*...*...* Harmony 2 *...*...*
フルートの描いた『アヴェ・マリア』の音色が、柔らかく屋上の空気を暖める。── 気持ちがいい。
この蒼い空にすこーん、って心を預けたような気持ち。
旋律が尾を引いて、広く、遠く、響き渡っていく。
それが良い香りを漂わせて、揮発する。
(……すごく、素敵だ)
「日野……」
「先輩、気持ち良かったですか? なんだかそんな顔してる」
私は改めて、目の前の男の人を見つめる。
貴公子然とした容姿。艶のある長い髪。
頬が上気したように赤い。
いつもは翳りを帯びた白い肌の変化に、私は一瞬目が離せなくなる。
ただ、器用だ、というだけで、人はこんなに合奏者に合わせて、優しく音色を奏でるだろうか?
2つの音色が、殻を破る。
そんな気がした。
殻の割れ目から覗く、むき出しのゆで卵。
純白の、弾力のある白味。
そんな柔らかい、柚木先輩自身の心が、今なら触れられるような錯覚に惑わされる。
今ならその柔らかい彼自身に聞けるような気がする。
どうして、私には、とげとげしい言葉を使うの?
どうして辞退するように、言うの?
ううん。
……嫌いな人間に対して、柚木先輩はどうしてこんなに優しく音色を奏でてくれるの?
「私も、気持ち良かった、です」
臆することなく視線を合わせて気持ちを伝える。
怖くていつもできなかったけど……。今なら平気。
何言われても、笑って返せるような気がするの。
しかし予想に反して、柚木先輩はいつもの減らず口を利くこともなく、ずっと私を見つめ続けている。
「先輩……」
「お前から言えよ。……なんだ?」
「はい。……あの、もし、先輩が……」
私のことを好きでいてくれたら、……ううんっ。そんなおこがましいことは言わない。
嫌いではなかったら──。
(知りたい)
今、私の胸に浮かんだ気持ちは、とてもシンプルで。
けど人が人と結びつくための一番最初の大切な気持ち。
(あなたのことがもっと知りたい)
それだけなの。
1曲の間に、自分の気持ちが、大きく転換したことを感じる。
ハーモニクスを利かせるところを、わざと引き立てるようにフルートを低音にしたこと。
軽く指が揺れるところに対して、少しだけゆっくりと合わせてくれたこと。
ここまで優しく心遣いをしてくれる人のこと、私、もっともっと知りたいんだ。
「俺が?」
「そう。先輩が……」
こくん、と飲み込んだ息。それが喉を通っていっぱいになる。
言いたい言葉が出てこない。
小さく開いた唇。見ている先輩からしたらとてもマヌケに見えるだろう。
── 先輩。
心の中でつぶやいてみる。
あと3回ある、コンクール。
私と一緒に、参加してくれますか?
あなたのこと、もっともっと、見たいと思う。知りたいと願ってる。
先輩のいろいろな表情、私に見せてくれると、いい。
先輩が私を見つめる目は、いつもの女の人に取り囲まれているときとは違って。
かといって、私にイジワルを吹きかけるときとも違う、どこか暖かいモノで。
── ずっとこのまま、一緒の空気の中にいたい。
先輩の目にチカラが籠もったのがわかる。
今、もし、お互いがお互いに触れあったら、どうなっちゃうんだろう……?
無意識に伸びる手。
微かに震えている指先が、数センチ、先輩のブレザーに近づいた。
そのとき。
「いたいた! 香穂ちゃん!! 今日はごめんね、無理言っちゃって!」
鉄製のドアが鈍い音を立て、オレンジ色のシャツが視界に飛び込んできた。
「あ、火原先輩!」
私は慌てて弦を下ろす。
もし空気に色が付いてたなら、今、柚木先輩と私の間には、微かな色がにじんでいるだろう。
私は不意に、その空気を屋上の空へ紛らわせてしまいたくなった、から。
柚木先輩は、いつもの落ち着いた表情に戻って、火原先輩と話をしている。
「どうしたの? そんなに急いで」
「いやあ、柚木。あのさ、話せば長いんだけどね、兄貴の彼女にプレゼント渡す、って話でね。
ぜひ兄貴が香穂ちゃんのチカラを借りたい、って言い出してさ。横暴なんだ」
穏やかな表情を浮かべている柚木先輩の横顔を認めると、私は心の中でため息をついた。
(やっぱり、言わなくて良かった)
心に浮かんだ柚木先輩へのいろんな気持ち。
もし言ってたら、どうなってただろう。
迷惑がられる? ううん、悲しいけれど、多分、それ以前、だろうな。
きっと相手にもされない、って感じ。
それはいくらなんでも寂しすぎる、よね?
