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*...*...*  Hotaru (加地x香穂子 ← 柚木)  *...*...*
(来てよかった)
 
 美術品の展覧が終わった最後のブース。 俺は珍しくパンフレットを手に取ると場の空気を取り込むかのようなため息をついた。 『アートに生きた女たち』と銘打った美術展は、 そのタイトルのせいか女性の入場者が若干多い気がする。
 かつて女性は、絵画のモデルになることはあるとしても、絵師としてその名をとどろかせた人はいなかったと思う。女性にも芸術を。中世のヨーロッパが女性の力に目覚めたのはクララ・シューマンの才能を認め、生き方に賛辞を送ってからだという。"history"は、"his story"。『彼の、物語』。歴史が男の目から語られることが常であったことの名残だろうか。
 ブースには展示品にまつわる書籍とポストカード。人混みに紛れた一角には、 ガラスケースとその中に黒いベルベットが見える。 何気なく覗き込むとそこには、トンボや蝶々などの昆虫をかたどったアクセサリーが 見え隠れしている。いつもなら素通りするその場所で、俺はあるものに目を奪われた。繊細な造りと石の配置がいかにも洒落ていて、イミテーションであることを差し引いても、ただただ美しい。
 
「蛍でございますのよ? 宝石と昆虫、あまり取り合わせのないお品なのですが、 よろしければ女職人の仕事ぶりを見てやってくださいませ」
 
 黒いスーツを着た店員は親しげに俺に声を掛けてくる。
 
「確かに珍しいですね。女性は虫というモチーフをあまり好まないと思いましたので」
「いえいえ。この『蛍』を初め、こちらの『テントウムシ』も人気でございますのよ」
 
 当たりさわりの無い返事をしながら、俺は改めてケース全体に目をあてる。 ……なるほど。『昆虫』を模したととはいえ、虫特有の無骨さを取り除いたそれは、 ふと手に取りたくなるような匂やかさに満ちていた。 ……雅に買ってやるとしても、高校生になってからというもの、 あいつも好みがうるさくなったからな。なんなら明日一緒に観に来てもいい。
 
「……あれ? 柚木さん? 柚木さんじゃないですか!」
 
 背後から弾んだ声がする。俺のことを苗字で呼ぶ人間はここ大学に入ってから増えたとは思うけど、この声は聞き覚えがある。俺は心の中で小さく息をつくと振り返った。
 
「やぁ。加地くん。卒業以来かな? 久しぶりだね」
「こんにちは! 柚木先輩」
 
 俺の目は、声を掛けてきた人間より先に日野の姿をとらえていた。 こいつの好みかそれとも加地の好みか。 淡いピンクのカーディガン、エンジ色のスカートの日野は、いかにも秋らしい装いで、 元来華やかな容姿を持った加地の隣りにいてもなお、人の目を引く愛らしさだ。
 
「ああ、なんだ。君も来ていたの? 久しぶりだね」
「はい! どうしても観たいって思う作家さんがいて。今日は無理を言って加地くんに付き合ってもらったんです」
「彼女が観て、聞いて、感じたことを、内側で昇華してくれたら、僕はなんでも」
 
 いいんです、と男はこの上なく幸せそうな顔をして笑う。艶やかに光る頬は、 俺が在学時に見ていたものとはまた違い、今のこの男の精神状態を知るのには充分だった。  この男は今現在、日野との付き合いに充分満足しているのだろう。 日野の心だけではなく、身体をも手に入れて。日野の全部を自分のモノにしたと確信しているのだろう。
 俺は、普段どおりの笑みを作るとさりげなく日野の様子を伺う。高3の9月。 俺が卒業してから半年で、女というのはこれほどまでに変化するものなのだろうか。 元々表情豊かなヤツだったが、今日の日野は笑顔の周りに陰影が縁取り、大人の奥行きを見せている。──── この俺をも惹きつける魅力がある。
 
「あ、っと……。ごめん。ちょっと父さんから電話。香穂さんはこのままここで待ってて? すぐ終わらせてくるから」
「うん、待ってる」
「じゃあ、柚木さん、これで。今日は会えて嬉しかったです。ふふっ、本当ですよ?」
 
 どこまで本心かわからない微笑を浮かべて、加地は俺の返事を待つことなくそそくさとその場を 離れて行く。日野は男の背中を少しだけ目で追いながら小さく息をつくと、改めて俺を見上げて微笑んだ。
 
