俺はそのときの気分で、適当なことを言って断ることもあったけど。
思えば俺の誘いをあいつから断ることはなかった、な。
だったら。そうなら。
今日も俺のおもちゃにしてやらなくもないよ。
*...*...* Toy *...*...*
午後3時。その日の授業が全て終了して。
部活へ行く者。練習室へ行く者。
教室は一瞬にして閑散として、熱気だけが生徒の存在を知らしめる、時。
(さて、どうするか……)
第2セレクションまで、あと3日。
多分日野は焦った表情を浮かべて、練習できる場所を探し回っているだろう。
俺がやるべきことはたくさんあった。
練習も然り。
生徒会に顔を出し、過去の文献をまとめる作業もまだ残っていたハズだ。
それに、今度オケ部で使うフルート用のスコアを王崎先輩に手渡さなくてはいけない。
なのに。
── 俺はどうしてこんなに日野に囚われている?
正門。屋上。
どこに居ても、目は無意識に探している。
普通科の制服と、朱い髪。
そして耳は、取り巻きに囲まれながらも、遠くから響いてくる日野の音色を聞き分けている。
聞こえたら聞こえたで、その場を適当に切り上げ、俺は誘われるように音色の傍に行く。
そして、演奏を終えたあいつにこう声をかけるだろう。
『ずいぶん上手くなったな』
それがどうしたんだろう。
今日は全くあいつの気配を感じない。
視覚にも、聴覚にも。感覚にも、あいつの存在が感じられなくなっている。
(どこ行ったんだ、あいつは……)
俺は何もする気になれなくて、いつも1人になれる場所、屋上へと向かう。
すると、そのとき、正門の前で男女が言い合っている様子が飛び込んできた。
あれは、月森くん、と……?
「ちょ、ちょっと。ねえ、ちょっとでいいの! 月森くん。コンクール出場者としてのコメントをもらいたいんだ、け、ど、な?」
「断る。だいたいコンクールは遊びじゃない。君の、そのはき違えているような態度は出場者としてはすごく不愉快だ」
「まあ、そう言わないで、ね? 同級生のよしみで協力して欲しいな、と……。月森くーん」
「……失礼する」
「ああっ。やっぱりダメだったか」
オンナは背中から見ていても明らかにがっくりと肩を落としている。
その弾みで肩にかけていたデジカメがずるりと落ちて肘の部分で止まった。
「天羽さん」
「あーあ。って、柚木先輩! あ、なんてラッキー。あのですね、コンクール出場者の方のコメントを集めているところなんですけど、柚木先輩も協力していただけますか?」
はきはきとした口調。
日野よりも大柄なせいか、こうして見ると普通科の制服もまたちょっと雰囲気が違う。
日野は制服の中、身体が泳いでいるという風情だが、天羽のからは、はち切れんばかりのハツラツさが伝わってくる。
「へえ。それは楽しい企画をしてるね。今まで誰が回答したの?」
「火原先輩と、冬海ちゃんと……。あ、一応志水くんもしたことはしたんですけど、翻訳が必要、というか……。あはは」
「そう。良い記事が書けるといいね」
「それは柚木先輩のご協力にかかってますよ〜」
天羽はいそいそと小型マイクを用意しようとしている。
俺は苦笑した。
天羽なら日野の行き先を知っているかと思って声をかけただけで、こんなことに協力するのは時間のムダというモノだろう。
「そうだね。そのうちにね。……ところで天羽さん、日野さんを見かけなかった? 頼まれた楽譜を渡さなきゃいけないんだけど……」
「あれ? 香穂ですか? えーっと、ああ、そう言えば、練習室の廊下をふらふら歩いてましたよ。あのそれより、コメントをいただきたいなあ、って」
「ごめんね。また今度、ね?」
俺は極上の笑顔で天羽の口を封じ込めると、足早に練習室へと向かう。
……ふらふらと?
まったくあいつらしいな。
人の視線というのは、どこに投げられてるかわからない。
絶えず気を遣い、気を回し。
しかもそれを悟られないようにするべきなのに。
「……全く世話のやける」
練習棟に入って。
俺はゆっくりと練習室脇の廊下を歩き続ける。
いくら防音効果のある部屋とはいえ、微かに楽器の音は漏れだしていて。
弦楽器、管楽器。それに加えて打楽器のにぎやかな音が混じる。
「……この部屋か」
練習室から見える白いプリーツスカート。
薄緑色のセーラー服は、どうしても弾けないフレーズがあるのか、同じところを繰り返し弾き込んでいる。
譜面台には、『ロマンス・ト長調』の楽譜と朱鉛筆。
日野は時折、弦を止めて、譜面になんやら書き込みをしている。
そしてまた、目をこらして譜面をにらみつけると、再び弓を構えている。
心を込めて演奏する。
自分の身体はタダの道具になり、楽器と心が一つになるとき。
きっと誰しも他人をその領域を侵されることは好まない。
少なくとも、俺はそうだ。
今、日野は多分その状態になっているのだろう。
(話しかけるのは無粋ってところ、か)
同じところで詰まるフレーズ。
弦を止める指を確認するようにヴァイオリンを見て。
そしてまた構える。
以前まで不安そうにヴァイオリンを扱っていた姿は今では見られなくて。
ヴァイオリンを構える姿もずいぶんサマになってきたようだった。
「……ったっ!」
突然、突拍子もないところで音楽が終わり、小さな悲鳴が廊下まで伝わる。
「日野!?」
俺は、木製のドアを大きく開いて、日野の練習室へ駆け込んだ。
