*...*...* 白い背中 *...*...*
 教室から四角く切り抜いた空は、真っ青で、雲1つない。
 今年の長期予報では、全くの空梅雨になるでしょう、なんていう話があったけど、もしそうなら、ヴァイオリンのメンテが楽になるからいいなあ……。
 それにこんなに空気が乾いてるなら、今日の私の相棒は凛とした音色を生んでくれるかもしれない。

 あ、そうだ。
 私、今日って、練習室、予約してあったっけ?
 記憶が曖昧ってことは、予約してないのかも。
 いいや、ちょっとだけ練習室に顔を出して、スケジュール帳をチェックして。
 もし、練習室がいっぱいだったら、今日はどこで練習しよう。
 こんな天気だもん。屋内より野外の方が気持ちいいかも。
 屋上もいいけど、火原先輩に会うとついつい話し込んで長くなっちゃうから、別のところにしようかな。

 ── 私のヴァイオリン。今日は、どんな音、聞かせてくれるかな……?

「……日野。日野!? 聞いているのかね!」

 しじまを縫って、誰かが私を呼んでいる。
 やだなあ、この空の下、せっかく素敵な音が出せそうだったのに……。

 って、日野、って、わ、私!?

「え? あっ! は、はい!!」
「……私の質問は把握しているかね? ん?」
「あ……。ごめんなさい。聞いていませんでした、です……」

 そっか。今、授業中だったんだ。
 それでもって私は、気持ちも視線も遙か遠くの空に投げかけちゃってて。
 あちゃーって顔してそっと後ろを振り返ると、そこには仲良しのクラスメイトがやれやれといった表情でこっちに目配せを返してくる。

「なあ、日野。コンクールだか、ヴァイオリンだか、いろいろ金澤先生から聞いてるが……。ちゃんと数Uもやらなきゃ、及第できないぞ?」
「……はい」
「数学の点数に音楽の点数が付け加えられれば、いいかもしれないがな。ははは」

 笑いながらクラス全体の眠気を覚まそうという考えなのか、先生はご機嫌に話を続けている。
 それに乗せられるようにして私の悪友が口を挟んだ。

「せんせーい! ダメですよ。香穂の音楽の点数なんか、ヒトケタなんだから」
「って、ユウちゃん。黙っててーーー」

 どっと周囲から笑い声が浮かぶ。

「ほほう。じゃあ、もっと危ないなあ。どうしようかな?」
「先生、そそこをなんとかっ! 及第、させて、ほしい、なあ、なんて……」

 両手を顔の前に合わせて、ぺこぺこする私。
 うう、さっきの音楽に対する恍惚な気持ち、もう1度思い出そうって言ったって、2度と浮かんでこなさそう。

「まあ、いい。授業をしっかり聞くように」
「はぁい……」

 私は軽く一礼をして、席に座り直す。

 うう、拍手じゃなくて、失笑が周りを取り囲んでいるのって、やっぱりちょっと恥ずかしい。
 クラス全体のざわめいた雰囲気が落ち着くころ、私はまたうっとりと四角い空を眺める。
*...*...*
「香穂〜。早いね? もう練習?」
「うん! 3時からね、予約取ってあったの」
「そっか。今度さ、正門の辺でも演奏してよ? 聴きに行くから」
「ん、また聴いてね。じゃあね」

 私は手早く荷物をまとめて手にすると、教室を飛び出した。
 柚木先輩にはっきりと自分の気持ちを告げた私。

『コンクール、参加したいんです』

 柚木先輩は私の剣幕に、呆れたような軽蔑したような目を向けていたけど。
 結局私が押し切った、というのかな? プレゼントで口を塞いだ、というのかな?

