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*...*...*  Hotaru (吉羅x香穂子 ← 金澤)  *...*...*
 
「よぉ。マスター、また来ちまった」
「いらっしゃいませ。今日はお知り合いさまもいらっしゃっていますよ?」
「は? 知り合い?」
「……とはいえ、今日は女性のお連れさまもご一緒ですから……」
 
 最近よく足を運ぶようになったバーのマスターは小さく笑って目配せをする。
 5人が肩を寄せ合ってなんとか座れるか、というくらいのカウンター。それに、こちらからは死角になっているボックス席が3つ。こじんまりとした店内は薄暗く、まだ外には陽明かりが残っているというのに早くも夜が始まっている。
 出しゃばりすぎない、かと言って、だんまりを決め込んでいるわけでもない。いわゆる居心地がよいこのバーに足を運ぶようになってから、かれこれ1ヶ月。
 すっかり顔馴染みになったマスターは俺におしぼりを手渡しながら、いよいよ梅雨も明けるころでしょうか、と独りごちる。
 
「まあなあ。雨上がりの川面は、活きのいいヤマメなんかが、口開いて待ってるんだがなあ」
「……となると、金澤さんにとっては梅雨は明けないほうがよろしいようですね」
「はは。そうなるかな」
 
 チェロやヴァイオリン。弦楽器の人間の多くは湿気をあまり好ましく思わないようだが、こと声楽に一時期でも脚を突っ込んだ俺としては、案外湿気っていうのは喉にとってありがたい、なんて思ったりもする。
 俺の場合は、あまり傘も使わないし、雨降りだからって荷物もたいして増えないし。別に取り立てて不便もなにもないんだよなあ。
 
「俺の知り合い、っていったら、吉羅か?」
「ご名答でございます」
「ははっ。まあなあ。俺がこの店を紹介した人間は吉羅だけだからな」
 
 店内には、おとなしめのシャンソンが心地よいテンポで流れている。ジントニックを淹れるマスターの指先を見つめながら、俺は思いを巡らした。
 吉羅の連れている女性が、俺の知っている女なら、まあ、いいだろう。酒のツマミにチャチャを入れてからかってやればいい。
 ……それで、だ。俺の知らない女だったら……。さてどうするか。河岸を変えるか。
 可愛くないあの後輩は、俺の非・品行方正ぶりを叱るが、俺から言わせれば、あいつこそ今の落ち着きぶりが信じられないほどの放蕩ぶりだったことをすっかり忘れてるんじゃないか? って言い返したくもなるくらいだ。
 初めは姉の美夜が亡くなったこととリンクさせては同情していたが、あいつに冷たくされて、俺に泣きついてくる女の数が5人を越えたとき、かなり真面目に意見したっけな。
 
『なあ、吉羅よ。女ってのは寝ると執着が深くなる。遊ぶのはいっこうに構わん。だが、簡単に寝てやるな。可哀想だろうが』
『……余計なお世話ですよ、金澤先輩』
『おいおい、お前さんなぁ……』
『とはいえ、一応金澤先輩にご迷惑がかかっているのなら問題と言えなくもない』
『お? だろ−? お前、物わかりがいいなあ。だったらさ……』
『──── 金澤先輩が、女たちを引き取ってくれればいい。違いますか?』
『冗談言うな。それこそ可哀想だろうが』
 
 そんな後輩も、日野という恋人を得て以来、目を擦りたくなるくらいの変身ぶりだから恐れ入る。さらに面白いことに、見ている限り、吉羅の方があいつを追いかけている格好、となっている。
 ま、別れてしまえと願うつもりはさらさらないが、あいつも少しは日野に振り回されてて、女を追いかける苦労をしてみるといいんだ。
 
「これはこれは金澤さん」
「お? お?? あ、ああ。吉羅の方から来てくれたのか。……とと」
「こんばんは、金澤先生」
「おー。やっぱりお前さんか。なんだなんだー? 未成年が、こんなところで」
 
