素直にまぶたを下ろす。
 煙るように優しい眉と、それに続く鼻筋。
 うっとうしいほどの長い睫が、艶のある頬にさらに長い陰を作っている。
 
 心持ち開かれた唇は、なにかを言いたげに少しだけ震えている。
 俺は風に舞う朱い髪をかき上げると、耳元に唇を寄せた。
 
 金色の産毛が、柔らかな曲線を覆っている。
 耳元に注ぐ言葉は、本の中の一節。
 妹が慰められて。その実、俺自身が1番励まされた言葉。
 
「大丈夫。……俺がついている」
 
 甘い、味がする。
 耳朶をほんの少し舐めただけで感じるこの甘みは俺に、懐かしさとともに愛しさを連れてくる。
 ──── こいつの身体全部を欲しいままにしたら最後、俺はこいつに囚われてしまうかもしれない。
 
「ゆ、柚木先輩……っ。な、なに、したんですか!」
 
 こいつの反応は想定内。
 俺は澄ました顔で言い返す。
 ──── ほんの少しのからかいと、溢れそうになる愛しさを込めて。
 
 
 
 
「言ったろ? おまじない、って。……なに? お前。なにか不満でもあるの?」
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