*...*...* Discord 2 *...*...*
「え……?」日野は背中越しに肩を揺らす。そして、何かに立ち向かうような意志を持って、今度は振り返った。
俺は、柔らかな微笑を浮かべて言葉を続ける。
「不安にならないか? って聞いてる。君はとても繊細な女の子だし……。 このコンクールの重圧で苦しむのを、僕は見たくない。そう思ってね」
お前の存在が鬱陶しいんだよ。とてもね。
そんな気持ちを柔らかな言葉と表情に包んで、もう一度告げる。
日野は、一瞬、何を言われているのかわからなったのだろう。
身体中にみなぎっていた生気が抜けてしまったようなぼんやりとした表情で俺を仰ぎ見ている。
「どう?」
「そうだ、私、まだ柚木先輩に言いたいことがありました」
「なにかな?」
……こいつ、俺の質問、ちゃんと把握してるのか?
人との会話は、いうなればアンサンブルにも例えることができて。
生まれた音を受け取る。更にそこから派生する新しい音を生んで、相手に返す。
それを繰り返すことによって初めて成立するものだ。
なのにこいつは、いきなり不協和音を奏でて、相手を驚かす。
そんな音楽なんて、ない。
「日野さん?」
日野は何か思案する表情をしたと思ったら、今度は、とびきりの笑顔を俺に向けてきた。
なんなんだ、一体。
「ありがとうございました!」
「は?」
「昨日、練習室に行ったんです。
そうしたら、偶然、柚木先輩と火原先輩の合奏を聴くことができたんです」
昨日……。
ああ、思い出した。
確か火原がオケ部部員のパート分けに苦労してて、相談を受けたんだった。
そのとき俺は、パーティションごとの音階を軽く吹き分けて。
火原は、それに沿うように金管のパートを演ってくれていた。
『やっぱさ、柚木に相談して良かったよ。すっごく言ってくれることが的確なんだ。
こんなのオケ部で相談してたら、半日経っても結果出ないよ』
『そんなことないよ。部員ともきちんと相談するんだよ?』
『了ー解! じゃ、早速打ち合わせてくるね!』
つかえが取れたようなすっきりした表情をして火原は練習室を出た。
その後、俺は一人で練習を続けた。
金色のフルートとともに、音楽と一体になれる瞬間。
先日コンクールに出場する1年を紹介されたとき、そいつが明け方まで寝ないでチェロを弾き続けると言ってたが、俺はそいつの気持ちが分かる気がしていた。
何もかも忘れて自分が無になる瞬間がある。
家のことも、学園での自分の立場も。── 俺が俺であるということさえも。
問題を先延ばしにしているのではなくて、
今この瞬間を愛おしみたい、と思う、時。
「ふぅ、っと……」
俺は気の向くままに吹き終わると、労るように口唇を軽く抑えた。
オケの良いところはもちろんたくさんある。
重厚で壮大なハーモニーは、オケでしか表現できないモノだろう。
音楽を作り上げたときの部員達の間にある一体感は、何物にも変えられないんだよ、と火原は嬉しそうに伝えてくる。
確かにそうだろう。
けれど利点に付随する欠点もたくさんあるわけで。
いろいろなレベルの人間が集う場である以上、最大公約数的な作品しか出来上がらないのも事実。
部員の取りまとめやその他の雑務が増えるのも事実だ。
「……で? それがどうかした? 日野さん」
それが一体どうだ、というのだろう。
たかが一度、旋律を聴いただけで、知ったかぶりをするつもりなんだろうか?
それとも俺の周囲の女の子のように、ありとあらゆる賞賛の言葉を投げかけるんだろうか?
「楽しかったです! 先輩達の作る音が」
「は?」
「きらきらしたり、お腹の底がくすぐったかったり。
きっと柚木先輩と火原先輩は仲が良いんですね。 ワクワクするような楽しそうな音がいっぱい聞こえてきました!」
「日野さん……」
「それで、ですね。私もそんな楽しい音楽が作れたらいいなあ、って思って……。
普通科の人間って、音楽とは遠いところにいるんです。
ヴァイオリンケース持ってるだけで不思議がられます。
きっと、火原先輩のトランペットや柚木先輩のフルートの音、
聞いたことない人もいっぱいいるんです。だから、あの……。
あ、あれ? 柚木先輩、私、なんの話、してたんでしたっけ?」
「……いや。もういいよ、日野さん」
……霊長目、注意力散漫科、絶滅種。
日野って女は、どうやら俺のまわりにはあまりいないタイプの人間のようだ。
「まぁいいか。大事なことならきっとまた思い出すでしょう!」
大きな瞳。
はきはきとした言葉が生まれる唇。
言葉を繋ぐたびに、赤味を帯びた髪がこいつ自身を応援するかのように揺らめく。
『屈託がなくってさぁ。とにかく可愛いよ、日野ちゃんは!』
最近火原は、コンクールの話をすると、最後にそう言って締めくくる。
『まったく……。火原は日野さんがお気に入りなんだね』
『え……?』
『そういうことだろう?』
『……って、って!! どうして柚木はそうやって落ち着いていられるの?
いや、可愛いって言っただけじゃん! どうしてそういう話になるの!?』
『火原、もういいから』
くすくす笑いながら制止しても、火原の気持ちは却って加速するばかりのようだ。
『そうなのかな? おれって、もしかして、この状況ってもしかして……っ!? うわーん!!』
火原は目の前の薄緑の髪をかきむしるかのようにして困惑している。
俺はそんな火原の様子を見守りながら破顔する。
俺には弟がいないけど、もし火原みたいなヤツが家族にいてくれたら、もう少し違った人間になれていたかもしれない、な……。
『……ちぇっ。でもさ、でもさ、日野ちゃんには黙っててね、絶対だよ?』
『わかってる』
火原を安心させるべく微笑むと、火原は口をとがらせた。
『いいなあ、柚木は。きっといろんな女の子とつきあったことがあるんだろ?
余裕っていうの? おれにはなくて、オトコには必要なモノをいっぱい持ってるって感じがするよ』
『火原、何を言ってるの? ほら、時間に遅れるよ?』
俺は理由を付けて火原を追い立てると、そんなことを考えながら自分の相棒に息を吹き込み続けた。
── 俺に合うヤツなんていない。
そもそも俺が俺の意志で決めることなんて何も無いんだ。
いっそ、恋なんて錯覚なのだ、と。
あんなつまらないものにウツツを抜かすヤツらを見て、嘲笑ってた方がいい。
このときの俺は、この考え方になんの疑問も持っていなかった。