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*...*...*  Hotaru (月森x香穂子 ← 衛藤)  *...*...*
「香穂子、それに、お前……」
「衛藤、だったか。香穂子からよく話は聞いている。……元気でやっているのか?」
 
 さりげない風を装いながらも、かすかに俺の声は裏返る。情けない。なに俺、こんなに動揺しているんだ? 普段の俺が見たことない、香穂子の甘い表情に? それとも、こいつの横に堂々と立っていられる男に対するJealousyなのか? もし『Jealousy』がyesなら、その先はどんな風に分岐している? 才能への嫉妬か。気に入りのおもちゃを取られたような焦燥感か。瞬時にそれだけのことを考えながら、考えれば考えるだけ複数の解が存在するような気がして、俺は途中で思考の糸を引きちぎった。今、俺の前に立っているのは、はにかむような笑みを浮かべた香穂子と月森の2人。彼らは大事そうにヴァイオリンケースを抱えている。香穂子が身につけている水色のワンピースは月森の髪色にも似て、こいつらからは爽やかな初夏のような風が吹いている。
 来客があるというのに、工房のじいさんは俺のヴァイオリンに夢中だ。コリコリと弦を巻いては耳を澄ませている。
 
「衛藤くんも、ヴァイオリンのメンテナンスに来たの?」
 
 香穂子はそんなじいさんに眼を細めると、そっと作業台の上にヴァイオリンを置く。月森はといえば、このヴァイオリン工房の古くからの客なのだろう。じいさんの態度に頓着する様子もなく香穂子のヴァイオリンの隣りに自分の愛器を置いた。……つまり、月森は俺と同じ、小さいころからの付き合いってことか。
 俺は香穂子の問いかけには答えずに別のことを尋ねた。
 
「今日は月森とデートか?」
「え? そ、その、月森くん、夏休みを利用してウィーンから戻ってきたの。だから、ウィーンの話を聞いたり、ヴァイオリンの話を聞いたりして」
「そういうの、デートって言うんだろ?」
 
 俺が入学してからというもの、月森の話はそれこそ聞き飽きるほどたくさんの話を聞いた。君は月森の再来だとか、天才が去ればまた次の天才は神が用意するだとか。日頃めったに人を褒めることをしない暁彦さんでさえ、月森のこととなると饒舌に言葉を並べる。それが賛辞に満ち満ちたものではなかったとしても、これは暁彦さんなりの賞賛なのだろう。なにしろあの人は自分の興味のないモノに対してはまるで時間を割かない。話をする時間さえ勿体ないと考えている。そういうところは身内だからかな。俺ととても考え方が似ている。
 
『そんなにすごいヤツだったっけ? DVDを見たけど、なんか音もルックスもひ弱な感じで俺は受け付けなかったけど』
『なるほど。『ひ弱』は『繊細』とも言い換えることができる。人の評価は表裏一体だということを覚えていくといい。まあ、私としては彼が立派にこの星奏学院の広告塔としての役割を担ってくれればなにも言うことはない』
 
 月森の留学とすれ違うようにして、俺は星奏学院の門をくぐった。こうやってリアルに見ると、月森は早くもウィーンの水に染まったのか、肌はいっそう白く、髪は透き通るようなコバルトブルー。いっそう人形のようにひ弱げだ。
 俺の、月森へのぶしつけな視線は十二分に香穂子を心配させたらしい。おろおろと、俺と月森、交互に目をあてている。
 
「あ、あの、衛藤くん……?」
「なあ、月森。あんたってさ、好きな女と離れてて平気なの?」
「な……っ、衛藤くん、なに言って……」
「ああ、香穂子はちょっと黙ってて。俺は月森に聞いてる。ねえ、どうなの? 聞かせてよ」
 
 目を白黒させている香穂子をぐいと腕で押しのけると俺は月森と対峙する。……ふぅん。線の細い、頼りないヤツだとばっか思ってたけど、俺が『香穂子』って名前を発した途端、目の前の男には生が宿したかのように頬を紅くする。その赤みは恥じらいとかいう可愛いものではなく、むしろ怒りにも似ていて、俺を驚かせるのに充分だった。
 しかし、男は一瞬見せた怒りの色を器用に隠すと、やがて柔らかな笑みを浮かべた。
 
「君が衛藤か。噂は香穂子や金澤先生からも聞いている。会えてよかった」
「それはどうも。……で? 俺の質問に対する答えは?」
「……彼女にさえ伝えていない思いを、先に君に伝えるのは戸惑う部分もある。もう少し待っていてくれないだろうか?」
「って、あんた……」
 
