*...*...* Effect *...*...*
 どうしようもなく、気持ちがイラつく。
 何をしていてもこの感覚は変わらない。
 気分転換に、パズルの本を眺めてみても。
 気のおけない友人と普段通りの話をしても。

『ねぇ、日野さん。土浦くんの中学時代の彼女の話、って知ってる?』

 秘密めいて、それでいて少しだけ優越めいた声が耳朶に残っている。
 複数のオンナの肩の隙間から覗いて見えた、色素の薄い髪も。

 観戦スペースに行ったのは、来週末に行われる試合のフォーメーションを確かめて欲しい、 と部員から頼まれたからだったが、こんな茶番が待っているなら、行くんじゃなかった。
 なんて、日頃だったら考えても仕方のない後悔ばかりが浮かんでくる。

 ワケ、わかんないよな。
 オンナって、どうしてどうでもいいことまであんな重大そうに話すんだ?

 イライラした気持ちのまま、鍵盤に向かう。
 しかしながら、今の俺が一番集中できるであろうピアノに指を滑らせてみても、やっぱり結果は同じだった。

「……ったく、一体どうしたっていうんだ? 俺は」

 モノトーンの整然と並んだキーの上に、あいつ、香穂子の困ったような笑顔が滲み出てくるようだ。

『土浦くん。私は気にしてないよ? 気にしてないから、ね? うん!』

 俺の姿を認めると、慌ててこっそり耳打ちしたあいつ。
 そんな俺たちをからかうような笑い声が追いかけてくる。
 香穂子は目を伏せると、観戦スペースの階段を走り抜けていった。

 俺は一段と濃さを増した空に目をやる。

 俺がコンクールに巻き込まれたときは、まだ肌寒い日もあったくらいなのに、 今ではすっかり夏の日差しが至るところに広がっている。
*...*...*
 第4セレクションが始まって最初の日。
 どう考えても、その日の俺は浮かれていたと思う。
 どういうワケか、第3セレクションまで普通科の俺と香穂子が、音楽科の連中を突き放して、1位、2位を独占し続けていたからだ。

 特別教室へ移動する普通科の廊下で、俺は偶然香穂子と出くわして、機嫌の良い声を上げていた。

『な、この調子で最終セレクションも頑張ろうぜ』
『うん。私も負けないからね?』
『当たり前だろ。気持ち良いよな。普通科が音楽科のヤツらを蹴散らすなんてさ』
『ううん』

 違うよ? と香穂子はイタズラっぽく微笑んだ。

『私が負けたくないのは土浦くんに、なんだ』

 一緒にセレクション、頑張りたいな、って……。いいかな? と。
 小首をかしげるようにして、おそるおそる、といった風情で香穂子は俺を見上げてくる。

 そのときの俺は、まるで全身が泡立つような感情に襲われていた。
 言い換えるなら、サッカーをやってるときの仲間意識、に似たような感情が香穂子に対して浮かんできたからだ。

 こいつは、オンナだ。
 だけど、オンナっていうひとくくりには、できないヤツだ。
 こいつは、同士なんだ、と。

『香穂子……』

 俺の手が俺の意志とはうらはらな動きで俺の視界を横切る。

 こいつが文句なしにオトコだったら、俺はいつも友達にするようにこいつの肩を持って抱き合ってただろう。
 でもそのときの俺は、思わず伸ばした手を引っ込めていた。

 ── 香穂子の制服の肩があまりにも薄かった、から。
 見えてるのに、見えてないモノってたくさんあるんだ、と、脳天を勢いよく小突かれた気分だった。

 こんな細いところに、ヴァイオリン、載せてるんだな……。

 赤い目を見ればわかる。
 コンクールに押されて、普通科の勉強をこなす時間が少なくなったこと。
 けど、どちらも懸命にこなしていること。
 決して、泣き言は言わないこと。

 ── いいヤツだよ。本当に。オンナにしておくの、もったいない程にな。

『なかなかお前も言うようになったな。その言葉忘れるなよ』
『了解。じゃあ、私、放課後は楽譜集め、頑張ろうかな?』
『おう。あまり、ムリするなよ』
『うん!』

 香穂子はくるりと踵を返して、細長い廊下をすり抜け、突き当たりを曲がって見えなくなった。
 俺の目は香穂子の幻影を追うように、姿が見えなくなってからもなお元いた場所を追い続けた。

 情けないよな。いつから俺、こんなに女々しくなったんだ?

