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*...*...* Hotaru (火原x香穂子 ← 加地) *...*...*
「ふふ。夜の教室っていうのもなかなか一興だよね」
 
 つぶやいた僕の声が暗闇で反響する。たえず人の気配があるのが当たり前の場所が、こんな風に静まり返っていると、まるで自分が夢の中を歩いているような気さえしてくる。……そう、今の僕自身の存在も夢だったらいいのにね。
 
「あー、よかった。あったあった」
 
 僕は数百グラムの文庫本を手にすると、存在の重さを手で確かめる。最近は電子書籍も充実していて、版権が切れた本を求める僕もマイノリティに属しているとは思うけど、この紙で形作られた『本』という存在を僕はこよなく愛する。この本を読み終えるまで、僕はこの世に生きる権利をもらえているのかな、なんてね。
 
『太宰治』。破天荒に生き破天荒に亡くなった人。後生の文学者たちは彼のことを不幸だと決めつける人も多いけど、僕はそうは思わない。思いのままに生き、思いのままに死を選んだ彼を潔いとさえ思う。そうだ、彼の生き様を誰か小説にしてくれるといい。とはいえ僕自身好みが細かいこともわかっているから、いっそ自分で書くというのも面白いかもしれない。……とはいえ、しばらくは半年後の受験に集中しておいた方がいいのか。それとも自分の中に溜まっている鬱憤のようなものを文字という表記表現にぶつけるのもありなのかな。僕はしおりが挟んであるページを開いて安堵する。そこには『哀蚊』という言葉と、『=僕?』という書き込みがある。そう、本なんてわざわざこんな時間に取りに来る必要は無いのに、僕はこの書き込みが見たかったんだ。まあ、こんなこと自分以外の人間は理解できないだろうけどね。
 警備員に気づかれると面倒だよね、とばかりに僕は小さな灯りが灯っている正門前を駆け抜ける。見つかったときの彼に対する言い訳は簡単に思いつくけれど、申し開きをしている時間は取り戻せない。だったら見つからないのが最上の作戦だ。
 
「ねえねえ、香穂ちゃん。ホント? ホントに、星奏学院にホタルが出るの?」
「はい……。須弥ちゃんが見たっていうんです。あのひょうたん池の近くで」
「そうなの? 今日会えるといいね!」
「はい! あのね、友だちからもらったホタルを金澤先生がひょうたん池に放したんですって。でね、吉羅さんに見つかって、怒られた、って。『金澤さん、あなたはこの星奏学院の生態系を破壊するつもりですか? って」
「ははっ。金やんも相変わらずなのかなあ」
 
 夜闇にはそぐわない底抜けに明るい声と、それを縁取る優しい声がする。僕はとっさにコニファーの影に隠れると、2人の背を見送る。カラコロと響く下駄の音。闇の中でも白く浮かび上がる姿は、浴衣姿の香穂さん。それにジーンズとTシャツという軽装の火原さんだ。
 
 香穂さん。
 君と出会えて。君の音楽を知って。
 僕は君に会うためだけに、周囲の反対を押し切ってこの学院に来た。すべて僕が決めたことだし、君に今更どうこう言うつもりはないんだよ? 僕は、今でも、最善の選択をしたと信じてるし、後悔はしていないんだ。もし、1年前に今目の前に見える光景を知っていたとしても、僕はもう1度君に会うために同じ選択を繰り返す。それには自信があるんだ。
 ──── だけど、こうして目の当たりにすると冷静では居られなくなる自分がいることは許して。
 そうだ。2人を見たからといって、僕は僕の計画を変更する必要はない。まっすぐ家に帰ろう。そして、手にしている小説を読みながら太宰の人生に思いを馳せよう。そう考えている頭とは裏腹に、僕の脚は2人の後をある一定の間隔を保って追っていく。暗がりの中に浮かび上がる香穂さんは、白い蝶のように儚げで美しい。
 
「……おれさ、香穂ちゃんに会えて本当によかった」
 
 顔をすり寄せて、男が彼女の耳朶に言葉を注ぐ。彼女の声は聞こえない。聞こえないのは、彼女が照れて言葉を発していないから? それとも唇を塞がれているから? 規則的に鳴っていた下駄の音が止まる。僕の妄想の中の香穂さんが加速する。高校生は子どもであって子どもじゃない。大学生になればほとんどの人間が子ども時代のことなんて忘れていくだろう。だから、香穂さんがあの肢体を火原さんに差し出したのは、考えられない事象ではないということで。ああ、今、君の隣りに僕が居られたらどんなによかっただろう。
 再び2つの影は暗闇に向かって歩き出す。ぴったりと寄り添う影は蜜月を少しでも引き延ばしたいと願っているかのようにゆったりと歩を進める。目が不自由になると人はほかの能力を伸ばしていくって聞いたことがあるけれど、なるほどね。この闇の中、僕の耳は2人の仕草を冷静に聞き取り、僕の鼻は敏感に彼女の匂いだけを嗅ぎ分けていく。
 