「火原先輩はよく星奏に来てくれるから、元気かどうかはすぐわかるんですけど、柚木先輩はなかなか来てくれないから……。今日は会えてよかったです」
「……そう」
 
 気の抜けた返事は自分のものとは思えないほど頼りなくて、 雑踏の中に消えていきそうなほど掠れている。俺は気づかれないようにそっと下唇を舐めた。
 
「ちょっとこっちにおいで」
 
 そしてブースが混み合ってきたことを理由に日野を壁際へ連れていく。加地が出て行った方向からはちょうど死角になっているが、まあ、慌てるあいつも見物かもしれない。
 
「……なんだかんだとあいつと上手くやっているわけね」
「え? あ……、はい。……なんだか申し訳なくて」
 
 日野は歯切れ悪くうなずく。こいつを縁取っている陰影。かげり。それが『申し訳ない』という言葉に凝縮されているような気がして、俺は水を向けた。
 
「なに? 申し訳ないって」
「その……。加地くん、なんでも私に合わせてくれるんです。その、たまには加地くんにも我が儘を言って欲しい、かな?」
「…………」
「天羽ちゃんには『ノロけないノロけない!』って言われるし、私もなにかイヤなことをされるわけじゃないから……。でも」
「なるほどね。だから『申し訳ない』って?」
 
 日野は眉毛を大きく下げてこくりとうなずいた。
 解釈の難しい曲想を考えているとき、思いどおりの音が作れないとき、 日野はよくこんな顔をしていたのを思い出す。 そして、日野にとって、俺にとってよりよい打開策を考えることを俺自身、とても楽しんでいたことも。
 
「加地はやめて、今度は俺と付き合うか?」
「はい? な、なに言って……」
「簡単。お前、我が儘言われたいんだろ? 我が儘言われて、振り回されたいんだろう?」
「それは、私……」
「俺がお前のこと、さんざん振り回してやるよ。恋愛も2度目なら、だいたい手順もわかるだろ?」
 
 俺は壁際に日野を追い詰めると、こいつの肩に顔を埋める。 以前……。そう、俺が3年になったばかりのころ、か。 俺はこいつのセレクション参加を辞めさせるために、こうやってこいつを責め立てたことがあったな、とぼんやりと思い出す。あのときと違うのは、俺の気持ち。……このままこいつを加地のモノにしておくのは惜しい、という想いだ。
 
「ちょ……。やだ、柚木先輩。冗談は止めてください……っ」
「へぇ。冗談って思うんだ? もし俺が本気だったらどうするつもり?」
 
 優しい匂いが鼻孔をくすぐる。視界の端に、こいつの朱い髪が見え隠れする。
 俺が今もし、手に入れたくて入れられなかったものはなにかと聞かれたら、一も二もなく『音楽』と答えるだろう。家の方針、祖母の監視下の元、俺は今、柚木の家のために法学を学んでいる。どの分野に対してもある程度の順応性があるのが俺の才能と言えば言えなくもないが、法学について俺はそつなく、いや、このまま行けばトップレベルで卒業することもできるだろう。どれほど願っても叶わない。それは音楽であり、日野であり。もう取り戻すことも叶わない、高校時代の生活そのものなのかもしれない。
 唇が耳をかすめるか。舌が首筋を伝うか。なにかしらの手順に身体を固くしていた日野は、俺が肩に顔を埋める行為が先に進まないことを感じたのかふっと身体の力を抜いた。
 俺は日野の赤らんだ耳に2度鼻先をこすりつけると、そのまま顔を上げる。
 
「今日はここまでにしておいてやるよ。俺のことがあいつとの喧嘩の種になるのも面白くない」
「び、びっくりした……。柚木先輩、冗談のレベルがグレードアップしています……」
 
 日野としてはなんとしても俺の行為は冗談だったと結論づけたかったのだろう。 何度も髪を手でなでつけると涙目で無理に笑顔を作っている。
 
「まだお前、そんなこと言ってるの? ……じゃあ、ここからは本気。ちゃんと俺の話を聞け」
 
 さっき観た絵画の彩りが。雑踏が、加地の顔が遠くなる。
 日野だけが俺の全部に満ちてくる。
 
 
 
「……あいつと一緒にいて辛いことがあったら、いつでも俺のところにおいで。わかった?」  
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