*...*...* Harmony *...*...*
「──……」


 日野と弾いた『アヴェ・マリア』の旋律が、屋上を越えて、遠く霞かかった低い雲に吸い込まれて行く。
 お互いの音色が生んだ、相乗効果。

 ── 気持ちが良い。

 こいつと奏でたせいなのか。それともこの湿度、空気がそうさせたのか。
 それとも、今、俺とこいつの波長が、馴染んだのか。
 フルートの音色がこれほどまでに柔らかく、丸みを帯びてるなんて。

 今までの俺が奏でる音楽は、魅せるため、聴かせるための観客中心のもので。
 フルートは一つの装飾品だったのだ。
 柚木家の三男であることをより華麗に魅せるための、包装紙。
 そんなつもりでいたのに。

 自分自身をそっくりそのまま演じる、ということがこれほど快感に満ちたものとは。
 ── 身体、が、震える。

 できることなら、空に浮かんで消えた一瞬の音を取り戻したいと思うほどに。

「日野……」
「先輩、気持ち良かったですか? なんだかそんな顔してる」
「……日野」

 目の前の音色を分け合った合奏者は首をかしげて微笑んでいる。
 ── 俺としたことが、どうしたんだ? 声も自分のモノじゃないようにかすれている。

「……私も、気持ち良かった、です」

 日野は一言一言思いを込めたようにつぶやくと、詰めていた息をほどくように深く満足気なため息をついた。
 2回、3回と呼吸を繰り返すウチに、きりりとした線の頬に赤味が差してくるのがわかる。

 日野が創り出す音色はとても素朴で、ひそやかで。媚びがなくて。
 自分とは全く相容れない音楽なのに。
 それが俺の中に入ってくると、これほどまでに響き渡って、俺の幼い部分を撫でていく。

 ── いつまでも聴いていたいと思うほどに。

 お互いがお互いの顔の中に答えがあるのだと思うほど、飽きることも忘れてお互いの顔を見つめ合って。
 でも、伝えるべき言葉が出てこない。

 日常生活において、言語、は、便利だ。
 言語を通して人類は成長してきたし、思いを伝えるには最高の道具だ。
 けど、今、この場では、言葉は限りなく便利で、また不便な道具だとも思う。

「日野……」
「先輩……」

 言葉で気持ちを伝え合うことに慣れすぎた人間たちは、言葉で伝えられない、言葉以上の思いに出くわしたとき、どうやってその思いを昇華させるのか?
 ── 今、ここで、楽器のチカラを借りることができたなら、俺のフルートはどんな音色を奏でるだろう。

 ふい、と一塵の風が頬を撫でていく。
 そのチカラを借りて、俺は無理矢理いつもの自分に戻った。

「お前から言えよ。なんだ?」
「はい。……あの、もし、先輩が……」

 はきはきした日野にしては珍しく逡巡して。
 そんな日野のたゆたいの中に、甘い、そしてずっと浸っていたいと感じるほどの空気が漂っていて。

「俺が?」
「そう。先輩が……」

 言いかけたそのとき。

「いたいた! 香穂ちゃん!! 今日はごめんね、無理言っちゃって!」

 突然発せられた、鉄製のドアを無遠慮に叩く音。
 それに続いて、俺の親友の声が続く。

「あ、火原先輩!」
「合奏が聞こえてきたから、屋上にいるって分かったよ! 柚木の音は相変わらず綺麗だよね」

 火原は屈託のない声で、俺たちに話しかけてくる。
 火原が人の輪に加わると、いつも周りが明るくなる。このときも例外ではない。
 俺の親友は、男、女、普通科、音楽科の垣根をやすやすと越えることができるのだ。

 邪気なしに。── 俺のように仮面を被ることも無しに。

 日野はあわてて弦を下ろしたのだろう。スカートの端についた松脂がキラリと反射した。

「どうしたの? そんなに急いで」
「いやあ、柚木。あのさ、話せば長いんだけどね、兄貴の彼女にプレゼント渡す、って話でね。
 ぜひ兄貴が香穂ちゃんのチカラを借りたい、って言い出してさ。横暴なんだ」
「はい。お昼休みのメールの件ですよね? いいですよ。お供します」
「ありがと! 助かった〜〜」

 火原は嬉しそうにはしゃぐと、日野のヴァイオリンケースを手に取った。
 今にも駆け出さんばかりの勢いだ。

「ごめんね、柚木」
「……じゃ、あの、柚木先輩……。どうもありがとうございました」
「いいよ。気にしないで? じゃあね、日野さん」

 日野は寂しそうに微笑んで、火原の後に続く。

 ……ったく。
 どうして日野はあんなやり切れない表情を浮かべているんだ?
 自分の意志で火原に付いていったのに。

 ── まるで、お前を引き留めなかった俺が悪いみたいじゃないか。

 バタン、と無機質な音。
 続いて、日野、火原の両方が消えて。
 何でもない鉄製のドアを見ていると、俺は色彩のない世界に迷い込んだような気がした。

 ……何もかも夢のあとみたいだ。

 日野がこの場にいたことも。
 ここで奏でていた音楽も。
 あいつが言いかけて、空に消えた言葉も。

「……鏡よ、鏡、か……」

 毎日、開けても暮れても自分の外側の容姿だけを気にして、歳を重ねていったお后。

 今、鏡があるのなら教えて欲しいよ。
 俺の外側の顔は今、どんな表情を浮かべてる?
 いつものように、一点の曇りもない笑顔を見せているだろうか?

 不意に昨日活けた純白の薔薇の立ち姿を思い出す。

 ── 華道と一緒だ。
 どの花も、花という花は一瞬たりとて同じ表情を持たない。
 それと同じで。
 さっきまで俺と日野の間に流れていた空気は、流れ来て、流れ行き、もう元には戻らないのだ。

 あいつは何を言いかけていたのだろう?