 日野は恥ずかしそうに微笑みながら、ぺこりと頭を下げる。
 薄い水色のワンピースと、品のいいベージュのハイヒール。ほっそりと形のいい脚が薄闇の中、艶めかしく輝いている。細い足首から続くふくらはぎ。膝から上は瑞々しく、触れたらどんな甘い感触を返してくるだろう。
 こいつが卒業して約2ヶ月。なるほどね。女っていうのは少しずつ薄皮を剥ぐように綺麗になるんじゃない。ある日、陽炎が羽化するみたいに一気に大人びるんだ。
 ……ということはなんだ? 吉羅の品行方正ぶりも継続中、というわけか。
 俺は複雑な思いで2人を盗み見る。日野のような素直なヤツを恋人にするというのはどんな感じなのだろう。真綿が水を吸うように俺の助言を吸収したこいつのことだ。いわゆる男の無理や我が儘も、戸惑いながらも受け入れてくれるんじゃないだろうか。
   ……受け入れる、か。2人の作り出す空気からして、もう、こいつが吉羅を受け入れたのは確実だろうな。
 
「社会見学ですよ。大学に入ったからといっていきなりハメを外されるのも気がかりなので。……もちろんグラスの中身はアルコールじゃない。オレンジジュースです」
 
 伏せ目がちにグラスを磨いていたマスターは、小さく頷くと、新しいグラスを手に取り磨き始めた。
 
「私たちもこちらに合流しても?」
 
 しっかりその気だったのだろう。吉羅は背の高い2つのグラスを手にしている。
 グラスを伝う水滴が、男の指先をしっとりと湿らせている。昔、女を泣かせ、女を落胆させた指は、今は女の涙を拭うこと、女を濡らすことに使われているのだろうか。
 
「金澤さん。どうかしましたか?」
 
 吉羅が今、一番大切にしている秘蔵っ子だ。俺からもそして、これから新しく来る客からも守るために、壁際に配置するのかと思いきや、意外にも吉羅は、日野を俺の隣に座らせた。……もっとも、日野の隣には保護者然とした吉羅がいる。
 
「あ? あー。悪い悪い。邪(よこしま)なことを考えてた」
「ほう。それはそれは。後学のためにぜひ聞いてみたいものですね」
「やめとけ。こいつには刺激が強すぎる」
「お話中失礼いたします。……お嬢さんは蛍を見たことは?」
 
 めったに客の間に口を挟まないマスターが、申し訳なさそうに会話に入ってくる。……とはいえ、これは答えに窮している俺への助け船という感じがしなくもない、か。なにしろ吉羅ときたら、よく言えば理論的、悪し様に言えばとにかくしつこいからな。
 
「私、生き物が好きなんですけどね。こういう仕事をしていますと、なかなかペットが飼えません。犬は好きだけど散歩ができない。猫も好きだけれど、アレルギー持ちには難しい。消去法から、私、最近は昆虫に興味が沸きましてね」
「昆虫、ですか?」
「今日羽化したのです。よろしればお三方でご覧くださいませ」
 
 吉羅はどうする? と言いたげに日野に目配せをしている。日野は『虫』という言葉に不安げに頷くと、少しだけ吉羅寄りになる。俺たちの顔を見て、マスターは照明の明度を落とした。
 
「……わぁ……! 蛍、でしょうか……?」
「そうでございます」
「吉羅さん、……すごく綺麗です。私、蛍をこんな近くで見るの、初めてです!」
「ほう。ちゃんと光るものだな」
「ゲンジボタルだな。こりゃ丹精してるなぁ」
 
 俺が一目で品種を言い当てたからか、マスターは目を輝かせて説明を始める。卵から孵化まで。適切な温度について。産卵について。木訥と語るマスターの前、吉羅は恋人の耳に小さなメッセージを注ぎ込む。時折頷くこいつの声が、微かに震えてるのを聞いて、俺は密かにマスターに同情する。男の機微にまだ慣れきってないこいつが、自分の膝上を這い回る男の手を素知らぬ風に対処できる日はいつのことだろう。
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