火原先輩は、私のヴァイオリンケースを手にすると、駆け出さんばかりの勢いで私の手を取った。
「ごめんね、柚木」
「……じゃ、あの、柚木先輩……。どうもありがとうございました」
「いいよ。気にしないで? じゃあね、日野さん」
柚木先輩はにこやかに火原先輩へ笑顔を向ける。
そして火原先輩にはわからない角度で、少しだけ眉を顰めて私を凝視した。
── ぞくり、と背中が引き締まるような思いがする。
やっぱり、不愉快だったんだ。
私がグズグズと言い募ってたこと。
そして結局、的を得た返事ができなかったこと。
ソフトな人当たりの先輩だけど、きっと誰よりも自分の時間を侵害されること、キライそうだもん。
(柚木先輩、ごめんなさい)
私はぺこりと頭を下げると火原先輩の後を追った。
*...*...*
「ごめんね〜。突然お願いしちゃって。でもさ、女の子の意見も聞いてみたくて」「いえ。お役に立てるなら嬉しいです」
女の子の意見、かぁ……。
火原先輩なら相談に乗ってくれそうなオンナ友達はいっぱいいるような気がする。
どうして、知り合って間もない私と、なんだろう?
あ、そうか。
もしかしてこの前のセレクションの時のこと、助言をくれるのかもしれない。
あれこれと考えあぐねている私に気付いた火原先輩は、私の顔を覗き込むようにして囁いた。
「……なんてね」
「はい?」
「ホントはおれが香穂ちゃんとふたりで歩いてみたかっただけ」
照れたような顔がすいっと耳元を離れると、何事もなかったように火原先輩は、私の一歩先を歩き始めた。
「なんていうのかな〜。第一セレクション、香穂ちゃん、本当によく頑張ってたよ。
おれ、音楽科で3年で、きみよりも音楽の経験はあるって思ってたのに、全然かなわないって思った。
おれね、きみの良いところ、これからも近くで見ていきたい、って……」
そこまで一息に言うと、火原先輩は歩みを止める。
微かに傾き出した西日が、ファータの銅像の影を長くし始めて、火原先輩の頬に影が差す。
「……先輩?」
「── きみのそばにいたい、ってそう思ったんだ。
わ、おれ、なに一人で演説してるんだろ。ごめんねっ! 香穂ちゃん!!」
「いいえ。……ありがとう」
火原先輩の慌てっぷりに、私は返事をする前に思わず笑ってしまう。
ホント、火原先輩って可愛い。
柚木先輩と火原先輩って同い歳のハズなのに。
どうしてかな?
火原先輩といると、私はなぜだか柚木先輩と一緒にいるときには得ることのできない穏やかな気持ちに包まれる気がする。
火原先輩って、まっすぐで、どこか子どもみたいで。
── 柚木先輩みたいに刹那的じゃなくて。……一緒にいると安心できて。
「私、セレクション、初めてだったから、本当に良くわかってなくて……。これからもよろしくお願いします」
「だから。香穂ちゃんは、香穂ちゃんのままで大丈夫だよ? おれが保証するって!」
「えへへ。ありがとうございます。……で、今日はどこへ行きますか?」
「あ、えっと、あのね! 長谷川にオススメのお店聞いたんだった! ここを曲がってね……。
あれ? 柚木も今日は練習、おしまいなの?」
ずっと火原先輩の足元を目で追っていた私は、先輩の素っ頓狂な声に顔を上げた。
そこで、私は再び屋上の幻影を見ることになる。
####
……うう、狭いよう。
柚木先輩も火原先輩もそんなに大柄な人ではないけど、後部座席に3人っていうのは、やっぱり少し狭い。
しかも火原先輩のトランペットは、1人前の顔をして堂々と、座席を占拠している。
あれから固まったように脚が動かない私を残して、2人の先輩の間で話し合いがまとまったらしい。
私たちは3人で、火原先輩のお兄さんのプレゼントを買いに行くことになった。
火原先輩の元気パワーか、それとも柚木先輩が大人すぎるのか。
さっきまで柚木先輩と私の間に漂っていたぎこちなさはすっかり払拭されていた。
けど、……私はそこまで大人じゃないもん。
柚木先輩と膝が触れあうくらいの至近距離は、やっぱり落ち着かない。
「あ、あのっ。狭いですね。3人だとどうしても……っ」
「もう少し、僕の方に寄れば? 日野さん」
「い、いえっ」
これ以上近づいたら、あとで何を言われるか分からない。
私は、座席に浅く座って、少しだけ火原先輩の方に身体を寄せた。
それをどう理解したのか、火原先輩は暢気な声で笑いかけてくる。
「ごめんね〜、柚木。おれ、場所取っちゃうもんね。トランペットも場所取るし」
その屈託もない声に私は絶望的な気分に陥る。
火原先輩……。味方を敵に売っちゃってどうするんですか??