 そんな感情的な思考の横で、もう一つの論理的な思考に集中している自分がいる。
 きっとあの2人は、多分、普通科教室へ日野の荷物を取りに行ってから、正門に行く。
 その所要時間と、俺が屋上から正門に行くまでの時間と。

(まだ、間に合うか?)

 俺はフルートを片付けると、ゆっくりと正門へと向かった。
*...*...*
「あれ? 柚木も今日は練習、おしまいなの?」

 俺の予想通り、俺より後に来た火原と日野は、正門前で俺の姿を見つけて驚いている。

「ああ。良かったら車を出してあげようと思ってね。今日はこんな天気だし。傘、持ってないでしょう?」
「え? あ! ホントだ。ヤバいなあ。これじゃあ。で、でも、いいの!?」

 火原はたった今気付いたかのように、憮然とした顔で梅雨空を見上げている。

「ああ。……どうぞ」

 俺の目配せで、白い手袋が後部座席のドアを開ける。
 そこで火原にはわからないような小声が耳元をかすめた。

「梓馬さま。あの、今日はお早くお帰りになるようにと大奥さまが……」
「大丈夫。時間までには帰るから」

 小声で運転手の口を封じる。少なくとも、今は、家のことで煩わされたくない。

 祖母、か……。
 いろいろな小言。それを直接俺に言えば良いものを、自分より弱者のこの人に感情のはけ口の役までさせているのだろう。
 驕慢な祖母に家族のみんなは手を焼いている。
 古い日本家屋の家。
 その頂点にいる祖母は家屋同様古い考えの持ち主で。
 家の人間は自分の持ち駒。思いのままに動かせると考えているのだ。

 俺は、その考えをふりほどくように髪をかき上げた。

「さ、2人とも、乗って」
「じゃ、お先に〜。へへっ。シート、ふかふかだ」

 火原を先に。次に日野を座らせ、一番最後に俺が車内に入る。

 日野の顔はどこかしら戸惑ったように赤い。
 いつもの活発さはなりを潜めて、その赤味はしっとりとした雰囲気を醸し出している。
 通常なら、後部座席に俺と日野、2人だけだからゆったりとした車内も、3人で座るとどうしても身体の密着は避けられない。
 しかも3人とも楽器持ちだ。
 火原の相棒のトランペットはヴァイオリンケースよりも場所を取っている。

「あ、あのっ。狭いですね。3人だとどうしても……っ」
「もう少し、僕の方に寄れば? 日野さん」
「い、いえっ」

 いつもの表向きの笑顔でそう言うと、日野はここ数日の俺との登下校で少しは学習したのか、俺に近寄ることはせず、焦ったように浅く腰掛け直した。

「ごめんね〜、柚木。おれ、場所取っちゃうもんね。トランペットも場所取るし」
「……だから、ね? ほら」
「……はい」

 日野は観念しきったようにうなずくと、俺の方にそろり、と身体を寄せてきた。

 昨日手折った白薔薇を思わせるプリーツスカート。その下から覗くすんなりとした脚。
 揺れの少ない車とはいえ、運転している限り多少の振動はあり、そのたびに日野の脚はぴくりと揺れた。
 揺れと連鎖して、日野のかすかなぬくもりが俺の脚にまで伝わってくる。
 日野は俺の方に目を合わせようともせず、真面目そうな表情で正面を見据えている。
 そこには今の状況を充分把握していながらも、素知らぬ振りを決め込もうという決意が見えるようだった。

 ……上等じゃないか。

 それならそれで、と俺は日野の横顔を見つめ続けた。

 俺が惹かれているのは、こいつ自身か?
 それともこいつの音楽か?
 それとも人擦れしてないこいつの反応か?

 日野は至近距離でのこの状態に堪えきれなくなったのか、俺の方へ向き直ると、上気した顔で言い放つ。

「あ、あの! 柚木先輩、ななにか? 私の顔、ヘンですか??」
「急にどうしたの? 日野さん」
「いえ、何でもありませんっ!」

 俺は笑いながら言い返す。……こいつ、褒められ慣れてないからな。簡単だ。

「日野さんは可愛いな、と思って見ていただけだよ? それがどうしていけないのかな?」
「そうそう。香穂ちゃんって本当に可愛いよね」
「か、かわ…っ?」

 俺のコメントに、火原の援護射撃も受けて。
 日野は言うべき言葉を無くしたのか、ヴァイオリンケースをきゅっと握りしめて黙りこくった。

 ── 本当に可愛いおもちゃだね。……手放したくないね。こいつがイヤと言っても。

「あ、柚木。このお店に行こう、って思ってたんだ」
「わかった。……田中。車、止めて?」

 3人で、街の雑踏に立つ。こんなことは初めてかもしれない。
 この3人の風景を、もう何度も同じことを繰り返しているような懐かしいと気持ちでとらえる俺と、最初で最後だ、一生の記憶に留めておきたいと考える俺がいて。

 ……そもそも、俺にとってこいつはどんな存在なんだろう?

 ただの目障りな、取るに足らない人間、か。
 ちょっと俺の気に障る音楽を作る人間、か。

 人は『気に掛かる』程度の異性が見つかるとすぐ『恋』に結びつけたがる。
 そして自分の好きなように相手を自分の妄想の中に当てはめていくのだ。

「さて、どのお店かな?」
「柚木、あの店! ピンクのディスプレイがしてあるところ!」
「了解。さ、日野さん、行こう?」

 恋、なんて、幻影だ。
 近しい人に聴いてもらって、自分の思いを膨らませ、自分の享楽の道具にするんだ。


 少なくとも柚木家にいる限り、自分の人生を選択できる余地などありはしないのだから。
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