*...*...* Trust *...*...*
 ── ふぅ。終わった。

 まるで勝手の分からない第1セレクション。
 それより少しだけ周囲が見渡せるようになって、却って不安が増した第2セレション。
 そのセレクションが終わった。

「終わったね〜。冬海ちゃん」
「あ、日野先輩、お疲れ様でした。それと……。優勝おめでとうございます。
 先輩らしい可愛くて華やかな演奏だったと思います」
「ありがとう。……恥ずかしいな、なんだか」

 ── 優勝、なんて。
 1回目だけじゃなく、2回目も優勝できるなんて。
 ホント、信じられない。

 これはもちろん、私自身の実力じゃない。
 2回も優勝できるなんて、魔法のヴァイオリンの効力が強すぎるのかな。
 なんて、しょげかえっている私を励ましてくれたのは、リリだった。

『大丈夫なのだ。これは日野香穂子、お前自身の努力のた、たま……、あれ? 何と言うのだ?』
『たま、もの?』
『そう、そうなのだ。たまもの、賜物、なのだ。気にすることはないのだ。
 もっと、お前はそうだな。自信を持ってもいいのだ。我が輩は嬉しいぞ』
 『ん……。ありがと。リリ』

 そうだよね。魔法のヴァイオリンというのがベースにあるのは事実だけど、
 私も、少しは、ううん、目一杯、頑張ったよね。練習、したもんね。

 自分へのご褒美、とばかりに今日は天羽ちゃんを誘って商店街へ行って。
 私は可愛いジュエリーショップで見つけたアクセサリーを思い切って買っちゃおう、なんて考えていた。

 ずっと欲しかったんだよね。あのネックレス。
 付けたらきっとシャラシャラって綺麗な音が耳元まで届くような繊細な作り。
 ちょっと大人っぽいけど、その背伸びした雰囲気が却って魅力的で。

 高1のときから、ずっとずっと眺めてたモノ。
 ちょっと高いけど、こんな時にしか買えない。

 記念、だもんね。

「ごめんね、冬海ちゃん、お先に失礼するね〜」
「あ、早いですね。日野先輩、もうお着替え、すませたんですか……? あ、お疲れ様でした」
「うん。またね」

 ぱたん、と冬海ちゃんの声を背中に聞いて。
 ヴァイオリンを持って、思わず小走り。
 今日くらいは、思い切り羽、伸ばさないと……。

 ……と思った、ん、だけど……。

「日野さん。準備に比べてずいぶん早いね。お疲れ様」

 すっと音もなく男性更衣室のドアが開く。
 そこから姿を出したのは、舞台衣装からいつもの制服に着替えた柚木先輩だった。

「柚木先輩……」

 フォーマルブラック色のアスコットタイ。内側の深い色のベスト。
 先輩が着ているのは普段着慣れている音楽科の制服。

 なのに。
 ── 今日、ここでこんなに鮮やかに見えるのはどうしてかな?

 暗い廊下が柚木先輩がいるこの場所だけ、一ランク引き上げられたみたいに特別な場所になっているような気がする。

 なんとなくこの人に親衛隊さんがいるのが、初めてわかった。
 この人といると、自分までもが特別な存在になれたような感じを味わうことができるからだ。

 特別、ってやっぱり嬉しいもん。
 きっと、そうだよね。

「なに? 日野さん」

 無遠慮な視線には慣れている、むしろそれを楽しんでいるかのような口調で柚木先輩は微笑む。

 思えば、このセレクションの間、柚木先輩には1番お世話になったかも。
 月森くんに認められないと言い放たれた時、もし柚木先輩のフォローがなかったら、きっと私、この場所にいない。

 柚木先輩と2人きりで向き合うのは未だに慣れないけど、お礼だけは言わなきゃ。

「柚木先輩もお疲れ様でした。どうもありがとうございました」

 会釈して、通り過ぎようとして。
 ふと気付くと柚木先輩は、ヴァイオリンケースを持っている私の右腕を軽く掴んでいる。

「あの……?」
「日野さん。今日は僕に送らせてもらえないかな?」
「私、今日は買い物があって……」

 Noの意味を込めて首を左右に揺すった。

「先輩?」

 私の声が聞こえていないみたいに、先輩の表情は変わらない。
 ゆっくりと自分の右腕に、柚木先輩の指が食い込んでいくのを感じる。

「……まさか俺の誘いを、断るってことはないよね?」
*...*...*
 まるで氷の上を滑ってるみたい。
 確かに車のエンジン音は低くうなっているし、信号次第では止まったり、動いたりはする。
 けど、その動きは滑らかで。
 乗ってる人、そのものの優雅さを醸し出してる気がする。

「コンクールっていうのは、自分が感じている以上に疲れるものだ。
 人の視線、期待。それにきちんと報いているかどうかの自己確認。コンクール参加者の思惑。
 そういった複雑な感情が入り交じる場だから」
「そうですね……。なんだか緊張感が途切れなくて、やけに気持ちが高ぶってる気がします」
「だろ? だから、今日はまっすぐ帰って、なるべく早く寝るんだぜ」

 セレクション終了後、まるでそうすることが当たり前というような物慣れた態度で、柚木先輩は私を自宅まで送ってくれている。
 私は彼の整った横顔を、まるで初めて見るモノのようにぼんやりと見つめていた。