『秋まで生き残されている蚊を哀蚊と言うのじゃ。蚊燻(かいぶ)しは焚(た)かぬもの。不憫(ふびん)の故にな』
 
 太宰の一節。この物語の主人公は美しい祖母に可愛がられて育つ。一生結婚することの無かった祖母は、それは美しく隠居芸者と囃され、だけどそれさえも笑い飛ばして生きていく。ただ美しいとばかり思っていた祖母はある日、孫娘の初夜を覗き込んでいた。という読後感がなんとも言えない小説群の1つ。隠居芸者といわれる奔放な祖母。子どもを自分で育てない母。どこか陰鬱な瞳をした主人公。僕は、この小説に生きる完璧ではない人間たちが好きだった。
 
(え……?)
 
 『哀蚊=僕?』
 『哀蚊』という言葉のトーンが気に入って、偶然書き散らした僕の言葉が今、現実になる。
 
「……香穂ちゃん、もう、おれ、辛抱できないよ」
「あ、あの! せっかくだもの、ホタル、見ましょう?」
「えー。ホタルってただの昆虫だよ? 香穂ちゃん、虫、苦手でしょ?」
「えっと、夜のホタルは特別っていうか……。その、ホタルの姿は見えないから」
 
 ふわりと1匹のホタルが2人の前を横切った。歓びと幸福で頬を光らせた彼女の横顔が浮かび上がる。白い浴衣とまとめ髪。その間から見え隠れする白いうなじは、ホタルの光を失ったあとも、僕の脳裏で光り続ける。
 
「わぁ……。1匹だけだけど見えましたね。火原先輩」
「うん! 見た見た。香穂ちゃんも見たよね?」
「はい。もちろん!」
「……だったらさ、今度はおれに付き合ってよ」
「はい? 付き合う、って……?」
「さっき言ったでしょ? もう辛抱できないって」
 
 男は僕の想像を超える素早さで、彼女の自由を奪っていく。
 ──── 僕は、どうすればいい。今から2人の前に出ることは不可能だ。このまま木の一部になって、身を潜め続けるしかないのかな。だけど僕は姿は木になれても、気持ちは木になりきれない。彼女の声も、吐息も、全部自分の中に取り込んで、自分自身の慰めにして。彼女を何度も汚すのだろう。
 浴衣を解く帯の音。途切れ途切れに聞こえる拒絶の声。その声に艶が乗り始めたころ、男の息も荒くなる。
 
「……嬉しいな。香穂ちゃん、今日もよく濡れてる」
「……お願い、そんなこと、言わないで……っ」
「どうして? おれ、嬉しくてたまらないよ。今日もおれを受け入れてくれてる、ってことだよね? 最初はすっごく痛そうだったから」
「……火原先輩は、ひどい。恥ずかしいことばっかり言うんだもの」
「うーん。ごめんね。香穂ちゃんのこと好きすぎて、勝手に言葉になっちゃうんだよね」
 
 どうしたら、いいかな。男はむっくりと半身を起こすとなにを思ったのか彼女の脚を持ち上げた。
 
「や、やだ、なに……?」
「ここ、舐めてあげる。気持ちよくなれば、恥ずかしいのも忘れられるよね?」
「ダメです。これ以上、したら……っ」
「気持ちよくなってよ。香穂ちゃん」
 
 一組の男女が草の上で睦み合う。なにかを咀嚼するような水音と、甘い蜜の香りが僕まで届く。僕は今、自分の下半身さえも制御できないのを感じる。
 もうしばらくしたら男は彼女の上で果てるだろう。そのあとは? 僕が彼女の中に入る。3人でしてもいい。彼女は許してくれるかな。男は? 今僕は正気なの? 妄想していることが夢なのか現実なのか、それとも太宰の小説なのか。僕は初夜を覗き見する哀蚊? わからない。わかっていることは、今まさに彼女が僕以外の男を受け入れようとしていること。
 
「……ああ……っ」
 
 甘い声が池の上を滑っていく。……絶望? 歓喜? 僕の胸に去来したものはどちらだったのかな。──── 多分、両方。僕以外の男を受け入れたことに対する絶望。彼女の声が聞こえたことに対する歓喜。ああ、これが、僕の身体を使って、彼女の声を聞いたなら、どんなにか幸福だったのに。
 
「ねえ、もっと顔見せて? こっち向いて」
 
 男は強引に彼女の顔を自分に向けさせると、下の口を塞いだように、今度は彼女の唇を自分のそれで覆おうとする。荒い息を繰り返す彼女は最後には男を受け入れると小さな喘ぎ声を漏らし始める。
 
「あ……っ」
「……ラッキー。可愛い香穂ちゃんがよく見えた」
 
 彼女の頬のすぐ横を、1匹のホタルが横切っていく。今、ほの見えた彼女の顔は、男の脳裏にも、そして僕にも、一生刻み込まれる予感がした。
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