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*...*...*  Hotaru (志水x香穂子 ← 王崎) *...*...*
「ダメです。香穂先輩、もう1度。……ピチカートを響かせてください」
「えっと、……こう?」
 
 柔らかな音が森の広場一面に広がる。ややプレスが弱いのが欠点といえばいえなくも ないけれど、これはむしろ好みの問題かな。素直な、これからもっと上手くなりそうな優しい音だ。
 おれの目に映る白い背中は手厳しい。彼女の動きを手で制すと静かにかぶりを振った。
 
「違います。今の香穂先輩に足りないのは正確性です。旋律を追いながらたえず頭の中でメトロノームを鳴らしてください。この場合はアンダンテ。香穂先輩、『アンダンテ』の意味を知っていますか?」
「アンダンテ……。よく言うよね。70くらいの速さだよね……」
 
 志水くんと香穂ちゃん。2人が付き合い初めてかれこれ半年くらい経過しているのかな。 それなのに2人の間の空気はぴりりと厳しく、まるで師弟の間柄のようだとふと思う。 どうなのだろう。──── 香穂ちゃんはこういう彼氏で満足しているのかな?  頼りたい、とか甘えたい、なんてことはないのだろうか?
 香穂ちゃんが高2の冬。おれは香穂ちゃん率いるオーケストラの上演を聴いてそのまま ウィーンへと飛び立った。ときどき交わすメールの中で、香穂ちゃんが志水くんと付き合い始めた ことを知った。ショック? 後悔? 諦め? いや、そもそもおれは香穂ちゃんのことをどう 思っていたのだろう。可愛い後輩? 気になる存在? よくわからない。 ただ志水くんとの話を聞いて感じたのは、空虚感。あるべきはずのものがあるべき場所に いないという空白感だったかもしれない。
 
「こんにちは。二人とも熱心だね。こんな時間まで練習?」
「王崎先輩!? 本当に……? わ、あ、あの、いつ日本へ?」
「今日の昼過ぎ。ちょっと大学に顔出して、その足でここに来たんだ。ちょっと吉羅さんに挨拶がしたくて」
「……こんにちは。王崎先輩」
 
 話の途中に割り込まれたことに多少の不満もあったのかな。 無表情な志水くんの顔からは感情が見えない。 だけど、おれがヴァイオリンケースを持っていることに気づいた途端、 彼の顔はみるみるうちにほころんでいく。……そう、か。彼の第一優先は今でも音楽で。 だけどこうして彼女のことも手に入れて。 もし、今彼に、音楽と彼女とどちらかを選べといわれたら彼はなんて答えるんだろうと考えてみる。 そんな方向性が違う質問というのをおれは一番苦手としているのを知り尽くしていたとしても、だ。
 
「王崎先輩、そのヴァイオリンは……?」
「ああ、これ? これはウィーンの音楽院で貸与されたものなんだ。よかったら見てみる?」
「……はい。ぜひ」
 
 おれはひょうたん池の近くのベンチでヴァイオリンケースを開くと、あとは彼の好きに任せる。 人の楽器というのは楽器を演奏している人間としては一番関心があるものの1つだ。 どんな意匠で、どんな木を使い、どんな板を張って、弦はどこのメーカーで。 こういうことをひどく隠したがる人間もいるけれど、おれはまったく平気だった。 むしろこのヴァイオリンの佇まいが彼の刺激になればいいとさえ思う。
 香穂ちゃんはといえば、そんな志水くんの背中を見守るように見つめている。おれは内心のいらだちを隠すようにしていつもの口調で話しかけた。
 
「香穂ちゃんも受験までもう少しだね。きみはなにかビジョンはあるの?」
「あ、はい! 一応、星奏学院の附属大学に行けたら、って思っています」
「そう……。その先は?」
「先、ですか?」
「そう。たとえば、留学とか。一度、心が柔らかいうちに海外の経験を積んでおくのもいいとおれは思うよ。視野が広がる。音も広がる。メリットの方が多いとおれは思う」
「はい……。ときどき月森くんからもメールが届くんです。彼も今の王崎先輩と同じことを言ってました」
「でしょう?」
「……受験が終わったら、真剣に考えてみようかな……」
 
 香穂ちゃんはちょっと目を細めて遠くの柊館に目をやる。 その仕草は、まるで見えない未来を見つけ出そうとする姿にも似て、 おれは一瞬その横顔に見とれる。白さを増した額と、それに続く高くもなく低くもないすっきりとした 鼻梁。赤味を帯びた唇はちょっと触れたくなるほど可愛らしい。 ──── ずっと見慣れてた後輩だった。リリから魔法のヴァイオリンをもらって、 おっかなびっくりの顔でヴァイオリンを肩に載せてた子。 ヴァイオリンが壊れちゃったと泣いてた子。あれから1年の時を経て、 今彼女はヴァイオリンと共に生きようとしている。
 
