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「よし。次は姉さん、ユーモレスクにしよう」
「うーん。暁彦のピッチ、ちょっと早めなんだもの。アダージョ寄りでお願いできる?」
「OK。あの騒々しい輩が来る前に、1曲でも仕上げておきたいから」
「あはは、また金澤くんのことをそんな風に言って。二人ともいいコンビだと思うけどな」
 
 姉は肩とあごの間にヴァイオリンを挟んだまま、三日月形の目を僕に向ける。口以上に雄弁な目は笑いながら本音を伝えてくる。 ──── 『ホントは仲がいいクセに』 僕はムキになって言い返す。

「いや、姉さんはわかっていない。あれほど強引で傲慢な人間を僕は知らない」
「ふふ。『そのくせ歌はすごいから許せない』って続くのかな?」
「姉さん」
「ごめんね。失言。さ、早く弾きましょ?」

 気のおけない仲間と、音楽と。
 私の周りは音と光に満ちていて、何一つ不安はなかったはずなのに、私はこのときのことを思い出すたびに、どうにももどかしくなってやりきれなくなる。
 ──── あの人は、あの人生で幸せだったのだろうか。  
*...*...* Soundscape (音の風景) *...*...*
 一瞬、自分の腕が意志とは関係なく大きく震える。 腕に感じる柔らかな重みが、徐々に今の状況を伝えてくる。赤い髪の毛がしなやかに私の腕に広がっている。
 ……ああ、そうか。私は覚醒し始めた脳内で把握する。確か、彼女を思いのまま抱いたあと、彼女の体温を感じながらうつらうつらしてしまったらしい。 とたんに過去のいくつかの失敗例が私の脳裏をよぎっていく。欲望を放って放置する行為というのは一番女性が忌み嫌うものだったはずだ。 まったく以て、我ながら情けない。これではいつか遠くない未来に、彼女から愛想を尽かされるのは目に見えているともいえる。 私は彼女に気づかれないようにそっと上唇を舐め、言い訳を考える。とそのとき、私の様子に気づいた彼女が微笑みながら私の髪をかき上げた。
 
「……大丈夫ですか?」
「すまない。ちょっと眠ってしまったようだ」
「ううん? 吉羅さん、忙しいから……」
 
 さぞ苦しかっただろう。私の手足を巻き付けて。でも私を起こさぬように、彼女は蜘蛛の巣にかかった獲物のようにひっそりと息をしていたらしい。
 
「コーヒー、飲みますか?」
 
 彼女は不機嫌になるでもなく、そっと私の手足を振り解くと、気怠そうに白いガウンをまとってベッドから抜け出していく。 彼女の体温を失った私の腕は、急速に温度を下げた。
 
(香穂子……)
 
 やれやれ。私もそろそろ自分の覚悟というものを決めなくてはいけないのかもしれない。いや、決めるだけじゃない。自分が認めることができない幼い自分。顕示欲や、独占欲を、一番見せたくない彼女にさらけ出して、許しを乞う時期に来ているのかもしれない。

「おや?」

 コーヒーを淹れる柔らかな湯気の中、彼女は小さな声でハミングを繰り返している。……この旋律は、ユーモレスク。
 望郷の想いを込めてドヴォルザークが作ったこの曲は、CMにもよく使われるト長調と、奇人クライスラーの編曲した間奏の変調から成り立っている。明るい前半部とは打って変わって、なにかを訴えるような切ない旋律は、姉と私と、そして金澤さんがもっとも愛した音だった。
 
「ごめんなさい。最近ずっとユーモレスクばかり弾いているから、頭から旋律が離れなくて」
「もう一度、歌ってくれないか?」
「はい? あの……」
「お願いだから」
 
 私の真剣な様子に、彼女は一瞬だけ首をかしげたものの、再び小さな口を開いた。
 ともに奏で、ともに歌い、ともに同じ時間を過ごした。今は音楽と離れたところにいる私を、姉はどう思っているのだろう。嘆いているだろうか。それとも赦してくれているのだろうか。
 金澤さんはどうだろう。
 
『お前はすっかりカネの亡者になっちまって。あいつらを見てみろよ。感動や成長ってのは、カネじゃ買えないぜ?』
『音響設備の整ったホール。指導力溢れる教授陣を配するために必要なものは、カネそのものだと思いますが?』
 
 私の小憎たらしい返事に、金澤さんは笑うでもなく怒るでもなく、小さなため息をついた。
 10代のころ。音楽のある風景。音楽は素晴らしいものだと、なんの迷いも無く信じていられたあの日々。永遠に今日の続きがあると疑っていなかった時間。
 
「吉羅さん……!? 大丈夫ですか?」
 
 ただならない私の様子が心配だったのだろう。彼女は淹れかけのコーヒーをそのままにして私のそばに駆け寄ってくる。 私はのろのろと腕を持ち上げると、彼女の髪を4本の指で幾度も梳いた。
 ──── この子と一緒なら。この子を通してなら、私はまた音楽の世界を信じることができるだろうか?
 
「大丈夫だ。……ただ、少し、思い出に潰されそうになった」
「吉羅さん」
「こういうとき、記憶力が良いというのは不便だね。それに『過去』というのは少し傲慢だ」
「傲慢?」
「美化ばかりされて、今の自分が追いつけない」
 
 今の私にできることはなんなのか。まず、金澤さんに謝ること。多分、あの人は私の真面目な態度を茶化すだろう。そして二人の間で言い争ったことなど、まるでなかったものとして、私たちの仲は続いていくだろう。
 次は姉に会いに行く。姉が好きだった白い百合を手に、私は今の心境を素直に正直に告白するのだ。
 
「……君は」
「はい?」
「……君はこれからも、私のそばにいてくれるのだろうか?」
 
 答えを求めていない、独り言のような問いかけに、香穂子はなにかを問うように私の目をのぞき込む。 そこに答えがないと知ると、今度は静かに私の手を取って笑った。
 
 
「──── こうしていれば、もう、怖くないです。吉羅さんも、私も」
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