 級友達の声に引っ張られるようにして、特別教室へと入る。
 そして先生の声をBGMに、俺はこの春からの出来事を考え続けた。

 今まで、何考えてるかわからないオンナっていう種類よりも、 一緒にいてシンプルでわかりやすいオトコの連中といるのが好きだった。

 中学の時の失敗を思い出して、俺は何ともやり切れない気分に陥る。
 あの件は……。多分、俺が子ども過ぎて、彼女は歳相応だったんだろう。

 けど、今は。
 香穂子のことが、こんなにも気になる自分がいる。
*...*...*
 放課後の正門。
 日差しはぐっと傾いて、もうすぐ下校時刻になろうかという頃。
 ふと気づくと、今日1日、ずっと香穂子に囚われてた自分に気づく。

 俺はかぶりを振って雑念を振りほどくと、自分の居心地の良い場所を見つけて、指慣らしに1曲、心を込めて弾いた。

 パガニーニのラ・カンパネッラ。── 挑むべき、モノ。

 物悲しくも、時折耳に付く華やかな音。
 この音を作るためだけに、この偉大な魔術師は生まれたと言ってもいいくらいだ。

 自分に酔ってる、と言われても良い。
 酔えるだけの想いをくれたコンクールに感謝するだけだ。

 最後の一音をゆっくりと奏でて。
 俺は、いつの間にか集まったギャラリーに一礼する。

(もう、来る頃か?)

 香穂子は、家には防音設備がないから、といつも18時ぎりぎりまで学校で練習をする。
 俺は約束をしたわけではなかったが、正門前で香穂子の帰りを待った。

 バカみたいだよな。日頃こうやってオンナにウツツを抜かす友人たちを呆れたように見てたのに。

 自分でも良くわからない。
 今は、コンクールに集中しなくてはいけないことはわかっているのに。
 今の俺にとって一番比重が高いのが香穂子なんだ。

 気づかないフリをしていた。
 玉砕したときに、友達のセンまでなくしてしまうのはたまらなかったから。
 かといって、香穂子の中での俺の存在が、コンクール出場者という虫ピンで留められてしまうのもイヤだった。
 自分自身で堂々巡りしていた。

 けど、俺の中学の話を聞いたときの、あいつの顔を見たら、やり切れなくなった。
 なんとか、したい。そう思った。

 正門前のファータの銅像の先に、夕日が近づいてくる。
 辺りは一瞬明るくなって、それから急速に冷え込んでくる、そんな時間帯。

 どこかしら頼りない足取りで近づいてくる影があった。
 ヴァイオリンケースを大切そうに抱えてる。それでいて、普通科の制服。
 ── やっと、会えた。

「香穂子!」
「あ、土浦くん」

 弾かれたように正面を向いた顔は、あっという間に笑顔になる。

「土浦くんも練習? お疲れさま」
「お前こそ」

 2人の間に、香穂子のヴァイオリンケースがある。
 香穂子は俺と並ぶと何気なくそれを反対の手に持ち替える。
 俺と香穂子の間が少しだけまた狭くなる。
 俺はこいつのそんな気遣いが好きだった。

 けど、どうしてだろう。
 いつもなら何も考えなくても次々と出てくる話題が、ノドにつかえたように、出てこない。

 どの話題も、俺に一番近いようで、一番退屈な話題ばかりに思えてくる。
 何も話さない俺を気遣うように、香穂子はいつもと変わらない態度で話し始めた。

「土浦くんのパガニーニ、またゆっくり聴きたいな。……素敵だった。胸に響いてくるのね、すごく」
「そうか」
「土浦くん。今日の物理の小テスト、問題覚えてる? 私ね……」
「香穂子」
「……やっぱり物理は苦手だよ〜。この前うっかり先輩に点数見られちゃったことがあってね、恥ずかしかったよ」

