『2年普通科 日野香穂子』
ねぇ。
俺は初めて見るその名前を記憶にとどめるべく、見つめ続けた。
……聞いたことない名前だな。
じわじわと不可解な気持ちが襲いかかってくる。
大体、ヴァイオリンなんて一朝一夕に弾きこなせる楽器じゃあない。
美しくて、気品があって。雨がキライな、ちょっとわがままな貴婦人。
そんな繊細な楽器だ。
星奏学院の音楽科のレベルは、日本の中でも屈指的なもので、コンクールに選出されるだけでも十分な価値と優位性を持つ。
そのメンバーに、俺が見たこともない名前があるなんて、……全く以て不可解だね。
── この『日野香穂子』って、一体、どんな女なんだ。
*...*...* First *...*...*
「あ、あのっ。人違い、じゃないですか……ね? 私、普通科ですし、ね? あはは……」「うわっ。もしかして、コレって立派な記事じゃない?
『金やん、人選ミス、今後の進退は如何に!?』とかなんとかさ」
「あー、もう、天羽はちょっと黙ってろ。間違いじゃないよ。
目の前のお前さん、日野香穂子は、今度のコンクールに出場するの!」
「う、ウソでしょう? だって私、ヴァイオリンなんて……っ」
「わ、カメラ持ってこれば良かった! こんな時の金やんの顔って必見かも」
「だーかーら!」
金澤先生は背中を丸め、ぼそぼそとやる気のなさそうな声で告げている。
それに対抗するように、ふたりのオンナは無遠慮な声で言い返している。
学校の設備にしては必要十分な設備を備えた、音楽室。
この喧噪は、美しいフォルムのグランドピアノの一角に、似合わない音だった。
くたびれた白衣は正面を向いているものの、肝心のオンナたちは背を向けている。
俺の見たいオンナはどっちだ? ── 赤毛か、巻き毛か。
「すみません。金澤先生。先日のレポートを集めてきました」
「おー。柚木か。お疲れさん。お前ってホントーに良い生徒だよなあ〜」
この音楽教師は、いつも人をからかうような口調で生徒に向かう。
楽典学の授業も、残り時間10分以上を残して終わることもしばしばで、音楽に対しての愛情が希薄なように見える。
いや、希薄ではなくて、まるで周囲にそう思わせたいかのような軽薄な態度なんだよな。
こんな何も考えてなさそうな人間でも、実は何か口に出すのも切ないくらいの過去があったのか? ── この俺のように。
ま、金澤の過去なんて、俺には何の関係もないけどね。
俺はいつもの通りにこやかな微笑みを浮かべながら、金澤先生にプリントを渡した。
するとどこからか集団のオンナが湧いて出て、背中越しに華やかな声を被せてくる。
「わ、柚木サマよ!」
「いつ拝見しても、本当に素敵……v」
「貴公子、って感じね!」
可愛い子たちだな。……時々面倒くさいけど。
俺は振り返ると、彼女たちが望む表情を作ってやった。
頬を赤く染める子。
ずっと視線を離せずに見つめ続ける子。
……単純だよな。全く。
俺にとってフルートは、俺を彩るツールの一つ。
金色に輝く数10センチの筒が、金色の音を出す。
周囲は視覚と聴覚から、俺に圧倒される。
女子のきらびやかな歓声は、俺の周囲を彩って、その価値を高める。
── この俺なら当然だ。
俺は、彼女たちを満足させる音声とビジュアルを提供する。
その見返りとして、俺は学園内での信頼という確固とした価値を受け取る。
とても簡単な理論だろう?