*...*...*
「……お前、バカ? どうしてこんな状態になるまで気がつかない?」「……弦って切れるモノなんですねえ」
「E線ばっかりフラジってるからだ。しかもちゃんと倍音になってないし」
「柚木先輩。専門じゃないのに、博学ですね」
「常識だろ、これくらい」
E線に何度もフラジオレットをかけ続けたために起きる、摩耗切断。
ヘタをしたら、切れて飛んだ弦の先が、眼球を傷つけることもある。
そのようなことを避けるため、ヴァイオリンを初めてまず最初に習うことは調弦なのに。
── こいつは、まだ、慣れてないから。
俺は日野をピアノの椅子に座らせて、顎を持ち上げた。
案の定、日野は目の下に2センチほど傷を作り、うっすらと血を滲ませている。
俺はいつだったか取り巻きのオンナたちに手渡された絆創膏を、ポケットから取り出した。
「動くな」
「はあい。……先輩、準備がいいですね」
「黙れよ」
中身を取り出し、ガーゼの位置を確かめて日野の傷口へ宛てる。
二人の息と息が、ぶつかり合って、上気していく。
「き、緊張、する……」
「動くな、って言ってるだろ?」
「……ムリですよう……っ」
「ほら、できたぞ」
思ったよりも傷は深くなく。
さっきまでの日野の演奏への熱気が籠もってる部屋。
そこにさらに2人の間に生まれそうになった熱。
それら全部を振り払うかのように、俺は窓際に寄った。
「……まったく。気をつけろよ。お前も一応オンナなんだし」
「えへへ。認めてくれてありがとうございます」
日野はピアノの椅子で、足をふらふらと揺らしながら微笑んでいる。
いつもなら、だらしないように映るその仕草が、やけにあどけなく可愛く見えるのが我ながら不思議だった。
「必ず演奏する前に調弦するんだ。弦は、季節、湿度、湿度によっても微妙に扱いが違うんだぜ」
「はい」
「月森くんあたりなら、こういうことは起きないだろうな。あいつ、神経質そうだから」
「……ん。きっと、そう、でしょうね」
ふと、揺れていた足が止まる。
あいつと俺の間に生まれた微かなこそばゆい感じと上気した空気。
それが日野が足を止めたことで、その場にとどまり、やがて立ち消えていくような感じがした。
「……日野?」
「……柚木先輩。私、言われちゃった」
見ると膝の上に乗っていた日野の手はいつしか固く握られている。
「なんて?」
「月森くんに。……君のことは認められない、って。確かにそうだな、って思います……」
うつむいた顔からは表情をうかがい知ることはできない。
でも再度日野の顎を持ち上げる必要はなかった。
固く握られた手に、ぽとぽとと大きな涙が音を立ててしたたり落ちてきていたからだ。
「……先日柚木先輩からも、助言、いただきましたよね。……それでも、私、コンクールに出場したい、って思ってて……。それからずっと、頑張ってきて。……でも、やっぱり、ダメみたい」
「日野」
「続けたい、っていう自分の気持ちだけ、信じていればいい、って思ってたけど……。柚木先輩や月森くん。それにきっと本当のこと知ったら、火原先輩も不愉快でしょうね」
ひくっ、っとしゃくりを上げて、日野は手の甲で涙を拭っている。
その様子は妹の雅の方がまだ大人っぽさを感じるくらい、幼いモノで。
まるで小学生レベル。── 俺がピアノを諦めたときと同じ調子だな、これは。
俺は窓際を離れて、再び日野の近くへと脚を進めた。
ひどくののしられると思ったのだろう。
日野は俺の動作にはっと顔を上げ、怯えたように身体を小さくしている。
「ご、ごめんなさい。柚木先輩の意見は、もうお聞きしてるのに……」
俺は、ぎゅっと堅く目を閉じた日野の、目の縁にある手を握りしめる。
そして、反論の余地を与える間もなく、日野を胸の中に引き寄せた。
(俺みたいに、やりたかったという気持ちを残したまま、大人になるな)
「せ、先輩……?」
「おまえは、おまえのやりたいと思うことをやり続ければいい」
「は、はい……?」
「おまえの音楽は、少なくとも俺の気持ちを揺さぶる。……それだけでも十分コンクールに出る価値がある」
「はい……」
おかしなモノだ。
でも俺は、ずっと見てきた。
俺にコンクール辞退を迫られ。それでも、自分の中の葛藤を抑えて、練習を続けてきたこいつの姿を。
結果、解釈に奥深さと色を足して。羽ばたくように美しくなっていく音色を。
すっぽりと俺の胸にうずくまってる日野の、絆創膏の上に指をなぞらせ俺は問いかける。
「それとも何? おまえ、俺の頼みを聞けないとでも?」
「そそそんなこと、ない。ないです!」
「……上等だな」
くすくすと笑い出す日野……。
いや、香穂子の手は、先ほどの緊張が解け、ようやくいつもの柔らかな感じに戻って。
俺はつられるようにして手を離した。
「いい子だね。……じゃあ、そろそろ帰るか。── 香穂子」
「はい。……え? ええええ!? か、か、香穂子っ!?」
泣いたせいで頬に赤味が差している。
その上にさらに別の赤味が差してくるのを、俺は満足げに見つめる。
やっぱり、こいつ、本当にわかりやすい。
名前で呼んだら、こいつは、どんな反応を示すかと考えたことがあったけど、全く、俺の予想通りだね。
俺は練習室のドアノブに手をかけながら、繰り返す。
「なにおまえ、耳、悪いの? 俺は何度言ってやってもいいけどな」