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*...*...*  Hotaru (王崎x香穂子 ← 月森) *...*...*
(──── 重い)
 
 暗く鉛色に垂れ下がった空を見て、俺は心の中でため息をつく。 重いのは、空なのか。屈折した俺の思いか。
 
『No! レンの音は独りよがり。Passionに訴えてこないんだ。 そんな音は機械に任せておけばいい。 あいつらは人間に忠実に人間の指示の通りしか動けないんだからね』
 
 午前中のレッスンのProfの言葉が耳にこびりついて離れない。
 街全体が灰色一色に染まる季節のウィーン、郊外の公園。
 この街に留学したばかりのころも、たしかこんな空色を見たが、 ちょうど春を迎える季節だったからだろう。 空は日1日と薄い膜をそぎ落とすように明るくなったから、 俺はその変化を楽しんでいたといってもいい。
 夏は夏で、彼女に送ると約束した絵ハガキのような空が街全体を包み込んで、 俺を幸せな気持ちにしてくれた。彼女が王崎先輩と付き合っているという話を聞いたのはそのころ。 だけど俺には穏やかな気持ちだけが残っていた。恋人という脆い絆よりも、ともに音楽を愛する 仲間としての関係の方が、ずっと価値があると思っていたからだ。
 だが秋から冬に変わる今の季節は、どういうわけか底が見えない恐怖のような感情に囚われてしまう自分がいる。 このまま灰色の影が濃くなり続けたら、どうなるのだろう。 この街はすべての喜びを失った暗黒の世界になるんじゃないだろうか。
 俺はベタつきを残さぬよう、それでいて余韻を含ませるように最後のフェルマータを心持ち長く伸ばすと、そっと肩から愛器を降ろす。 モーツァルト作『アイネ・クライネ・ナハトムジーク』。弾き慣れて、聴き慣れている曲のはずなのに、弾いたら弾いただけ新しい発見がある曲だ。
 
「ブラーヴィ! 月森くん、また上手くなったね。固い音が抜け落ちて、今は柔らかな音で満たされている。君はどこまで上手くなるんだろう」
「ありがとうございます。……あの、王崎先輩」
「うん?」
「本当によかったのですか? ……香穂子が来ているときに」
 
 こんな風に俺を入れて時間を過ごしていて。
 と言いかけの言葉を口の中に戻すと、パチパチと手を叩いていた彼女は不思議そうに俺を見上げた。
 
「どうして? 私が2人の演奏を聴きたい、って無理言ったんだもの。 ……ごめんね、圧倒されちゃって言葉が出なくて。 たった半年で、音ってこんなに変わるのかな……」
 
 香穂子は秋の連休を上手く利用して、ウィーンにいる王崎先輩を慕って遊びにきた、ということらしい。
 もっとも『遊び』とはいうものの、2人の雰囲気はよくいるカップルのように恋愛をベースに したものではなく、今の音楽のようにどこか軽快で、開放的だった。 音楽にまつわる複数の人と逢い、語り、ともに演奏を楽しむ。思いをぶつけ、感想を言い合う。 そしてまたヴァイオリンを肩に乗せる。 彼女の様子は、音楽の街ウィーンに来て半年過ごした俺よりもむしろ ずっとたくさんの知識を吸収するのではないか? と思うほど活動的で楽しげだった。
 
「俺の音は変わったのだろうか? ……ウィーンにいてたくさんの刺激を受けたとは思うが、自分ではよくわからない」
「んー。言葉で表現するのは難しいけれど……。私は、『優しい』って思ったかな。ね、王崎先輩」
「『優しい』……そうだね。なにしろ月森くんは基本が完璧にできている人だからね。 あとは感情が乗れば、どんな曲だって弾きこなせる。 これから先、きっと世界中に君のファンが増えるだろうね。 そんなシーンが目に浮かぶよ」
「ありがとう、ございます」
 
 星奏学院にいて、いや日本にいて。音楽一家といえる両親の元、一人息子として生まれた俺は 物心ついたころには、音楽は自分のすぐそばにいた。いることが当たり前だった。 どんな人間も俺のヴァイオリンを褒めてくれた。 それを俺は当然のものと受け止め、特に嬉しいとかいう感慨はなかった。 コンクールは自分への挑戦。自分の目指す音を作ることができれば、結果は必ず付いてくる。 そう思っていた。
 だけど、その身勝手な自信は、ここウィーンに来て見事に打ち砕かれた。
 