って、そもそも火原先輩は、私を味方とは思ってないかもしれない、けど。
けど、……なんていうのかな? ほ、ほら、音楽を共にする仲間、でしょう?
恨みがましい目を柚木先輩に向けると、彼は極上の笑顔で微笑んでいる。
「……だから、ね? ほら」
「……はい」
……神様、これは、両手に、敵、ってことなのでしょうか?
今朝のTVの占いは、
『ラッキーなのかアンラッキーなのかわからないことが起きるかもv』
なんて良くわからない結果が出てたけど、これはまさにその状態なのかもしれない。
私は観念しきって、ほんの少しだけ、腰を柚木先輩の方にずらす。
息がかかりそうな、空間。
私は、どこに顔を向けていたらいいのかな?
静かに吐き出す吐息さえも、熱を持ってる。
幸い火原先輩が提案したお店は、車ならすぐのところにあったから私はずっとフロントガラスを見続けることにした。
ヴァイオリンケースの取っ手がみるみるうちに汗ばんできたのがわかる。
室内はそんなに暑くない。
けど、車の振動でときおり柚木先輩にぶつかる膝からさえも熱が生まれる。
慌てて身体を小さくすると、空いた空間に柚木先輩の膝が出る。
ちりちりと左頬が熱い。
これは、気になる人の視線が集中している、せい。
「あ、あの! 柚木先輩、ななにか? 私の顔、ヘンですか??」
私は息も触れあうくらい近い距離で、柚木先輩と顔をつきあわせると、目を合わせて言い放った。
冷たくしたり、優しくしたり。怒ったり。ちょっかいかけたり。
もっと、キライかスキ。
どちらかの感情だけを単純に表してくれたら、私も、余計な期待、持たなくていいのに。
「急にどうしたの? 日野さん」
「いえ、何でもありませんっ!」
何を言っても、勝てない相手。
きっと私を見ることも止めてくれない。
きっと余裕たっぷりに言い返してくるんだ。
きっとね、えっと……っ。
『そんなのは僕の自由だよ? そう思わない?』
とか?
『見てて何が悪いの?』
とか?
ぐるぐると、私は頭の中で、柚木先輩の次のセリフを考える。
けど、彼のセリフは予想外のモノだったんだ。
「日野さんは可愛いな、と思って見ていただけだよ? それがどうしていけないのかな?」
「そうそう。香穂ちゃんって本当に可愛いよね」
「か、かわ…っ?」
この期におよんで、というか、隣りには火原先輩も、それで、それでもって、運転手さんの田中さんまでいる、っていうのに……っ!!
『後ろのことは、気にしなくていいから』
私が柚木先輩の車に乗せてもらうとき、いつもさりげなく柚木先輩は、田中さんにそう、言う。
けど、けど。
かしずかれて育ってない私は他の人の視線がすごく気になるんだから!
「あ、柚木。このお店に行こう、って思ってたんだ」
「わかった。……田中。車、止めて?」
滑るように、黒塗りの車が止まる。
ドアが開いて、柚木先輩が先に降りる。
あ、そうか、ヴァイオリンは車内に置いておけばいいよね?
そろそろと身体を動かして。
ドアの向こうに脚を下ろしたとき、しなやかな白い手が目の前を横切った。
「お手をどうぞ?」
「じ、自分で降りますっ」
イジワルにはイジワルで。
っていうのはあまりに子どもじみてるけど、さっき言い負かさせたことがクヤしくて、私はぷいと顔を逸らした。
ふと、逸らしたときに露わになった、片方の耳。
そこに聞き覚えのある、深い声が注がれる。
「こういうときは、オトコの顔、立てておけよ」
「……っ!!」
耳がじんじんする中で、私は雑踏に立つ。
── やっぱり、柚木先輩ってわからない。