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 ── わかってた。俺にはいつも言葉が足りない。  
*...*...* Elegy (悲しみの詩) *...*...*
 1時間前まで感じていた激情はナリをひそめて、今、あるのは少しの倦怠感と、腕に抱えているぬくもりへの愛しさ。 こういうとき、気の利いた言葉が言えない自分がやけに情けない。 ありのままの俺を受け入れてくれる女はこいつ1人。今日も初めはイヤがっていたけれど、俺が果てる直前、こいつの中は俺に吸いつくように伸縮していた。それがまた愛しい。

「香穂……」

 ── それなのに。
 固く回した腕を、香穂はそっと振りほどくと音も立てずに床に足を置く。 その仕草はしなやかな体躯を持った白猫のようで、俺はまたわからなくなる。 さっきまで抱いていたオンナと、今、白い背中を見せているオンナ。この2人は同じオンナなのか?

「香穂、ちょっと待てよ」
「ごめんね。……シャワー、浴びてくる」

 ボタンの掛け違い。よくあることだ。目を見て説明して。心の中で、掛け違いの場所を探り出す。見つける。掛け違ったボタンを外す。そしてもう一度掛け直す。 それで終わりだ。そうしたら元通り。なにも気にすることはないはずなんだ。
 求める頻度が違う。俺が求めすぎて、あいつは求めなさすぎる。好きという感情の大きさが違うのだろうか。それともオトコとオンナの違い。そういうものなのだろうか。
 わかってる。まだ俺と香穂がこんな風になってから3ヶ月も経ってない。痛みを訴えなくなっただけまだましというものだ。
 なのに、俺は、底なしにあいつを求めている。 会って。話す。そんな簡単なことが今の俺にはできない。 会ったら、『話す』ということを飛び越えて、あいつの中に入りたくなる。出したくなる。
 だったら、人目のあるところで会えばいい。そう思った。だけど一度あいつの味を知った俺はそれを嫌がって、すぐ2人きりになりたがった。 俺は恨めしげにバスルームのドアを見つめる。……その結果が、コレ、だ。
 乱れた髪に紛れて、あいつの表情をしっかり見ることができなかったが、あいつのことだ。 もしかしたら、俺に隠れてメソメソしてるんじゃないだろうか。
 頭の中に、ラフマニノフの『エレジー』の小節が響いてくる。ピアニストだったこと。指揮者としても素晴らしい能力を発揮したこと。彼のバックボーンに親しみを覚えて、俺は大学に入ってから頻繁にラフマニノフの曲を弾くようになった。哀愁と、剽軽さと。相反する二面性をここまで美しい旋律にした彼を俺は生涯の師と仰ぐだろう。

「ったく。遅いな。あの小さい身体のどこ洗ってたら、こんなに時間がかかるっていうんだ」

 きっかり20分経ったところで、俺はバスルームのドアをノックする。微かに聞こえるシャワーの音は春の雨のように単調で、香穂がシャワーを身体に当てたままぼんやりしているのが目に見えるようだ。
 香穂がすぐ貧血を起こすだとか虚弱な体質だとか思っているワケじゃないが、なにしろさっきの俺は強引すぎた。それに何度も無理強いもさせたとも思う。 達しようとする香穂を焦らして、攻めて、また焦らした。香穂に懇願されることはそのまま、俺自身を認めてもらえたような誇らしさにつながる気がしたし、優越感にもなった。
『土浦、くん……っ。ダメ、もう。ダメ……っ』
『……ここ、いいな』
『え……?』
『── 俺の唾液の匂いがする』

 ツンと上を向いた胸の頂き。テラテラと俺の体液にまみれて光るサマに、俺はまた夢中になる。こんなことをこいつにできるのは俺だけなんだ、って。
 なにしろ大学に入ってからというもの、ますます香穂はモテるようになった。底抜けの明るさに素直さ。それにときおりオトナっぽい影が陰影を作る。それは、毎日見ている俺さえ、ときどきはハッとするほど艶めかしい。

「香穂。おまえ、ずっとシャワー浴びて、なにしてるんだ。風邪引くだろ?」
「……やだ、見ないで。入ってこないで」
「なにをいまさら」

 口では余裕あるようなフリをしながらも俺は今見た香穂の後ろ姿に興奮していた。うっすらとS字を描く背骨と、シャワーの熱を帯びた尻の先が息を飲むくらい美しかったからだ。でもさすがにここは抑えなきゃな。ここでもまた強引にこいつを抱いたら、本気で愛想を尽かされる気がしてきた。
 俺は背中越しに香穂を抱きかかえる。

「話があるならちゃんと言えって。言ってるだろ? 言わなきゃわからない、って」
「……私、言ってる」
「は?」
「少しでいいの。話を聞いてほしい、って。この前も話したよ?」

 香穂がここまでキッパリ言うのは珍しい。俺は香穂の顔を覆っている髪をすくい上げた。

「怖いの。……身体だけ抱かれても、心がついていかなくて……」
「香穂」
「私の上にいる人が、土浦くんじゃない、知らない男の人に思えちゃうの」
「悪かったって。ただ、なんつーか……。お前の身体知った男は、誰だって俺みたいになると思うぜ?」
「俺みたいに……?」
「こんなに甘くて、温かくて」

 ダメだってわかっているのに、俺の手はゆっくりと香穂の身体を撫でていく。 薄い肩。服の上から見るよりも大きな胸は無数の紅い花びらが散っている。 こいつの体臭なのだろう。耳の後ろから香る匂いに再び俺自身が立ち上がる。

 ラフマニノフは、戦争によって故郷ロシアから離れたことで、ぷっつりと作曲をしなくなったという。 俺にとって香穂の存在はなんなのだろうと考えたとき、浮かぶ思いは、『香穂は俺の故郷そのものだ』ということ。
きっとこいつが俺の前から消えたら、俺は動揺するだろう。それも想像よりももっともっと動揺するだろう。それこそ今思い出す旋律も浮かばなくなるほどに。

 ── わかってる。俺にはいつも言葉が足りない。

「つ、土浦くん……?」
「お詫び。悪かった、ってどれだけ言葉で言っても足りないからさ」

 俺は背中越しに、香穂のうなじから耳、肩のラインに唇を這わす。それこそ俺が今日まだ口づけていない部分を消していくように。白くて柔らかな肌は簡単に痕がつく。香穂の身体の力が少しずつ抜けていく。



「ほら、話せよ。ちゃんと耳はお前の声を聞いてるから」
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