 柚木先輩は私のこと、どう思ってるんだろう。
 ううん。そうじゃなくて。
 私は柚木先輩のこと、どう考えてるんだろう。

 ── 分からない。

 心の中に浮かんだ第一声がコレだった。
 情けないけど、今の私の本音のような気がする。

 だって。
 コワイし、イジワルだし。
 彼が言うことは拒否できないし。

 けど、ときどき私じゃ気付かないことまで敏感に察してくれる。
 彼の助言は、手厳しいけど的確で。
 何となくこの人の言うことを聞いていれば、何もかも上手くいくんじゃないか、って気もする。

 なんだろう、こういうときの気持ちって、なんて言うんだろう。

 ── 信頼。

 ……んー。100パーセント『信頼』してるか? って聞かれると即答できないかも、だけど……。
 今の私の気持ちに1番しっくり来る気がする。

 この前の練習室。
 突然飛び込んできた、柚木先輩。
 あんなに慌てた表情、初めて見たっけ。

 キズの手当をしてくれて。
 月森くんに認められないことで、思わず泣き出した私を、先輩らしい言葉で励ましてくれた。
 その時、私の背を這う手は、ただ滑らかで優しくて。
 抱きしめられても、何の違和感もなくて。
 彼の体温の中で、トゲトゲだった私の気持ちも、少しずつ、柔らかく丸くなっていったっけ……。

 改めて車内を見渡す。

 あのとき、と、同じ香りがする……?
 柚木先輩の胸の香りが、この車の中にも染みついてるのかな……?

 柚木先輩の香り、って……。
 思えば、あのとき。
 私、柚木先輩に抱きかかえられてたんだ……。

 思えば、やっぱり、ちょっと、やっぱり……っ。
 柚木先輩は男の人、なワケで。
 私がいつも女の子同士でハグるとは違うよね、やっぱりっ。

 私としては、あの後に呼ばれた『香穂子』の響きの方に気を取られてて。
 この香りを感じるまで、すっかり記憶から抜け落ちてたような……?

 柚木先輩は、私の方にちらりと流し目をした。
 目力がある、ってこういうことを言うんだろうなあ……。
 私の中では、柚木先輩の視線が通ったところだけ、確実に体温が上がっていく。

「香穂子、顔が赤い。なに? 練習室のときのことでも思い出したとか?」
「なななに言ってるんですか〜!」
「図星か。上手におねだりできるなら、またやってやるよ」
「え? い、いいですっ」
「『いい』っていうのは日本語の短所の最たるモノだね。
 肯定、否定、どちらにも受け手の都合で解釈できる。だから……」
「……だから?」
「俺は俺の都合の良い方に解釈する」
「えっと。……じゃあ、じゃあ、結構ですっ!」

 つんと顔を窓の外に逸らして話を終わらせると、柚木先輩はくつくつと低い声で笑い続けている。
 え? どうして。私、また何かやらかしたっけ?
 って、あ! 『結構です』って、これも肯定、否定、どちらにも取れるのね……。

「もう、笑うの、おしまいですよう……」

 情けない気持ちで私は笑い続けている柚木先輩を見つめた。

 それにしても意外。
 柚木先輩ってこんなに笑う人なんだ。
 しかも、いつもの綺麗な顔で微笑むのとは違う。
 くしゃっと顔中のパーツがほどけたような。本当に嬉しそうな顔で。

 ── こういう顔、私、好きだな。

「俺を楽しませてくれてありがとう。これからもその存在でいてくれることを俺は望むね」
「……受けて立とうじゃありませんかっ」

 腹立ちまぎれに、私は言い返す。
 これが私の悪いクセなんだよね。
 思えばコンクールの参加のきっかけだって、こんな感じで、リリにいいようにあしらわれちゃったんだ。

 散々笑い尽くされた後、柚木先輩はいつものきりっとした顔で聞いてくる。

「ところで、お前、買い物があるって言ってなかったか?」
「あ、はい。駅前のお店で、コンクールの記念に1つ買いたいな、って思ってたモノがあったんです。
 けど、今日はまっすぐ帰るんですよね。もうすぐ自宅に着きそうですし」

 私はヴァイオリンケースと衣装バックを引き寄せる。
 いつも歩く道のり。車だと、ホントあっという間だなあ。
 今日はいつもにまして荷物が多かったし、改めてまたお礼言わなきゃ。

 黒塗りの車は滑るように自宅の門扉に横付けになる。

「柚木先輩、送っていただいてありがとうございました」

 ケースを持つ指に力を入れて、身体の向きを変える。
 そして1歩踏み出そうとしたそのとき。

 頭上で先輩の指示し慣れた声が聞こえた。

「……田中。駅前まで車やって」
「かしこまりました」
「……え? あの、家……は?」

 黒い個室は、私の家の前を優雅にUターンしていく。
 それはまるでこうなることも想定済みという感じの滑らかな動きだった。

「行くんだろ? 買い物。付き合ってやるよ」
「え? だって、今日はまっすぐ帰って、早く寝ろ、って先輩が……」

 あれ? 確かさっき。
 車に乗ったばかりのとき、柚木先輩、そう言ったよね?

「ああ。そうだな。疲れが出るだろうから、早く寝るに越したことないだろ」
「えっと、まっすぐ帰って、っていうのは……?」

 この場合、反故になっちゃうのかな……。

 柚木先輩は私の思惑まで計算済みのような醒めた表情で、私を一瞥して。
 ヴァイオリンケースを持った私の手に指を這わせると、自信たっぷりに言い放つ。



「俺と寄り道、なら、いいんだよ」
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