*...*...* Discord (不協和音) *...*...*
「こういうのも、お前さんの得意な分野だろ? 親衛隊さんがエラくお喜びになるもんなあ」「……いえ、そんなことは」
放課後の音楽室。
新しい制服に身を包んだ生徒が、談笑しながら軽やかに歩いている。
名ばかりだった春が、もうすぐ手の届くところにある気がする。
俺は軽く目を伏せ、金澤先生から渡された資料に目を走らせる。
第一セレクション。
── 【清らかなるもの】か。
タイトルの下に書いてある、この曲に付随するキーワードも頭の隅に焼き付ける。
『愛する心』、『泉』、『内気』、『乙女』か……。
これはいささか女が演奏した方が有利かも知れない。
音楽は、人に備わっている五感のうち、目と耳に強く訴えることができる芸術だ。
俺はそれの先の、『皮膚』……触感にも訴える音楽を目指しているけど。
清麗系の音調を演奏をするなら、なよやかな、肩の細い美しい女の方が映えることも事実。
けれど、音楽を聴くのは男ばかりではない。
俺は最後の方のキーワードにも目を向ける。
『旋律』、『助け』、『望み』、『安らぎ』
これならば、俺の作る音でも十分表現することは可能だろう。この指と、相棒のフルートがあれば。
火原が俺の背中に被さるようにして覗き込んでくる。
「柚木、おれにも見せてよ。うわあ、なんだか可愛いキーワードばっかりだね。
女の子が弾いたら似合うだろうなあ」
「お前さんはもう少し集中力をつけなくちゃな、火原」
「金やん、なに言ってるの? 音楽って楽しければいいんじゃない?
『音楽』の中に『楽しい』って字、入ってるじゃん」
「やれやれ、お前さんも痛い目みないとわかんないかもなぁ」
「痛い目みるくらいなら、わからなくてもいいや。ね? 柚木」
「ああ、そうだね」
俺は火原の笑顔に引き込まれるようにして自然に微笑んでいるのに気付く。
こいつはいつも、そうだ。
……入学式の日、とびきりの笑顔で、俺のこと上級生と間違えた時、から。
すとん、と、俺の中に屈託なく入ってくる。嫌みもなく溶け込んでくる。
裏表のない、明るい表情で。
俺は火原の前で本当の自分を見せたことはないが、実際は見せる必要もないくらい、こいつに気を許しているからだろう。
「でもさ、せっかく選ばれたんだから、楽しんでできるといいよね、セレクション。
……あ、日野ちゃんだ! こっちこっち!」
音楽室の扉の方に目をやると、そこには、不安げに周囲に目をやっている日野がいた。
観客席がなだらかな階段状になっている星奏の音楽室。
そのかすかな段差にも不慣れなのか、日野は早速つんのめって人にぶつかり、慌てて頭を下げている。
……全く、なんてヤツだ。もしかしてここに入るのも初めてなのか?
「こっちだよ〜、日野ちゃん」
火原は親しげに手を振って、手招きしている。
まあ、火原の場合、誰とだってすぐ仲良くなれるのが長所だけど。
日野は火原を見つけると、ようやく安心したような笑みを浮かべて、小走りに寄ってきた。
手には、ヴァイオリンと弦を持ったまま。
俺は胸の中で舌打ちする。
……こいつ、このまま転んだら、ヴァイオリンがどうなる、とかまるで考えてないんだな。
楽器は。
通常の手入れはもちろんのこと、保存方法も大切だ。
けれどそれ以上に、その楽器が唯一無二の存在であると演奏者自身が感じることが必要だと俺は考えている。
購入するときには同じ工業番号で同じモノが作られてたとしても。
一旦自分のモノになってから手間をかけ、愛着を覚えることで世界でただ一つの楽器になる。
つまり。
練習するということは、楽器に命を吹き込むということ。
そんなに乱暴に扱ってよいモノじゃない。
── 初心者なら初心者らしく、自分の楽器を大事にしたらどうなんだ。
俺は走り寄ってくる日野を無遠慮に眺めやった。
火原は、金澤からもらった資料を振りかざしながら尋ねている。
「日野ちゃん、第一セレクションの資料もらった?」
「はい。昨日もらいました。なにしろセレクションって初めてなので、どうしていいのか……」
「あはは。あのね、おれも一緒だよ? 大体でいいんだよ。キーワードなんてイメージだよね。ね? 柚木」
「ああ。日野さんもリラックスして取り組むといいよ」
「はい」
日野は、火原にはなついているのか表情も柔らかく返事を返すが、俺には、ややかしこまって固い返事をしている。
