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*...*...*  Hotaru (柚木x香穂子 ← 志水) *...*...*
 制服の波の中、濃いめのベージュのジャケットはしなやかな足取りで近づいてくる。
 クラスメイトの『柚木様!』って悲鳴にも似た声を聞いて、僕は慌てて目の焦点を合わせた。 今日明け方まで譜読みをし続けたせいか、僕の周りのものが今、なにもかも柔らかく滲んで見える。 それが秋色の夕焼けの中ならなおさらだ。
 ジャケットは僕の姿を認めると、ふっと柔らかな笑顔を向けた。
 
「志水くん? 久しぶりだね。日野さんはどこに行ったかわかるかい? 講堂で見かけた、って話を聞いてきたんだけど」
「柚木先輩、お久しぶりです。……香穂先輩ですか?」
「そう。……ったく、あいつは相変わらずふらふらしているのかな?」
 
 『礼儀』っていう単語に人間の皮を被せたような柚木先輩が、香穂先輩に対してだけは妙にくだけた、 なのに、端々から優しさが滲み出ているような言い方をする。 それはどうしてだろうと考えて、俺は冬海さんがこっそり教えてくれた事実を思い出す。 『香穂先輩と柚木先輩はお付き合いを始めたんだって』 その話を聞いたのはたしか柚木先輩が卒業した直後。 今は、10月。ということは、二人が付き合い初めて半年が過ぎたころってことになるのか。
 
「そうだ、志水くん。今度、新国立劇場で『カルメン』が上演されるのを知ってる?」
「あ……。はい! もちろん」
 
 僕は大きく頷いた。
 『カルメン』。オペラというと人はすぐ歌い手や演出家について語りたがるけれど、 オペラの基本は、正確なリズムを刻むオーケストラが存在することが前提だ。 指揮は新鋭のアイナルス。SS席はほとんど入手不可能だったって金澤先生が嘆いてたっけ。 僕もクラスメイトのツテでなんとかS席は確保できたから、それまでに カルメン全部の楽曲を読み込んでおこうと今から計画を立てている。
 
「オペラの中でも『カルメン』は軽快なシナリオとともに、有名なフレーズも多い。もっとも管が主の楽器構成だから、志水くんにはあまり親しみがわかないかな?」
「いえ。フルートとピッコロの持ち替えが妙の、素晴らしい楽曲だと思います。前にDVDで観たことがあります」
「ふふ。さすが志水くんは研究熱心だね。 一般の人は、カルメンの歌唱力やホセの滑稽さに目を奪われるのだろうけど、楽器をやっていた人間としては、歌劇のバックグラウンドにある誠実な音楽に注目したいところだ」
 
 柚木先輩は懐かしそうに舞台に目をあてながら話し続ける。 僕は彼の視線の先を見て、指を見る。 弦と管。先輩の溢れんばかりの才能はたとえ演じる楽器が違っても、ときに強く、ときに激しく 伝わってきた。僕は、先輩のしなやかにキーを押さえる指がとてもすきだった 。 ──── 仲間。そう。先輩も半年前は一緒に音楽を奏で、一緒の場所にいた。 あの高揚感を一緒に感じた仲間なんだ。
 
「柚木、先輩……」
「うん? ああ、ごめんね。一人で感傷に浸っていたみたいだ。どうしたの?」
「これからも、香穂先輩のことをよろしくお願いします」
 
 僕の口から大切な人の名前が出たのが意外だったのだろう。 一瞬柚木先輩は目を見開くと、何でもなかったように再び柔和な表情に戻る。
 
「聞いてください。僕は……」
 
 僕は先輩に口を開かせることなく自分の意見を訴え始めた。 この気持ちはどうやって表現したらいいんだろう。 この前、彼女と一緒に演奏していたときに見たホタル。あの柔らかな光がまぶたのウラでちらついている。 そうだ。あのとき、僕は彼女のことをホタルみたいだって思ったんだ。そのことを伝えられたら。
 