 柚木先輩には私の考えがバレバレだったみたいだけど、まあ、結果オーライだよね。

 私としては『仁義は切ったわ』って感じに、すごく良い気分だった。
 やっぱり、せっかくやるなら正々堂々と。
 って魔法のヴァイオリンを使ってる時点で正々堂々と、とは言わないのか……。
 や、でも、みんな高校生なのに、ファータが見えてる、とか、高校生らしくないこと言ってるし。

 とにかくファータの人選なんだもん。ファータが法律だよね、きっと。

 できること。やれること。
 リミットは決まっている。
 最終セレクションまでの足取り。
 その間にある3つのセレクション。
 それぞれのテーマに合ったキーワードを選択して、解釈を覚えて。

(やれるだけ、やるんだもん)

『おまえってオンナじゃないみてーだな』
『それって、褒め言葉、じゃないよね……。土浦くん』
『俺にとっては最大限の褒め言葉だよ』
『そっか。ありがとうね』

 今日の昼休み。ひょっこり購買に向かう土浦くんに言われた言葉。
 やるぞーって気分がみなぎっている私はどうも、たくましいばかりの女の子みたいだ。

 第二セレクションのテーマに合わせて決めた曲は『ロマンス ト長調』
 曲想も解釈も明るくて、今の気持ちにしっくりくるから、練習が全く苦にならないんだよね。

 そうだ。練習室も予約はしてあるけど、少しだけ正門前のファータの前で音を響かせたら、どうかな? キレイかな?

「……ちょっとだけの遅刻なら、いいよね?」

 私はベンチの上にそっとヴァイオリンケースを置き、うやうやしくカバーを開けると、ヴァイオリンに目をやる。

 軽く弦を弾いて、っと……。うん、やっぱりいい感じ。
 そっと本体に手を伸ばす。── ヴァイオリンくん、今日もよろしくね。

 あ、あれ? 飛行機でも飛んできたのかな? 急に手元が暗くなったような……?

「……オールドヴァイオリンの1種だな。良く使い込んである」
「! は、はい?」
「驚かせてすまなかった」
「……月、森くん?」

 振り返ると、逆光の元、月森くんのキレイな空色の髪がふわりと風に舞った。
 わ、こうして2人きりで話すのって初めて、かも……。

 確か初めて会ったときは天羽ちゃんが上手く間を取ってくれてたもの。

 それにしても月森くんって、本当に綺麗な男の子だ。
 普通科の中でも彼のことを『クールビューティ』ともてはやしている子たちがいるくらい。
 青味がかったストレートの髪。その間からほの見える肌は、女の子よりも白くて繊細そう。
 音楽科の白い制服が、すごく高貴な感じ……。

「日野、何を見ている?」
「あ、いえ。キレイだなあ、と」
「は?」
「な、何でもない! ……ん、と。何か私に用だったかな?」

 月森くんは、厳しい目をして私を見続けている。
 ん? 私、何か月森くんに不愉快なこと、したっけ?

 ……ううん、私のバカバカ。
 確かこの視線って、この前も同じように感じたこと、あるじゃない。
 月森くんから、じゃなかったけど、……この前の『辞退しろよ』と迫ったあのイジワルな先輩、と、同じ……?

 じわり、と寒さが迫ってくる。
 私の勘は、きっと……?

「日野。君の使っているそのヴァイオリンを見せて欲しい」
「え?」
「興味がある。君と君の使っているヴァイオリンに」
「えっと、ど、どうしてかなー? なんて、聞いてもいい、かな?」

 私は空白になった頭をフル回転させて、どうでもいい質問を投げかけてみる。
 こんなんで時間稼ぎしてるつもりなのかな? 私……。

 それに、どうしてだろう。
 別に、力ずくでどうこう、って目の前の彼は言ってるわけではないのに。
 静かな闘志、というのか、不愉快さが固まりとなって、私の身体を圧迫するみたいで。

 月森くんは、一瞬私の顔を覗き込むと、話すことを決心したように口を開いた。

「君の演奏は、滅茶苦茶だ」
「はい?」
「……聞き惚れるような音色を奏でる時もあれば、初心者以前のような雑音を生み出す時もある。音さえ響かない時もある。落差が激しすぎるんだ。それは日野本人の資質なのか、それとも……」

