*...*...* Family *...*...*
「梓馬さま」
「……なに? 田中」
「お帰りになりましたら、梓馬さまをお呼びになるようにと大奥さまが」

 学校帰りの車の中で、俺はアームレストに腕を預けながらまたため息をつく。
 さっき、あのオンナに会ったときの不快感が消えない。
 不快感は空気になってまとわりつく。それは時間が経っても消え去るものではなかった。

(今度のコンクールは茶番なのか?)

 俺にとって音楽は、自分を美しく見せるために必要なもの。
 高校卒業までの、期間限定のお遊び。

 けれど、そこへ、全く経験のない素人が入り込まれるのは不愉快だ。

 いつもの見慣れた車内の装飾さえ目障りで、俺は窓の外に目をやった。
 それに、さらに追い打ちをかけるような仕事が舞い降りた、ってワケだ。

 この柚木家で一番権力を持っているのは、宗家の出自を誇りとしている祖母だろう。
 ことあることに本家と比較し、万事が簡略化されてきたこの時代を嘆いている。
 数百人いるお弟子さんを取りまとめ、展示会を企画、立案する。
 花という最高の芸術で人を導くのだ、という志は歳を重ねても衰えることがない。

 気弱で家庭に波風を立てたくないという祖父は、家庭内が険悪になることを避け、全てのことに関して祖母の言いなりだった。
 俺が祖父の介添えで、俺がピアノからフルートに転向できたことは、祖父にとってみれば特記するべきことなのだろう。
 時折、俺の部屋へと繋がる渡り廊下の端で祖父は静かに佇んでいることがあるらしい。
 その姿を見るたびに、

『兄さまのフルートを懸命に聞いていらしたわ。きっとそうよ』

 妹の雅(みやび)は内緒話のように懸命に俺の耳にささやく。

 祖父以上に、権力のない、父。
 祖母の顔色一つで、お茶を淹れる動作も乱れがちな母。
 人を見る目も鋭く、一番欺きがたいのがこの祖母だろう。

 (全く権力者ってヤツは……)

 人のモノも自分のモノ。
 人も気持ちも、自分で配置する将棋のコマのように、自分の思い通りに動くと思っている。

 ……ま、わからないでもないかな。俺も学校では似たようなものだ。
 結局この世の中は、馬鹿なヤツ、努力しないヤツが使われるんだ。賢いヤツ、権力を持ったヤツに。

 まあ、いい。
 ── 今は甘んじてその存在に居続けてやる。

 車は良く見慣れた風景を通り越えて、だんだんと影が濃くなる。
 新緑が深くなった、と思ったら、そこは柚木家の門だ。

 黒塗りの車は音もなく車寄せに止まると、あたふたと田中が後部座席のドアを開ける。
 俺はフルートケースをたぐり寄せると、田中の制帽に向かって告げた。

「……明日、いつもより5分早く出る」
*...*...*
「良い話だと思いまして。何事も遅いより早い方がいいのですよ」

 静謐、という表現がふさわしい、祖母の部屋。
 祖母は美しい銀髪に手を宛て俺を直視する。

「……はい」

 俺は祖母の着物の合わせ目辺りに視線を投げかけながらも、実際はその背後にある違い棚の梅の花を見ていた。
 小さな青磁の壷が、淡い梅の匂いまで引き立ててくれそうな、絶妙な活け方。
 銀鼠色の壁に、薄紅の花びらがまるで一筆書きのように美しく直立している。

 この活け方は多分、祖母だ。
 俺に縁談の話を持ち出すのにふさわしい花を、と考え、母に適当な花材を求めたのだろう。

「お相手は、あなたよりも三つ下。お父さまとお母さまがとても大切にお育てになっている方。
  あなたは身軽な三男とはいえ、いずれは柚木家を支えていくお立場なのですからね」

 ── 三男、か。
 少なくとも俺は、三男を身軽な立場と考えたことはなかった。

 出しゃばらず、引っ込まず。
 華はあるけど、光りすぎず。

 それがどれだけ面倒なことなのか、多分この権威ある人は一生わからないだろう。

 自分で選んだことじゃない。
 この家に生まれたことも。
 ……ましてや三番目の男子として生まれたことも。

「万事、分をわきまえて。兄さま達を越えることのないように。それが三男の勤めなのですよ」
「……はい。何事もお祖母さまの宜しいように。じゃあ僕は勉強がありますので」