『レン、君の音は独りよがりだ』
『君は、『自己満足』という言葉を知っているだろうか?  君のマスターベーションに観客はついてくるだろうか?』
 
 辛辣な言葉は、ときに俺を苛立たせ、深く傷つけた。 澱のように溜まった言葉は、凶器になって押しつぶされそうだとさえ思った。
 
「王崎先輩、香穂子……」
 
 安易な優しさが音楽を育てるわけじゃない。 その想いはともすれば向上心というベクトルに甘えを生んでブレーキの役割を担うこともある。 なのに。
 香穂子。それに王崎先輩も、ウソを言う人間ではない。昔からとてもよく知っている人間。知己。
わかっててはいても、素直な、裏の無い、真っ直ぐな賛辞がこれほどまでに自分を嬉しくするとは。
 あまりの手放しの褒めように、抑えようと思っていても目頭が熱くなる。
 熱を持った頬の存在に気づかれたくなくて、俺はそっぽを向く。 2人から俺の態度はどう映るだろう。 少なくとも俺の本質を知らない相手から見たら、俺は礼儀を知らない非常識な人間に見えるだろう か。ここでまた俺は彼らに甘える。 できれば俺のこの態度をわかってて欲しい。 不機嫌で不機嫌な顔をしてるんじゃない。むしろその逆。 大きすぎる喜びが俺を不機嫌に見せているということを。
 香穂子は膝の上に置いてあったヴァイオリンを持ち上げると、いそいそと肩に乗せた。
 
「月森くん。今度は私も一緒に入れてもらってもいい?」
「……ああ、もちろん」
「……えへへ。今、私、最高に幸せ者かも。国際コンクール優勝者と、未来のホープの2人と演奏できるんだもの」
 
 香穂子の言葉に王崎先輩は一瞬目元を柔らかくしたあと、 マリアに祈りを捧げるような敬虔な目をして彼女の顔を覗き込んだ。
 
「香穂ちゃん?」
「はい……?」
「──── 君はきっと上手くなる。今よりずっと上手くなる。だから安心しておいで。俺たち2人で待ってるから。……ね? 月森くん」
「ええ」
 
 この街にいると、日本の夜がいかにまぶしく光に満ちていたのかを知る。 晩秋の夕暮れ。街灯は恥じるようにぽつりぽつりと光り始める。 一般の住宅も『太陽の光を最後まで楽しむ』という考えが浸透しているからか、灯りが点いている家はほとんどない。
 手元が暗い。正しく弦を追えるのか、心許ない。 だがたまには王崎先輩の原点、『音楽を楽しむ』ことを主体として考えるのも悪くない。
 
「さっきの2人の演奏が素敵だったからかな。今日はモーツァルトがいいなあ」
「そうだ。香穂ちゃん、アンサンブルでモーツァルト、弾いてたよね。その中で選んでみる?」
「うーん……。アンサンブルのモーツァルトっていうと……」
「交響曲40番はどうだろうか? 季節的にもこの街に相応しい気がする」
 
 懐かしい旋律が浮かんでくる。あのときは、加地もいた。志水くんも、柚木先輩もいた。 何度も音を合わせて、意見を合わせて。美しい旋律が流れた思い出は、今も俺の中にある。 確実に存在して、今の俺を成形している。
 
「了解。じゃあ、俺はヴィオラに持ち替えようかな?」
 
 王崎先輩は手にしていたヴァイオリンを手放すと、きびきびとヴィオラの用意をする。 俺と香穂子、俺たちの共演を盛り立てようという考えらしい。 ……こういうところが、この先輩をますます高名にしていくのだろう。そんな確信が生まれる。
 
 大まかな曲想を決めて、出始めの音を合わせる。周囲にはもう人はいない。さっきよりも灯りの数を増した街が俺たちの観客だ。
 
「わぁ……。ホタル、みたい」
「ホタルって? 香穂ちゃん」
「あ、ごめんなさい。この夏ね、ひょうたん池にいっぱいホタルが来たんです。 今見てる景色くらい、きらきら光って綺麗だったんですよ? ……私、ずっとホタルを相手に練習してたの」
 
『私、ずっとホタルを相手に練習してたの』
 
 香穂子の言葉を耳朶に閉じ込めながら、俺たちはゆっくりを弓を動かし始めた。
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