↑corda-prj-TOP / ↑site-TOP
 
*...*...* Dolce (甘く、柔らかに) *...*...*
「……君と、やっとこんな風になれた」

 剥き出しの肩に手をあてる。
 ひんやりと冷たいそこは、俺の気遣いのなさを責めているようにも、暖めてほしいと甘えているようにも見えてくる。

「その、……痛くはなかっただろうか?」

 日本にいたころ、ときおり目に入ってきた淫猥ともいえる情報。 それはこのウィーンという街ではまったくと言っていいほど入ってこない。 その消失の手法は、忌み嫌う存在を無理矢理隠すという淫靡さが伴うものではなく、 人が神が創造したものであり、セックスとは無縁の存在であるとでも言いたげな消え方でもあった。
 だからというわけではないだろうが、高3の冬休みにウィーンにやってきた香穂子は、こうして腕に抱いていても夢の中のように儚く頼りない。
 抱きしめる腕が窮屈なのだろう。彼女はときどき、ぎこちなく身体を揺らす。そのたびに俺はさらに強く抱きしめる。 こんなにも愛しく思う存在から、よく離れていられたと今は、思う。

「香穂子……」

 今まで香穂子とこうなることを考えなかったといえばウソになる。 いや、ウソというのは自分を美化しすぎだ。俺は妄想の中で幾度も彼女を抱き、彼女を汚した。日に日に彼女は妖艶になり、俺の動きに合わせて乱れていった。彼女との行為は初めてだというのに、彼女とこうする自分は幾度も来た同じ道を辿るのにも似ているというのもおかしな話だ。

「あと、3ヶ月かな。……3ヶ月経ったら、月森くんと一緒にいられるね」

 彼女は少女のようなあどけない声でそう言って笑う。

「……君は本当によく頑張ったと思う。まだ1年も経っていないだろう?」
「1年?」
「ああ。君がウィーン行きを決意してから」

 華奢な彼女の肩は、夜目にもぼんやりと暗闇に浮かび上がり、俺は思わず彼女の肩を抱えると自分の方に引き寄せる。 微かなぬくもりは彼女がここに存在していることの証だ。
 3ヶ月。彼女が再びこの街に来るのは、高3の卒業式を終えてすぐ。 3ヶ月を短いと取るか、長いと思うか。人それぞれと言ってしまえばそれまでだが、少なくとも俺にとっては長い。 現実の彼女を抱いて知った。彼女の中は、自分の指よりも、妄想の中の彼女よりも遙かに甘い。 「Dolce(ドルチェ)」。そうだ、彼女は甘く柔らかな旋律と同じだ。 しかも甘いだけじゃない。口に含んで幾度か咀嚼をしたら、あっという間に消えてしまいそうな人なのだ。
 俺は、鼻をくすぐる彼女の髪の香りを吸い込んだ。

「身体は? 大丈夫だろうか」

 彼女を抱いて、俺の想像と違うところが1つあった。それは彼女が微かに痛みを訴えたことだ。 苦しげな彼女を見て、俺はとたんに混乱する。彼女の痛みは、俺のやり方が自分本位すぎたということだろうか。 以前、日本にいたときに見た雑誌を頭の中でめくる。俺の行為はあれ以上でも以下でもなかった。 どうか彼女の『痛み』の理由が、俺が拙いから、という理由ではなく、彼女の『ヴァージニティ』に起因することであればいいのだが。
 柔らかな彼女の背中がぴくりと揺れる。
 愚かな頭脳以上に、俺の身体は愚かなのだろう。 彼女の滑らかな肌触りは、再び俺の脚の間を熱くしていく。立ち上がったそれは、密着している彼女の身体に押し付けられた。

「……あ、あの、月森くん……」
「すまない。……どう謝ろうかと考えていたのだが、止められなかった。 君に痛みを与えてすまないとは思うが、俺は何度でもしたい。……君と、したい。君を感じたい」

 幼いころ、俺は聞き分けのいい子どもだったと父も母も口を揃える。

『だからお母さまは、お祖父さま、お祖母さまに安心して蓮を預けて海外公演に行けたのよ』

 母も口元をほころばせる。その後ろにいる父も一緒に笑ってる。 笑顔の4人に囲まれて、幼い俺はあいまいな笑みを浮かべている。
 俺自身が音楽の道を歩み始めた今ならわかる。 母にとって音楽とは、我が子よりも大切な、命そのものの存在だったのだ。 だが、本当の俺は、いつも母が家にいてくれればいいと思っていた。 俺のヴァイオリンにピアノを合わせ、一緒に笑い、一緒に夕食を食べ、一緒に寝る。 ちょっとした甘えを受け止め、受け入れ。次の日も同じ母の笑顔があればいいと思っていたんだ。
 ──── ずっと心の奥に押し込めていたわがまま、今、香穂子に向かってあふれてくる。
 彼女がかすかに身じろぎする。それを無視して俺はさらに強く彼女を抱きしめた。
 
 どれだけの間そうしていたのだろう。5分くらいだったかもしれないし、あるいは30分くらいだったかもしれない。 徐々に凪いでくる感情の中、俺は幼い自分に話しかけていた。

(泣かなくていい。将来君は、音楽を通じて愛しい人に巡り会えるのだから)

 ふっと緩んだ腕の輪の中、気づくと彼女はなにか言いたげな目をして俺の髪を梳いでいた。

「ああ、香穂子、すまない……。身体が辛い君に無理を言ったと思う。気にしないでくれ」
「……ううん。私は大丈夫だから……。だから、何度でもして?」

 香穂子はそっと俺の身体を引き寄せる。 背中に回った細い腕に、自分と違う温度を感じて、また泣きたくなる。

「香穂子」
「強くして……、いいから」

 震えた声でそう言うと、彼女は穏やかに目を閉じる。俺はマリアのピエタにも似ていると思った。
↑corda-prj-TOP / ↑site-TOP