 思ってもみない返事に面食らう。余裕っていうのか? それとも自信か。穏やかな微笑みは、今の月森の充実ぶりを伝えてくるのに充分で、俺は黙りこむしかなかった。
 そんな俺に月森は逆に問いかけてくる。
 
「そういう君は?」
「は?」
「香穂子から君の話は聞いている。君は帰国子女なのだろう?」
「ああ、それがなに?」
「君も、今の俺と同じ経験をしているのでは?」
 
 同じ、思い。同じ、経験。まあ月森は、俺もアメリカにSteadyを置いてきたんじゃないか、今は離ればなれになっているんじゃないか。もっと言えば、君も俺と同じ経験をしてるだろう、わかってるだろ、ってことを意味してるんだろう。
 
『楽譜は読めばいいってもんじゃない。楽器はテクニックが優れていたらいいってもんじゃない。キリヤ、お前ならわかるだろ?』
 
 恩師の声が頭の中でリピートする。テクニックにまみれた俺の独りよがりの音も一緒に聴こえてくる。
 
『愛して、伝えろ。まず最初に愛をリスナーに押しつけろ。今、この瞬間、このときを共有できる喜びを伝えるんだ』
 
 あのときは恩師が言っている言葉の意味がわからなかった。気持ちを表現するのは難しい。人が一番得意としている言語分野を以てしても、人は相手の意図を30%しか理解できないという。それを、言葉を持たない楽器で、気持ちを表現するとなれば、楽譜を正しく読むより、テクニックを1つ身につけることよりも難しいのはもはや真理だ。
 だけど。たった半年前にはわからなかった恩師の言葉が、今の俺にはストンと理解できる。
 
「ねえ、月森くん、これ見て。ヴァイオリンになる前の木材がこんなに」
「……衛藤、すまない。少し失礼する。……香穂子、今行く」
 
 月森からしてみれば俺は不愉快な質問をぶつけたイヤなヤツ。それなのに、あいつは穏やかに俺に断ると、少し離れた場所にいた香穂子の方に脚を向ける。いつもは弦の調子を直してもらうためだけに音楽街の楽器店で用を足していたのだろう。ヴァイオリンが形作られる前の木材の山を見て、香穂子は無邪気に声を上げている。
 
「これは生木を乾かしているんだ。木を切ってすぐ背板を成形すると、あとで捻れが起きる場合があるから」
「そうなんだ……。知らなかった。どれくらい乾燥させるの?」
「10年から、長いものだと20年くらいだろうか」
「20年! 私も月森くんも生まれてない頃だね」
「確かに」
 
 他愛ない話に2人は肩を寄り添わせて笑っている。
 俺が入学して4ヶ月。俺は俺なりに香穂子との距離を縮めてきたって思ってた。2つも年上なのに、どっかいつも抜けていて、なんにでも子どもみたいに真っ直ぐで。あいつと話せない日はなにか物足りなかった。俺の今感じていることを伝えたい、知って欲しいと思った。──── こんなに人を、人間を求めたのは初めてだった。
 だけど、この数ヶ月で知った香穂子のいろいろな表情を思い出していて、わかった。俺、あんたがヴァイオリンを肩に乗せているときの顔が1番好きだってこと。そして今日わかった。あんたにとってヴァイオリンは月森そのものだった、ってこと。そりゃ、優しい顔、するよな。抱き寄せて、抱き寄せられてるんだからさ。
 手持ち無沙汰に工房を歩き回っていて、俺はふと見慣れないものがあるのに気づく。水槽? だが、水は表面を濡らすくらいしか入っていない。目を凝らすとそこにはごそごそを脚を震わせている2匹の虫がいる。
 
(じいさん、これ……)
 
 なんだよ、と言いかけて俺は口を閉じる。2匹の蛍は共演をするかのようにゆっくりと交互に輝き出した。
 
 
 ──── 労り合いながら、輝ける時間。離れていても、信じ合える気持ち。俺もこの星奏で3年を過ごせば見つけられるのかな。あんたにとっての月森みたいな存在を、さ。
 ぼんやりととりとめのないことを考えていると、ポンと肩を叩かれる。慌てて振り返るとそこには香穂子の笑顔があった。
 
「衛藤くん。メンテナンスがすんだら3人でお茶しに行かない?」
「って、俺は別にかまわないけど、あんたはいいのか? あいつと久しぶりに会えたんだろ?」
「月森くんがね、衛藤くんの話を聞きたい、って。私も2人が話しているの聞いてみたいな」
 
 
 ちょっと離れたところで月森が頷いている。
 ……ったく。やがて俺がSteadyを持って。そのSteadyとこの2人のような信頼関係を構築できるのは一体いつのことだろう。
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