「柚木先輩はホタルを見たことがありますか?  僕、この前、森の広場でホタルを見て……。 ホタルって香穂先輩ととてもよく似てるって僕は思ったんです。 儚くて、いつ消えるかわからなくて。でも追いかけないではいられない。そんな存在だって思ったんです。 ──── 彼女の力を引き出すのが、周りにいる僕たちの責任だとも」
「責任?」
 
 柚木先輩はわけがわからないといった風に首を傾げる。穏やかな物言い。品のある態度は、ときおりこの人が本当に男の人なのかと考え込むのに充分だ。
 僕は再び言葉を繋いだ。こんな饒舌な僕は僕自身が初対面だ。信じられない。
 
「ええ。僕は彼女の音楽の部分に対して責任を負いたいと思います。 それは彼女に柚木先輩という存在がいてもいなくても関係ない。 彼女の音楽と僕の音楽。音楽の中での対話ですから」
 
 香穂先輩が柚木先輩と付き合っていても、そのことは僕には関係ない。 いや関係ないというのは正しくいえば正確じゃない。 本当のことを言えば、奪えるのなら、僕の隣りに香穂先輩がいたらいい。 そう思ったことも何度かあった。 だけど彼女の目はどんなときも柚木先輩の背中を追っていたし、そこに僕の入り込む隙はなかった。 だったらどうする?  そう考えて、僕はともに音楽をする仲間として彼女のそばにいられることを願った。
 
「そう……」
 
 舞台にずっと目をあてていた柚木先輩は、やがてゆっくりと僕の方に顔を向けるとひょいと小さく肩をすくめた。その様子はちょっとしたミスをしたときの彼女の仕草そっくりで、また僕は目を奪われる。『付き合ってるの』なんて直接彼らから聞いたわけじゃないのに、僕はこの一瞬で二人の関係性を知る。キスの先。その先の最後まで、彼らは何度も同じ時間を共有している。視界から得た知識は、耳からの情報を凌駕するんだ。
 
「ありがとう。そこまで後輩に慕われる彼女を持つというのは、僕にとっても光栄だね。礼を言うよ」
「別に柚木先輩にお礼を言ってもらいたくてやっているわけではありません」
「わからないんだよ」
「……は?」
「……あいつに関して、俺はわからないことばかりだ。……閉じ込めたい。自由にしたい。 苛めたい。可愛がりたい。泣かせたいし、笑わせたい。 1日の間にいろんな自分が俺に話しかけてきて戸惑っている」
 
 僕は2回頷くと、そのまま先輩の言葉の続きを待った。
 
「だから君の申し出に対して、喜ぶ自分と戸惑う自分がいる。あいつが君の薫陶を受けて笑う顔が見たい。 ……だけど、君と二人きりの時間を共有しているのを想像するのは面白くはない。 まあ、君にはあれこれ取り繕う必要がないから、ありのままを言うけど」
 
 目の前の先輩は綺麗な微苦笑を浮かべている。
 
(そうやって悩んでる柚木先輩の方が僕は好きです)
 
 『好き』という言葉をこの人に投げていいのか、つい、考える。男の人に対してヘンだとかそういうのじゃない。ただ、一番に思うのは『好き』という言葉よりももっと大きな強い想いを表す言葉が見つからなかった、というのが本当のところ。
 大学では法学を専攻して、今は音楽から離れた場所にいると聞いた。だけど、この人のことだ。今の香穂先輩との葛藤や、たえず音楽を身近に置いている環境。もともとの資質。 そららが融合された今、彼の奏でる音楽はどれだけ豊かになっているだろう。
 ──── 聴きたい。先輩のフルートをもう一度聴きたい。優美で、華やかで。それでいて正確で、感情に流れることない、穏やかな音質は、本当はこの人の性格そのものだったかもしれない。
 僕は彼の真正面に立つと、舞台が終わったあとと同じ角度で一礼する。この人の才能に、 最大級の賛辞を込めて。
 
「そうだ、柚木先輩にお願いがあります」
「なにかな? 志水くん」
 
 
「今度、柚木先輩の都合のいい日、楽器を持って星奏学院に来てください。3人で……。 そうだ、冬海さんや土浦先輩も都合がついたら、みんなで一緒に演奏しましょう」
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