 息を詰める気配がする。
 それは自分の息なのか、それとも目の前にいるこの男の子の息なのか、わからない。

 私はこの時、掠れていく声を自分のモノじゃないみたいに感じていた。

「……このヴァイオリンのせいなのか」
「…………」
「見せて欲しい」

 彼はそう言い捨てると、私の反応に構うことなくリリからもらったヴァイオリンに手を伸ばす。
 綺麗な指が、先端のペグ(糸巻き部分)に触れ、確かめるように少しずつ本体へと移動していく。

 ── もう、ダメだ。

 月森くんは、ヴァイオリンと一心同体に育ってきた人だもん。絶対バレちゃう。
 というか、私への明らかな疑惑が、今のこの彼の行動へと繋がっているわけで……。
 きっと確信犯。
 私のこのヴァイオリンの秘密、分かった上でヴァイオリン、見てるんだ。

 私は月森くんの指がヴァイオリンの上を流れていくたび、少しずつ私の周囲の空気を消していくような気がした。

「月森くん! あの……っ」
「日野?」
「それ、リリからもらったものなの。魔法のヴァイオリンなのっ!!」


 ── 言った……。


「ごめんなさい。だから……。だから、月森くんの言うことはもっともなの。私、先生についてレッスンをしたこともないし、コンクールの前日に初めてヴァイオリンを触った初心者以前の初心者なの」

 月森くんは私の剣幕に、かすかに動揺したように目を上げた。

「ごめんなさい。一生懸命やってる音楽科の人たちには申し訳ないと思ってる。でもね、私ね、第一セレクションが終わって、音楽って楽しいなって思えるようになって。それで、普通科のみんなも同じように思ってくれたら、って……」
「それは君の理由、だろう」

 くどくどと今の自分の気持ちを言い続ける私に、月森くんは一言、冷静に言い放つ。

「月森くん……」
「俺はどういう理由であれ、魔法のヴァイオリンでコンクールに出場する君を認められられない」

 でもね、それでもね。
 言葉がどんどん溢れてくる。
 けれど彼らは月森くんに伝わる言葉にはならないまま、私の心の中をぐるぐるして。

 やがて。
 少しずつ、少しずつ、不透明な澱になって沈んでいく。

 呆然と立ちつくす私の横で、月森くんは丁寧にヴァイオリンをケースに戻している。
 魔法のヴァイオリン。
 月森くんからしたら苦々しい思いを抱かせるハズのその楽器にさえ、丁寧に、ある敬意を持って扱っているのは、立派だな、なんて他人事のように思ったり。

 キュ、っと乾いた音を立ててヴァイオリンケースが閉まる。

 ……言わなきゃ。

「時間を取らせてすまなかった。失礼する」

 私、言わなきゃ。
 この前柚木先輩に言われてから、ずっと悶々と悩んでいた日々。
 あんなのまた、繰り返すの、イヤだもん。

 コンクール参加者全員に自分からカミングアウトすることはないかも、だけど。
 不審に感じてる人にはちゃんと伝えなきゃ。

 魔法のヴァイオリンだということ。
 けど、今は音楽を続けていきたい、と思ってること。
 ちょっと言い切っちゃうのは自信がないけど、── これからの私を見てて欲しい、ということ。

 見上げると、カツカツと静かな足音を立てて、月森くんが遠ざかっていく。

 ── 言わなきゃ。
 白い制服の、きりっとした肩のライン。普通科の制服に紛れていく。

「つ、月森くん!!」

 人気の少ない正門前。
 とはいえ、周囲の人たちは、ぎょっとしたように私の声に振り返る。

「私、辞めないから。月森くんに認めてもらえるように頑張るから!」


 こ、これだけ大きな声で言えば、聞こえてるよね。


 私は一つ大きな仕事を終えたような気持ちで、月森くんの背中を見つめる。
 白い背中は、一瞬立ち止まった後、また何事もなかったかのように歩き始めた。
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