*...*...* Disturb *...*...*
── いつから、なのだろう。ぼんやりとそんなことを考えて、ため息をつく。
この俺としたことが思い出せないなんて。
集中できない。我慢が足りない。些細なことに簡単にイラつく。
挙げ句に、先日受けた全国模試の順位の結果が思わしくない。
勉強は俺にとってはただのツールで。
理系科目も文系科目もルールを一つずつ把握し、応用させていくゲームの一つに過ぎなかった。
それに飽きると、フルートに触れる。
フルートの旋律は、一定方向に固まっている思考を解くほぐすのに最適な友で。
勉強が一息つけばフルートを、フルートの音階が心地良く感じたら、今度は勉強を。
その間に浮かんでは消えるのは宗家の雑務。
祖母の気に入る、そつのない身のこなしで、家の行事をこなしていく。
そんな日常の繰り返しだった。
音楽と学業とはとても相性が良くて。
お互いがお互いを高めていく、とてもシンプルなモノだったのに。
成績は芳しくない。
── 音は、乱れる。
俺は一体どうしてしまったんだろう?
「ふぅ……」
放課後の屋上。
第一セレクションが無事済んで、第二セレクションのテーマが公開された今。
空はどこまでも、柔らかな春の色が続いている。
フルートの柔らかな感触を手に感じながら、俺は『タイスの瞑想曲』を吹き終えた。
簡単で、良く吹きこなした曲なのに、本番では聴衆に分からない程度だったが、カヴァードキーのポジショニングが滑って、途中何度も音が自分の言うとおりにならなかった。
結局、第一セレクションの優勝を納めたのは、意外なことに日野香穂子だった。
実力、という観点で言えば、明らかに月森くんの方が優位だったが、清らかな選曲と、解釈の仕方が良かったのだろう。
また普通科の生徒がここまで頑張ったのだ、という感動が音楽科の教授陣をうならせたのか、それとも判官贔屓なのか。
蓋を開けてみれば、圧倒的な差を付けての優勝だったのだ。
(……気に入らない)
あれ以来、日野を取り囲む周囲の目は変わった。
まず、セレクション出場者の雰囲気が大きく変化したように思う。
火原は以前にも増して、日野を褒めるようになった。
── 頑張ってる姿勢が良いだの、笑った顔が例えようもなく可愛いだの。
火原に関しては、俺の掌中内だ、という思いがあるからあまり気にはならないものの、このごろやたら視界に入ってくるのは、月森、土浦、の二人だろう。
月森は同じヴァイオリニストとしてセレクション出場に対する強い思いがあるのか、闘志をむき出しにして、日野に向かっているし。
土浦に至っては、普通科の生徒の注目を集めたことが彼の義侠心をくすぐったのだろう、両手を挙げての喜びようだ。
何かにつけて日野にまとわりつくようにしている。放課後にはピアノとヴァイオリンの合奏曲まで聴こえてくることもあるほどで。
── 誰が日野の隣りにいても面白くない。
この気持ちは、当初自分が考えていたよりも俺に注目が集まっていないからなのか……?
「わ、柚木先輩、こ、こんにちは」
突然、何かを引き摺るような重い音がして、鉄製のドアが開いた。
屋上から見える、その入り口はただただ暗く、俺は自分の思考までも暗闇に吸い込まれるような気がした。
そこから覗く普通科の制服は、逆光がまぶしいのか眉を顰めて笑っている。
……こいつ、なのか? もしかして。
俺の、すっきりしない原因は。
「えっと、私、楽譜を探してて……。あの、1曲弾いたらすぐどこかに行きますから」
「そんな言い方は寂しいね、日野さん」
日野はピクリと怯んだ様子を見せると、俺をすり抜け壁の端を小走りに進み、屋上の一番端に陣取った。
「で、でも! 柚木先輩のおジャマをしても申し訳ないので」
「日野。お前、俺のジャマを出来るほど、存在感があるとでも?」
二人きりの時だけに使う呼び名で呼ぶと、、日野はぐっと言葉を詰まらせて唇だけを動かしている。
── 面白い。こういう反応を見てると、また虐めたくなる。
俺は日野のいる壁際へと脚を進めた。
「大体、俺に勝てると思ってるわけ? 何事も」
「あ、えっと! この前のセレクション、頑張りましたよね? 私。一応私が1位で柚木先輩が3位……」