「ねえ、香穂ちゃん……」
 
 もしよかったら、ウィーンに来る? 来たらきっと気に入る。 おれがウィーンに行ってから1年と少し。ウィーンにいてね、なんてことないおりに思うんだ。 街全体がオレンジの飛沫で染まる夕焼けや、東の空に微かに残るオーロラを見たとき。 今、隣りにこの子がいたらどんなにか幸せだろう、って。立派なことを話したいんじゃない。 難しいことを語り合いたいんじゃない。ただ、『綺麗だね』と話しかける相手。『本当に』って頷いてくれるきみがいたら、どんなにかいいだろう、って。
 だけど、今、きみは日本にいる。志水くんという恋人とともにここにいる。
 
「王崎先輩、お願いがあります」
 
 全体のフォルムを見、おれに断ってペグを巻き、弦に触れ、肩に乗せ。触れてないところはどこにもないだろうと思うくらい熱心にヴァイオリンに触れていた志水くんはすっと顔を上げると、まっすぐな目でおれを見る。
 
「今から、香穂先輩と一緒に3人でスタジオに行きませんか?」
「スタジオ?」
「あ、はい……。最近ね、日が暮れるのが早いでしょ? 私の家には防音の部屋がないから、最近は、志水くんと2人で駅前のスタジオを借りてるんです」
「うーん。でも、おれが入っていいのかな?」
「はい! 王崎先輩の都合がよかったら、ぜひ来てください。3人で一緒に演奏したいです」
 
 いつも2人で練習しているというところに少しの遠慮を感じて、 おれは2人を交互に見つめた。志水くんはおれの問いかけこそ疑問だったらしく、 不思議そうにおれの顔を見つめている。香穂ちゃんは微笑みながら志水くんを見、おれを見た。 彼女の微笑みは暮れかかった夕闇の中、周囲を照り返すような明るさがあった。
 
(きみが、幸せならそれでいい)
 
 きみが今、志水くんのものであっても。1週間後、きみは日本に。おれはウィーンに隔たっていても。それで、いい。おれはいつだって、きみとこうして音楽で繋がることができるんだ。
 
 
「……うん?」
 
 視界の端っこを小さな光が飛んで行く。香穂ちゃんは、おれの視線の先を見て、くすくすと笑いながら説明を始めた。
 
「たぶん、ホタルだと思います」
「ホタル? この時期に?」
「はい。夏休み前に、金澤先生がこのひょうたん池の周りにホタルを放したんですって。それがまだ生きてるのかな?」
「でもね、香穂ちゃん、ホタルって……」
 
 おれはかいつまんで説明する。ホタル。今、昆虫採集に夢中な下の弟が饒舌に話していたものそのままの受け売りだけど、彼女は興味深そうにおれの話に耳を傾けてくれる。ホタルはある程度の温度と湿気がないと育たないこと。日本も9月になったら産卵を終えてほとんどの個体が死んでしまうこと。ウィーンにはホタルをはじめあまり昆虫がいないこと。
 
「そうなんですね……。それはちょっと残念かも」
「そうなの?」
 
 予想外の反応におれは改めて香穂ちゃんを見つめる。女の子って虫嫌いだって思い込んでいたけど、それはおれの思い込みだったのかな。香穂ちゃんはひょうたん池を指差す。
 
「夏休みが終わるころ、このあたり、ホタルがいっぱいですごく綺麗だったんです」
「そうです。香穂先輩と、昆虫には音楽を聴く力があるんじゃないかって話になって」
「だってね、志水くんのチェロの方が、私のヴァイオリンよりもずっとたくさんホタルが光るんです。 まるで拍手するみたいに」
 
 彼らは楽しそうに話し続ける。ホタルたちが音楽に惹かれる理由は何か? 音階か。旋律か。速さか。ああ、そうだ。さっきの話の続き、『アンダンテ』は『歩くくらいの速さ』という意味です。身体でちゃんと覚えると忘れにくいです。やっぱりチェロの重厚な音が、ホタルのお腹に響くんじゃないでしょうか? そうだ、昆虫の身体って空洞だから、共振するのかな。などなど。
 ホタルはチェロの音域に惹かれるのだ、と結論づけた志水くんに不満があったのか、香穂ちゃんは残念そうに口端を噛んだあと、そうだ、と言わんばかりにおれに顔を向けた。
 
「そうだ。王崎先輩、来年の夏、ぜひまた日本に戻ってきてください。一緒にヴァイオリン組で戦いましょう。私のヴァイオリンでダメでも、王崎先輩のヴァイオリンならきっと負けないもの」
「香穂先輩は、意外に負けず嫌いですね」
 
 2人は嬉しそうに笑う。それに釣られるようにしておれの中にさっきと同じ感情が浮かんでくる。
 ──── 音楽と、この空間と。彼女といろいろなものを共有しているおれはやっぱり幸せなのかもしれない。
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