……怯えてる、というのか、恐れている、という雰囲気がぴったりな顔。
── ふぅん。心外だね。
人当たりのタイプに種類があるのはわかってる。
けど俺だってどちらかと言えば、人当たりの良さには自負のようなものを感じているんだ。
俺と火原でそんなに差をつけることはないだろう。
「あの、さっきちょっとだけ練習室で練習してきたんですけど……。聴いていただいていいですか?」
「日野ちゃん、すごいね。もうそんなに頑張ってるの?」
「約束したんです。リ……、っとっ。えっと、友達と、ちゃんとセレクション頑張る、って」
日野は火原のお気に入り、なんだろう。
日野の申し出に火原は嬉しそうに一も二もなく頷いている。
……こんなまやかしのヴァイオリンで音を奏でてるって知ったら、火原は一体どんな表情をするのか。
日野は、始めます、とつぶやいて軽く息を整えた。
そして軽く肩の幅に脚を広げると、ヴァイオリンを構える。
曲は『アヴェ・マリア』
柔らかな旋律が俺たちのいる空間を少しずつ埋めていく。
幼い頃からたくさんの音を聞き分けている音楽科の人間も、引き込まれるように足を止めた。
涼しやかで。穏やかで。
ボウイングの技術も、まるで問題がないようだ。ハーモニクスも和音も鮮やかに耳に残る。
必死に音階を追う段階はとうに過ぎたのだろう。
日野は、弦の上を踊る指を楽しそうに見つめている。
まるで、奏でることが楽しくてたまらない、といった風情だ。
日野の旋律は、まだピアノを始めたばかりの自分自身を思い起こさせた。
(音楽とは?)
ありきたりな質問がよみがえる。
俺は既に用意されている言葉を言うだけ。
(美しいものが好きなんだ。僕は。
音楽は花と一緒で一瞬たりとも同じ表情を持たない。
その瞬間の美しさを表現したいと思うんだ)
……違うな。それも正答かもしれないけど。
この曲を聴きながらでは、違う答えが湧き出てくる。
『音楽とは』の問いにはもっとシンプルな答えがふさわしい、と。
(奏でるのが好きだから)
日野はただ、それだけのために弦を震わせている気がする。
俺の感想は聴き間違いではないのだろう。
演奏が終わった後でも、微動だにしない観客。
その静寂を破ったのは火原だった。
「すごい! すごいね、日野ちゃん! こんなに素敵に弾けるなんて、君って本当にすごいと思うよ」
「うわぁ……。そんなに褒めてもらうと……」
火原の声に釣られるようにして、歓声と拍手が湧く。
日野はようやく周囲に気付いたのか、ヴァイオリンを肩から下ろすともごもごと口を動かしながら頭を下げた。
普通の人間は、演奏前にこれから浴びせられるであろう視線の多さに躊躇して顔を赤めるのだろうが、日野は違った。
弾く前は、まるで何も考えず。
弾いてから、視線の多さに慌ててる。賞賛の声を身体中に浴びて、戸惑って。
耳まで赤くなって照れている。
── なかなか面白い子だね。
俺も他の観客と同様、知らず知らずのうちに日野の音に聴き込んでいたのだろう。
俺は手前に落ちてきた髪を肩に垂らしながら、日野を探るように見つめ続けた。
なるほどね。
── リリのくれた魔法のヴァイオリンなら、昨日の今日で素人もここまで弾けるってワケだ。
「柚木ー。いっけね。おれ、オケ部のミーティングがあるんだった。これ、預かっておいて」
火原は慌てたように腕時計を抑えると、さっき金澤からもらったプリントを俺に押しつけた。
「いいよ。明日、教室で渡すよ」
「よろしくな〜。じゃあね、日野ちゃん。キミのヴァイオリン、本当にすっごく良かったよ。今度俺と合奏しようね」
「あ、はい! よろしくお願いします」
日野はぺこりと、火原の後ろ姿に頭を下げて。
ふと、初めて俺に気付いたように、目を合わせた。
「あ……。柚木先輩もありがとうございました。聴いて下さって」
「ああ。なかなか素敵な演奏だったよ」
俺は素早く周囲に目をやる。
5時半を少し過ぎたところ。
さっきまで集ってた聴衆もまばらで。
ありがたいことに、いつも俺の周囲にまとわりついている女の子たちも見当たらない。
不愉快なんだよね、本当に。
初心者が知ったかぶりしてセレクションに出てくるのが。
── お前の、存在がさ。排除したいほど、いやなんだよ。俺は。
「じゃあ、私もそろそろ帰ります。どうもありがとうございました」
軽くお辞儀をして、後ろを向けた背中に俺は言った。
「……ねえ、日野さん。自分がコンクール出場にふさわしいか、不安にならない?」