 香穂子は、俺が何か話そうとしているのを知っていながら、素知らぬ顔をして普段通りに振る舞おうとしている。

 それは、やっぱり……。

 最初から俺に対して、コンクール参加者以上の興味がないのか、それとも……。
 俺に対するなんらかの気持ちがあってのことなのか。

 ってバカだよな、俺。
 そんなに勝手に自惚れて。
 香穂子の気持ちが、香穂子の音色と同様、俺にずっと向いてて欲しいなんて。

 俺は香穂子の顔を注視して言った。

「……香穂子。聞きたいか? 俺の中学の時の話。俺の口から」
「土浦くん……」
「どうする?」

 自分から自分の過去を話し出すのは趣味じゃない。
 けど、その反面、香穂子本人から聞き出して欲しい、と思っている。
 俺に、興味を、持って。
 そして、過去に誤解しないで、ほしい。
 そして、願わくば。
 未来の俺と、一緒にいて、ほしい。

「……聞いても、いいかな?」

 立ち止まって、不安そうに香穂子はつぶやいた。
*...*...*
「……それだけの話」
「そっかぁ……」

 公園のベンチ。
 すっかり辺りは日暮れて、ブランコや滑り台といった遊具は、大まかな輪郭だけが見えるほの暗さだ。

「って、俺、なにお前に言い訳してるんだか。お前に話すのもヘンな話だよな」

 告白したワケじゃない。まだ付き合ってるワケでもない。
 けど、こいつから聞かれた形にして、こいつに言い訳しておきたかったんだ。
 言い訳を、これからの布石にしたかったんだ。── こいつとの距離を縮めるための。

 香穂子は思慮深そうな瞳で俺を見上げてくる。

「土浦くん。……どうして私に話してくれたの?」
「お前に誤解されたままじゃ、イヤだったからさ」
「ん……」

 香穂子はあいまいな表情で頷いている。

「さ、もう行くか? すっかり遅くなっちまった」
「そうだね」

 俺に促されるまま香穂子はベンチから立ち上がった。
 そしておどけたように、俺の腕に触れる。

「おい?」
「……嬉しかったよ。とても」

 元気よく跳ねた髪の間から朱い耳が覗く。
 顔を見られるのがイヤなのか、額が俺の二の腕の近くに寄せられてる。

「香穂子?」
「話してくれたこと」

 細い細い指。
 この指からあれほどの激情に溢れた音色が響くなんて、考えられないほど、繊細な指。

 噂を聞いた。
 説明した。
 そして、ありがとう、と触れられて。

 ── そんなことされたら、誤解したくなる。

 俺たちの音色が変わってきたのは、お互いがお互いへの影響を与え合っていたからだ、と。

 俺の音色の変化の理由は、お前以外に考えられない。
 けど、香穂子の音色の変化の理由は、何が原因なのかわからなかった。
 それが、俺、だったら。俺で、あったなら……。

「香穂子」

 こいつに偶然に触れたことは何度もある。

 友人として。
 仲間として。

 友人以上の想いを持って触れたいと思ったことも何度もある。
 そのたびにジャマをしてきたのがヴァイオリンケースだった。

 (もし俺がこいつに触れて、こいつがヴァイオリンを落としてしまったら?)

 音楽を奏でる人間である以上、どんなときも、俺は楽器を大切に扱う気持ちが抜けきれない。
 ましてや香穂子のような代わりのない楽器となればなおさらだ。

 ふと見ると、ヴァイオリンケースはまるでそこが定位置であるかのように栗色のベンチに納まっている。
 まるで俺たちがこうなるのを嬉しそうに心待ちしてるかの表情だ。

 俺は妙に冷静な自分に苦笑しながら、空いている手で華奢な身体を抱き寄せた。
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