大声で金澤に向かって騒いでいたオンナふたりは、俺が金澤に話しかけた途端、ぴくりと肩を振るわせてクチをつぐんだ。
赤毛の方が、おそるおそる、といった風情で俺の方に振り返る。
活き活きとしたヒカリを纏った瞳に、俺が映って。
一瞬潤味を増したかと思ったら、大きく見開かれる。
ったく、なんなんだろうな。
どうしてどのオンナも、俺を見る視線は一種類しかないんだ? 鬱陶しいんだよ。
「先生、こちらの女性は……?」
俺は投げられた視線を柔らかく受け止めて尋ねた。
……多分、こっち。
赤毛のオンナが、日野香穂子、なんだろう。
巻き毛のオンナには見覚えがある。報道部かなんかのオンナだ。
放課後カメラを構えてるのを見たことがある。
俺が知りたいのはこいつじゃない。
「おーおー。お前たち、初対面かぁ。こいつ、日野香穂子。2年、普通科。
今度、ヴァイオリンでコンクール、出場するの」
金澤は、ダルそうに無精髭を撫でながら、顎先でオンナを指し示した。
……やっぱり。俺の勘はいつも外れることがない。
俺は穏やかに微笑むと目の前のオンナに笑いかけた。
「初めまして。柚木梓馬です。コンクールっていろいろ大変だろうけど、頑張ってね。
僕は3年だから、知らないことがあったら、何でも聞いてね」
「あ、は、はい! えっと、よろしくお願いしますっ」
日野、というオンナは、俺が握手のために差し出した手に気付く様子もなく、ぴょこんとお辞儀をする。
……まあ、お辞儀もできない最近の子よりはマシだろうが、手の位置とか、お辞儀の角度とか、全然なってない。
俺は思っていることを顔にも出さないで、微笑み続けた。
……こんなの、至極簡単な行為だ。いつも家でやりつけてることだから。
「普通科から参加なの? すごいね、コンクールに出場できるなんてね。
このコンクールに出場したい、って思ってるヴァイオリン専攻の人間はいっぱいいるんだよ。
いつからヴァイオリンを師事したの?」
「へ? 『シジ』? 『指示』? あー、っと、『師事』ですね。師事、シジ……、
えっと、いつ頃、って言ったらいいのかなあ」
「日野さん?」
「えっとっ。あの、初心者、なんです。そう、初心者!」
「……初心者、ね」
ここ、星奏学院の音楽室は全校生徒全員が入ることも出来る、レベルの高い施設だ。
座り心地の良い椅子。最新の音響設備。
壮大なコンサートやコンクールも定期的に開催されている。
学校関係者以外にも提供している場だから、空調、湿調は完璧だ。
音調を揃えるため季節に関係なく、低温度、低湿度に保たれている。
なのに、目の前のオンナは、額にうっすらと汗をかいて言葉を繋いでいる。
ふぅん……。わかりやすいヤツなんだ。── とっても俺を楽しませてくれそうじゃない?
「私こそ、どうぞよろしくお願いします!」
日野は頭を下げてから、ようやく俺の手に気付いたのだろう。
慌てて俺の手を握りしめてきた。
「ああ。こちらこそよろしくね」
俺は、俺の中にやすやすと入り込んだ手を、そう、軽く。
相手が違和感を起こさないくらいの柔らかさで握り返して、そっと、手を離した。
握手とは、互いに利き手を相手に預け、互いに握り合うことで、信頼の情を高める儀式に端を発していると言われている。
右利きの文化圏である日本においては、右手を出すのがふさわしい。
それは分かってる。宗家でもイヤというほど仕込まれたからね。
けれど、俺はこの場で敢えて左手を出した。
日野は俺の手を見て。
きっとこいつは右利きなんだろう。一瞬右手を差し出して。
俺の手を見て少し戸惑った後、慌てて左手を俺の手に預けた。
「じゃあまたね。日野さん」
俺は首元に掛かった髪を振り払うと、教室へ帰るべく、脚を進めた。
俺としたことが、この時の表情はいつもとは違い、若干強張っていたのだろう。
見覚えのある女が、ちらりと俺に目を当てて、驚いたようにお辞儀する。
俺は会釈を返さず、足早に歩き続けた。
(……あいつ、何者だ)
ヴァイオリンをやり始めて3ヶ月もすれば、弦を左手中指、薬指ではじく『ピッツィカート(pizzicato)』技法のため、第一関節が硬くなる。
半年もすれば、爪は丸みを無くして、平坦になる。節くれ立った指になる。
── 今のオンナには、そんな片鱗がどこにもない。
初心者じゃない。初心者以前だ。
さっきのあの場所でヴァイオリンを構えさせたら、ボウイングさえ左手でやりかねない。
(初心者どころか、ヴァイオリンに触ったこともない?)
「……呆れるね、全く。そんなヤツがエントリするのか?」
俺は周囲に誰もいないことを確認すると、憎々しげな声でつぶやいた。
その声は自分の声とは思えないほど、低い反響を伴ってアールデコ調の床に響き渡る。
不愉快だね。全く。
自分の領域を汚い足で踏みつぶされたような、どす黒い不愉快さだ。
「……さて。どうしてくれようか」