まったく……。なんて言うんだろうな。
 人間って言うのは、生まれ持った性格より、周囲の環境によってどんな風にも変貌できるものらしい。

 豊かな土壌、申し分ない温度で育てられた花。
 それを完璧なまでに水揚げ、丁寧な茎焼きの作業を経て、鋭い剣山に差す。

(孤高に立つ牡丹のような人だ)

 牡丹を生けるとわかる。
 あの花は他の花との共存を許さない。
 相手を枯らし、そしてなお、自分はそのエネルギーを奪い取り、更に美しさを増していくのだ。
*...*...* Spoon *...*...*

 日曜日の10時。
 この季節にはわりと頻繁にある柚木家のお茶会の席で、お祖母さまはいつもの調子で言葉を繋げた。

 『梓馬さん。あなたの持っている銀のスプーン……。大変結構ですね』
 『ええ。紅茶を飲むときはこれを使うことが多いですね』
 『大切にしていらっしゃる……。女性からの贈り物ですか?』
 『いいえ。これは自分で求めたものですが』
 『……それは良かったこと。私がいただくのにも何の差し障りもないですわね』

 拒否権はないまま、俺のティーカップの上から銀のスプーンが舞っていく。
 きっと数日後には、スプーンの存在さえ忘れてしまうだろうに。
 俺は曖昧な微笑を浮かべながら、お祖母さまのなすがままにまかせていた。

(まあ、仕方ない)

 そして、日曜日の昼。
 海の方から吹く5月の心地よい風が、横に結んだ髪のリボンを緩く撫でた。
 微かに海の香りがするのは風向きが変わったからか。
 本当だったらこの風に相応しい音色を奏でるために公園にやってきたのに。
 午前中に起きた些細な出来事が、ずっと俺を混乱させている。

(些細な、こと、か……)

 そう。みんな、些細なことだ。
 柚木家の三男に生まれたことも。
 長兄を追い抜かぬように、ピアノを強制的に辞めさせられたことも。
 ── そしてあと1年足らずで、音楽の世界から遠のくことも。

(指慣らしを……)

 思えばピアノより、今、手にしているこの相棒との付き合いの方が長くなった。
 こいつなら……。

 多分、今の俺の気持ちをありありと表現してくれるだろう。
 背中を形作る一つ一つの背骨。
 それを丁寧につなぎ合わせて、美しい姿勢を作る。
 脇を一度閉めて、軽く15度ずつ広げる。
 手の平を引っ掻くように、軽く指を折り曲げて。
 大きく息を吸い込んだとき、杏色の髪が視界に飛び込んできた。

 日野は、きょろきょろと周囲を見回している。

 息を潜めて、躯を小さくして。
 そんなことしたって、何の役にも立ちはしないだろうに、辺りを伺う目には必死な色がまとわりついている。

 ── 日曜日だっていうのに、制服とは恐れ入ったね。
 きっとファータを探して学校に行って。その足で公園に立ち寄ったのだろう。

 ちょうど俺がいるところが埠頭の窪みだったせいか、日野は俺に気付かない。
 自分の演奏場所が見つかったのか、ヴァイオリンを取り出して。
 どうやら日野は練習を始めるらしかった。

(……やる気なのか)

 この前の木曜日、無理矢理日野を車に乗せて、俺ははっきりと告げた。
 魔法のヴァイオリンを使っていること。
 おまえの実力は本物ではないこと。
 ── だから、辞退しろ、と。

 俺の性格にうすうす気が付いている日野は、いつもはなんだかんだとはぐらかす術を覚えてきていたが、この前の俺の態度は相当怖かったのだろう。
 翌日、火原と日野の間に割り込んだら、俺に対して怯えとも取れるような反応をしていた。

 そのとき、俺はもう、日野は辞退すると捉えていた。
 目障りなヤツが1人減る、と。

 ところが、どうだ?

 制服で。
 日曜日に。
 ヴァイオリンケースを抱えて。
 多分学校帰りで。

 ……全く辞退する気がない、ってことか。

 俺は組み立てた相棒をもう一度元に戻すと、ゆっくりと日野に向かって歩いていった。
 見ると日野は俺に向かって背中を向けて、一心不乱に第一セレクションで使った曲、アヴェ・マリアを奏でている。

 みるみるできる人垣。
 華奢な身体はあっという間に見えなくなる。
 それでも、杏色の髪の毛が風に靡いて反射することで、俺は日野の存在を確認する。
 日野の周囲を圧倒的な充足感を持って流れるメロディ。

 (魔法のヴァイオリンだから、か?)