「冗談。セレクションは1回だけじゃないんだぜ? 4回トータルの順位を競うんだよ。初めから全部の力を出し切ってどうするんだよ?」
「確かにそうです。……け、けど!!」
日野は俺の嫌みをあっさりとやり過ごして笑う。
「私、初めてだったんです。コンクールに出場したのも、見たのも。控え室、もあんな素敵なドレスも初めてだったし。ワクワクして、ドキドキして、あとでジワーって嬉しくなって!」
「お前な、もうちょっとマシな日本語使えよ」
全く。日本には日本古来の美しい言葉があるというのに。
最近の女の子は、何でも簡単な擬態語でごまかしてしまうところがある。
「あ、ごめんなさい。それで、同じクラスのお友達もとても喜んでくれたんです。
も、もちろん、私の演奏を、じゃないですよ。柚木先輩の演奏とか月森くんのヴァイオリンの音とか、聴く機会に会えて嬉しかったって。
コレですね。リリの言ってた魔法、って。音楽が、人の心の架け橋になるって! だから今度も、頑張ろう、って!」
そう言って、日野はヴァイオリンケースから本体を取り出すためにしゃがみ込んだ。
小さな身体。
柔らかな色素の薄い髪が、顔の横に落ちていく。
陽に触れたことのない首筋が柔らかそうに息づいている。
── 心臓が、跳ねる。
にわかに、心音がすぐ、耳のそばで脈打っているように聞こえてくる。
どうしたんだ……? 俺は……。一体。本当に。
「……お前みたいに脳天気だと、人生ラクかもな」
「え? ……そうですか? あ、そうだ。柚木先輩、『アヴェ・マリア』、合奏していただけませんか?」
俺の答えを聞く前に、日野は嬉しそうにヴァイオリンを構えて俺を見上げてくる。
……こいつは。
今まで、人を疑ったり、裏切られたりしたことがないんだろう。
天真爛漫に育ってきて。
人の期待の大きさや、その期待に背いたときの冷たい目の色とか。
そんなモノに出くわしたことがないんだろう。
昨日、新調したばかりの鈍色の漆器。そこに活けた一輪の薔薇が目に浮かぶ。
お前からしてみれば、白い薔薇はきっとどこまで白くて。
茎に巣くうトゲの多さや、花の裏の虫食い、汚れた部分などには気づきもしなくて、花はいつまでも美しく、枯れないモノだと思っているのか。
このまっすぐさ、……というか無防備なまでの無邪気さは、俺が認める唯一の友人、火原とそっくりだ。
「……お前の要望を俺が簡単に受理するとでも?」
あきらめ顔でそう言うと、日野は笑って言い返してくる。
「こんなに気持ち良い季節だから、季節に免じて、ね? きっとこの曲も似合いますよ、この空に」
いきます、と、日野は演奏のフォルムを作ると、柔らかな唇を引き結んだ。
ゆっくりとヴァイオリンの旋律が生まれる。俺の音を乗せるために、ゆるやかに。
彼女の清々しい音色は、薄水色の5月の空にも吸い込まれていくようで。
俺の心を労るように、低く高く鳴るヴァイオリン。
俺のフルートの音を際立たせようと、わざとビブラートを豊かに使って音を広がらせている。
(コンナ ニ ウマク ナッテ)
まだ音楽経験の浅いこいつのことだ。合奏者のことを考慮して奏でているのではないだろう。
(先天的に備わっているモノ)
相手を思いやっての演奏が自然にできる能力を、こいつは努力も無しに先天的に身に着けているのだ。
── 魔法のヴァイオリンを手に入れただけでは、身に付かない技量まで。
音が空に吸い込まれていく。音の影を追うように俺も続く。
「どうもありがとうございました!!」
引き結んでいた唇がほどけていく。嬉しそうに髪を揺らして。
日野は満面の笑みで弦を下ろす。
「良かったよ、日野。俺の心にひどく響いた」
俺の口は俺の意志をそのままに反映させて動いている。
── 気持ちの良いモノなんだな。
『仮面』というフィルターを付けないで、自分をそのまま現すことができるということは。
日野は俺の言葉に戸惑ったように頷いたものの、訝しげに俺の顔を見守り続けている。
「なに?」
「えっと、柚木先輩のことですもん。まだ先にセリフが続くのかと思って。『……でもまだまだだな』とか、『……及第点、ってところか』とか」
「そう言って欲しいなら、いつでも言ってやるよ」
「けけ結構です!!」
こぼれ落ちそうなほど目を丸くして。でも次の瞬間、匂やかに笑う少女。
5月の風が天空を駈け抜けていく。