*...*...* Largo *...*...*

 夏の衣替えももうすぐ、というような、肌が汗ばむ日。
 昼休み、私は級友とランチをしたあと、のんびりと中庭のベンチで大きな伸びをしていた。

 あ、あの子、もう夏服を着てる。可愛いなあ……。
 この学校って校舎も可愛いけど、制服も可愛いんだよね。
 そんな不純な動機でこの学校を選んだのかと言われれば、言い訳くらいたくさん出せそうだけど。
 制服の可愛らしさは、私を星奏学院に引き寄せる、大きな理由の1つだったと今でも思う。

 今日は、放課後、どうしようかな。
 まだ、第3セレクションまで少し時間があるし。
 今日は、楽譜集めをいっぱいやろうかな。
 こんな良い天気だもん。森の広場へ脚を伸ばすのも、いいなあ。

「おっ。日野!」

 そこへ渡り廊下を通りかかった金澤先生が、私を見つけるとひょっこりと近づいてきた。

「日野〜。昨日は優勝お疲れさん。ほれ、今度のセレクションのキーワード、な?」
「あ、はい。ありがとうございます」

 金澤先生はよれよれの白衣をはためかせて、私に資料を手渡す。

「ったく、大変だぞ〜、音楽科の先生が大騒ぎしててさ」
「へ? どうしてですか?」

 金澤先生は背をