*...*...* Goddness *...*...*
 第2セレクション発表会当日。

 昨日までの透き通るような空気の軽さは、今朝はなく。
 教室の窓から覗く空は重い鈍色が立ちこめている。

 時間、が、迫る。

 別に優勝を狙おうという魂胆があるワケではない。
 けれど、音楽という自分のフィールドを通して、自分の立ち位置をより優位な場所へと確定させることは、悪いことじゃない。

 俺は教室内に目を渡す。
 火原と一緒に控え室に行ってもいいが、あいつは時間にはルーズなところがあるから。
 あまり気にしないで、俺は単独で向かった方が良いかもしれない。
 俺はそう思い直すと、自席にある衣装ケースと今日の相棒に手をかける。

「柚木くん。今日のコンクール楽しみにしてるわ」
「そうよ。第1セレクションでは普通科の2年に花を持たせてあげたのよね?」

 時間を確認するために、内ポケットの金時計に指を滑らせると、
 俺の行動を敏感に察したクラスメイト2人が華やかに声をかけてきた。

「ああ。最上級生らしく演奏してくるよ」
「そうね。柚木くんなら絶対大丈夫よ」

 そのうちの1人が両手を胸の前に重ね、うっとりとしたように俺を見つめる。

「ああ〜。私も柚木くんみたいになりたい!
 創り出す音が素敵で〜。叶わないことは何もなくて〜。
 家柄も、頭も、その上ルックスもいいなんて!」

 いつもは軽くいなせる讃辞の態度。
 それが今日はいつになくカンに障った。

 全く、何にもわかっちゃいないんだな。
 ── お前が叶わないモノは何もない、と言っているモノ1つ1つ。
 それらに俺が、どれだけの犠牲を払ってきたかなんて。

 思わず、出てくる微苦笑。

 自然に浮かんでくる表情に俺は気を引き締める。
 意外だな。こんな表情に周囲の人間は3年間も欺かれてきたなんて思うと。

「ありがとう。そういう君のピアノだってとても素敵な音を出すよね?」
「柚木くんに褒められるなんて……。今日は良いことあるかも!」

 自然に口から浮かんでくる中身のない追従。そんな言葉を弾かれるように気にとめる女。
 ……こういうのは時間のムダというものだ。

 改めて手にしたケースを持ち上げようとすると、背後から軽く肩を叩くヤツがいる。
 振り返ると、底抜けに明るい顔をした親友に出くわした。

「ゆっのき。そろそろ控え室行かない? おれ、今日は準備万端だよ?」
「火原。珍しいね。いつも慌ててる君が、こんなに用意がいいなんて」
「だってさぁ。 今日のコンクール、おれと香穂ちゃんって、順番が隣り合わせじゃん?
 開演何分くらい前に行ったらいいか昨日電話で聞いたらさ、
 香穂ちゃん、俺が思ったよりも早い時間に行くらしいんだ。
 だからおれも言われた時間に行こうと思ってさ」
「日野さんが? そう。彼女も一生懸命なんだね」
「なかなか眠れないって言ってたよ。可愛いよね。電話越しの女の子の声って」
「そうだね。……じゃあ、僕たちもそろそろ行こうか?」

 ……ふぅん。電話、ねえ。
 火原が香穂子に? なるほど、火原も一生懸命だ。

『コンクール出場者に急遽連絡することもあるかもしれないからな〜。
 出席者名簿、作ってみた。俺の尊い労働に感謝しろよ〜』

 第1セレクションが始まる前。
 金澤先生からもったいぶって名簿を渡されたから、俺も日野の電話番号は知っている。

 けれど、今まで。
 かけてきたこともかかってきたこともなかった。

「……楽しみだな」

 俺は小さく独り言をつぶやく。
 これで今日、俺は香穂子をおもちゃにする格好のネタができたってわけだ。

「え? うん! コンクール始まる前ってホントにドキドキするよね? 柚木もそうなの?」

 俺の親友は、いつもの通り屈託のない表情で笑った。



 ####



「香ー穂ーちゃん? 準備できた? そろそろ観客席に行こっか?」
「あ、はーい。あの、も、もう少しだけ、待っててもらえますか??」

 薄暗い廊下を隔てて、男性用の控え室、女性用の控え室がある。
 他の男性参加者の間を縫うようにして、俺は火原に追い立てられて着替えを済ませた。

 火原は、スラックスを履き、時間を見て。
 髪型が土浦くんと被ったと言っては、また時間を見て。
 その一生懸命さが却って俺に『良いヤツ』なんだと知らしめてくる。
 ……本当にわかりやすいヤツ。

 火原の屈託のなさを羨ましく思ったり、ときどき疎ましく感じたり。
 ── そして疎ましく感じる事象の殆どの場合、日野が絡んでいたり、する。

「女性っていうのは準備に時間が掛かるものだからね。火原、もうちょっとしたらまた出直そう?」
「えー? もう少し、って言うんだから、きっとすぐだよ。2、3秒なんじゃないの?」
「そんなことないと思うよ」
「聞いてみよっか。おーい、香穂ちゃん? もうすぐだよねえ?」
「あ、はい! もう……すぐ、だと思いますっ」
「ほらね。柚木」

 火原は我が意を得たりとばかりの満面の笑みで俺に振り返る。
 俺は形の良い火原の額を見ながら、まるで自分が火原の保護者になったような気持ちになった。

 火原は待つ時間も楽しい、といった風情で女性用控え室のドアを眺めている。

 ── やれやれ。
 まだ開演には時間があるし、これではどれだけ待たされるか見当もつかないな。

 それから約5分くらいの間、女同士の小さな声と衣擦れの音が続いていた。

 廊下にいる火原はそわそわと廊下のあちこちを動き回っている。
 その間を取り持つように、コツコツと指先でリズムを取る俺がいて。

 火原の明るすぎる笑顔に戸惑う俺がいる。

 他人の気持ちというのはどうしてこんなにわかりやすいんだろう。
 そして自分の気持ちというのはいつまでこんなに混沌とした中を歩き続けるのだろう……?

「お待たせしました……」

 鈍いドアの開く音と共に、朱い布がひょっこりと顔を出した。
 すんなりとしたラインの首筋。いつもは見えない、二の腕やデコルテが白い光沢で形作られている。

 例えるなら、椿の花。
 朱に白が混ざる絞りの品種。
 少なくとも今の俺にはそう見えて。

 隣りにいる火原も、息を呑んだように、目を見開いたままだ。

「わ、こ、この沈黙はやっぱり、やっぱり〜! 冬海ちゃん、私、ヘンじゃないよね? 制服に着替えた方が良いかな!?」
「えと、ごめんなさい。私はすごく良いと思ったんです。けど、反応は……」
「ごめんなさい。私、また着替えてくる!!」

 オンナ2人は絶望的な響きで否定的な言葉をつぶやき、香穂子はようやく開いたドアを再び閉めようとする。
 ── 全く。仕方ないな。
 これ以上待たされるのは、ごめんだね。

 火原は二の句も告げられない様子だったから、俺はドアの間に足先を入れると、オンナ2人に微笑んだ。

 そして自分の光る靴先を満足げに見つめる。
 やれやれ。こうしておけば安心っていうものだろう。
 俺がドアを開けている限り、香穂子たちは着替えができないだろうから。

「ごめんね。あまり日野さんと冬海さんが素敵だったから、上手く声が出せなかったよ。
 日野さん。別に制服に着替えることはないんじゃないかな?」
「そ、そうだよ! 香穂ちゃん。可愛いよ。制服はダメだよ? このままでゴーだよっ。
 冬海ちゃんも、淡い色が良く似合ってるよ。可愛いよ」
「そう、ですか……?」

 火原の勢いにようやくオンナ2人は安心したのか、ようやく廊下に出てきた。

「……じゃあ、あの、私は1番最初に演奏するので、袖に行ってますね……」

 冬海さんは緊張が隠せないのか、クラリネットを固く握りしめて舞台裏へと向かう。
 今回のテーマは彩華。
 彼女の性格にもう少し華やかさが混ざればこのテーマには相応しいかもしれない。

「じゃあおれたちも観客席に行く? って、あーー! おれ、タイ忘れてた!!
 何やってるんだろう。ごめん。2人ともちょっと待ってて!」
「あ、はい。了解です」

 香穂子は火原に微笑んで頷き返すと、編み込みリボンを揺らせて、目の縁を軽く擦った。
 深紅のドレスが反射しているせいか、微かに瞳が赤く潤んで見える。

「なに? 昨日眠れなかったんだって?」
「え? どうして知ってるんですか……? あ、火原先輩でしょう?」
「ただでさえ素人が、寝不足でちゃんと音が出るのか見物だな」
「わ、それを言われると、確かにその通りなんですよね。えっと、気力で頑張りますよ〜」

 華奢な肩。
 その先にすらりと伸びた二の腕が続いて。
 香穂子は小さくガッツポーズをして白い歯を見せた。

『可愛いよね。電話越しの女の子の声って』

 どこからか火原の声がする。

 電話越しの声。夜の声。眠そうな、声。

 目の前のこいつの鼓動が聞こえてきそうな、静寂。
 俺の靴の音だけが、廊下と壁に反響し、ゆっくりと香穂子に近づいていく。
 香穂子は、何かを察したのだろう。
 目を見開いて俺が近づく分だけ後ずさる。

 自分でも分からない。
 イジめたいのか、可愛がりたいのか。
 火原と仲良くしているから、遠ざけたいのか。
 それとも親友を押しのけてまで、自分のモノにしたいのか。


 ……いや、違うな。
 今の俺が望んでいることはただ1つ。


 ── 今日のコンクールで、こいつがこいつらしい音を奏でること。


 俺は弦を手にした香穂子の手を取り上げて言った。


「願わくば……」
「……願わくば? ……願わくば、なんですか?」


「……おまえのこの指に、音楽の女神が宿るといいな」
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