 誰でも音を奏でることのできる魔法のヴァイオリン。

 でも。

 仮に俺が奏でたとしたら、これほどのすがすがしさが表せるのだろうか……。
 曲の終端の音が響いて、周囲の人垣に引き込まれていく。

「ブラボー!!」
「素敵な音ね、あの子」
「ほら、普通科の。例のコンクールに出てる……」
「あ、あの子か。いいね。なかなか」

 温かい拍手が振りまかれた後、不意に日野の頭が見えなくなる。
 多分、あいつのことだ。
 拍手が嬉しくてぺこぺこと頭を下げているんだろう。

 ── やれやれ。

 俺はあいつの頭の下げ方から教えてやらなくてはいけないのか? やっかいだな。
 喧噪と、人の脚が徐々に遠のき。
 俺は周囲を注意深く見渡すと、日野の背中に話しかけた。

「ずいぶん上手くなったね。日野さん」
「うきゃあっ!!」
「……危ないな。気をつけろよ」

 ヴァイオリンを乗せる左肩は、それこそ第2の楽器のように繊細で。
 だから俺はわざわざ右肩に手を乗せたというのに、日野は勢い余って弦の持っている腕を振り回してこちらを向いた。

「ゆ、ゆ、柚木先輩……っ!」
「どもられるほど、俺の名字は発音しにくいとは思えないね」
「あ、あのっ。いきなり出てこられると、心の準備というか、構えができないんです、け、ど……」
「人聞き悪い。それにどうせおまえの構えなんて、あってもないに等しいから、意味ないだろ?」
「ううう……」

 言いたいことが上手く言葉にならないのか、目の縁をうっすらと朱くして、日野は俺を見つめている。

(……ん?)

 俺は日野の瞳の中に、昨日までとは違うモノを感じた。
 怯えているワケでもない。
 やけにまっすぐな瞳を向けられて、俺はこいつが何か伝えようとしているのが伝わってくる。

 ── なるほどね。宣戦布告ってワケか。

「……ってことは何? おまえ、俺の話は聞けないってことか?」
「……はい。せっかくですけど、私、参加したいんです。音楽って楽しいな、って思い始めたところなので」
「ふうん。上等じゃないか。他の参加者が聞いたらどう思うだろうね? 特に火原なんかがさ。
 日野さんは魔法のヴァイオリンで参加しました、ってさ。月森くんだって、きっとおまえのこと軽蔑するんじゃないか?」
「そ、それは……っ!」
「……内緒にしてて欲しい、って?」
「…………。……はい」

 いつもは柔らかく結ばれた唇。
 でも今はかみしめてるがゆえに色を無くしている。

 その白さを見つめていて。

 ── 突然、俺の中に訪れた感情は、自分の中の幼い自分の声だった。

『お祖母さま。どうして僕がピアノを辞めなくてはいけないんですか?』
『簡単なこと。梓馬、あなたが三男だからですよ』
『三男?』
『三男が長兄、次兄より上に立つのは見苦しいことですからね』

 好きなことを諦めること。これから、という気持ちを、なんらかの要因で断ち切られることが、一番辛いことだと知っているのは。

 誰でもない。俺自身だったんじゃないか……?


「えっと……。あの? 柚木先輩? 見えてますか〜?」

 日野は動きを止めた俺に注意を向けるべく、不思議そうに弦を俺の目の前で振っている。

「というわけで、これからもよろしくお願いします」

 ぺこりと、頭を下げる。
 ふわりと少しだけクセのある髪が揺れて。
 次に顔を上げたときには、穏やかな日野の姿があった。

「……まあいい。お手並み拝見、と行くか」

 否定なのか肯定なのか。
 いや、自分にしては珍しく煮え切らない態度に、日野は俺が承諾した、と感じたのだろう。
 明らかに1本糸が抜けたようなほわりとした表情で微笑んでいる。

「ふぅ〜。今日は柚木先輩にお会いできてほっとしちゃった! ずっと言わなきゃ、って思ってたんです。自分の気持ちを」
「……どうしてそんなに俺の言うことが気になる?」
「コワいから」
「なに?」
「あ、いえっ! あの、その……。あの、先輩ですし。はぁ……。失言だぁ……。と、そう言えば」

 日野は話題を逸らすべく、制服のスカートのポケットにごそごそと手を入れた。

「もっと楽器は繊細に扱え。松ヤニがスカートに付くぞ」
「はい。……と、あ、あった! これ、仲直り祝いのプレゼントです」
「俺がいつおまえと仲直りしたんだ?」

 きらりと初夏のヒカリを浴びて、飛び出してきたモノは。

「えへへ。銀のスプーンです。先輩、知ってますか? 銀のスプーンをくわえて生まれてきた子は幸せになれる、ってヨーロッパの言い伝え」
「……ああ。まあな」

 きっと和式で言う、お食い初めのような儀式。
 親の気持ちというのは、多分万国共通で。
 生まれ出た我が子が一生食べるのに困らないように、というおまじない。

「昨日雑貨屋さんで見つけたんです。柚木先輩、紅茶がお好きって聞いたことがあって……。
 このスプーン、とっても紅茶に似合う気がして。えっと、ダメ、ですか……?」

 美しいフォルムのスプーンが、日野の手の熱を伝えてくる。

 偶然に偶然が重なる。

 お祖母さまに手渡した今日の午前。
 名残惜しくて、ため息をついた、正午。
 そして、新たに手元にやってきた、午後。

 ── タイミングってあるんだな。

「……ありがとう。もらっておいてやる」
「ありがとうございます! 私も嬉しい」

 あまりに屈託なく微笑まれて。
 そして、その笑顔に吸い込まれる俺がいて。
 ── 俺が、俺でなくなっていく。

「……これで口封じ、か? ずいぶん安上がりだな」
「わ、ち、違いますよ〜〜!!」

「ってことにしておいてやるよ」


 憎まれ口を叩く俺を、日野は笑いながら見ている。
 俺は今日の天気のような清々しさに包まれる。
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