 僕は……。
 いや俺は祖母を安心させる笑顔を浮かべる。
 20年近くやってきたんだ。なんてことはない。

 流れるような仕草で座布団から滑り降りる。
 膝を斜め40度にして腰をひねることも。
 座布団から降りて、押し抱くように布団を少しずらすのも。
 祖母は俺の一挙手一投足を凝視している。
 一つでも手順を間違えたら、色のない薄い唇から苦言が飛び出してきそうだ。

 俺はこの身体は俺の身体ではなく、もう一人の自分が天井裏から俺の身体を操っているように思えた。

 障子を閉めて。
 完全に祖母の視線から解放されたことを確認して顔を上げると、廊下の隅から妹の雅が笑いをこらえた顔で手招きをしている。

「梓馬兄さま。お帰りなさい。ふふっ、お祖母さまにシボられた?」
「……ああ。相変わらずだな、あの人」

 家族の中で妹の雅だけは、俺の本性を知っている。
 俺はやれやれと深い息を吐くと、雅は楽しそうに俺の腰にまとわりついてきた。

「あたしは反対だな。兄さまが特定の人を作るなんて。婚約者も恋人も大反対!」
「俺もだよ。どうして恋愛なんかに過度に熱中するのかわからないね。あんな独りよがりなものに」
「あはは。現役高校生のセリフには思えないわ、兄さま。でも、あたし、安心だな」
「安心?」
「── そう言ってるうちは、あたしの兄さまでいてくれるしょう?」
「バカ。俺はいつでもお前の兄さんだよ」

 こつんと雅の額をはじくと、雅は嬉しそうに目を細めた。

「……雅」

 その表情は、家族の中では決して見ることのできない伸びやかな表情で。
 俺と似通った目鼻立ちがそう思わせるのかもしれない。

 ── 幼い頃、ピアノだけが大好きだった自分にも、似ている、と。

 こいつももしかして。
 俺と同じように、何かを感じてるのかも知れない。
 ── 柚木家での自分の位置、とか、……存在の意義、とか。生まれる順番、とか。

 俺には4人の兄弟がある。
 長兄、次兄、姉、と、俺。妹の雅。
 3人の兄姉は既に独立。
 俺とは歳が離れていることもあって、俺はこの妹と一番仲が良かった。

 やはり親の愛情というのは、子どもという存在を見慣れるのか見飽きるのか、兄弟間でも下へ行くほど薄くなるものらしい。
 その足りない愛情を補おうとばかりに、雅は俺にまとわりつく。

 小さい頃、俺はそれを煩しく感じていた。

 けど今は。
 こいつの屈託のない表情を見ていると、やるせない気持ちになる。

 (こいつは俺みたいにならないと、いい)

 ── こいつがやりたい、と思うことをやらせてやりたい。
 フルートならフルートを。
 ピアノならピアノを。
 こいつが心からやりたいと望む楽器を。

 俺はゆっくりと雅の背を押した。

「ほら。今日はピアノの先生が来る日だろ? しっかり練習しておけよ?」
「わっ。もう、そんな時間? マズいよ、それ。じゃあね、兄さまっ。あ、そうだ……」
「なに?」

 雅はこっくりと頷くと、息を整えた。

「梓馬さま、また改めてピアノをなさる気はありませんか? って先生が」
「冗談。もう何年も演ってないんだぜ」
「でも時々、兄さまの部屋からピアノが聞こえるんだもの。それに先生、聞き惚れてたって」
「ああ。時々ね。フルートの選曲に悩むとき、その曲の旋律を別の楽器で弾いてみるんだ。所詮お遊びだよ。さ、……行って」
「はぁい」

 俺は雅を見送ると、自室へ向かうため、延々と続く渡り廊下を歩き出す。

 ── 所詮、お遊び。

 自分で告げた言葉が、妙に重い。

 フルートも、音楽も。
 人目を引くための、俺というプライドを保持するための、道具。


 結局、自分の好きな道には進めないのだから。
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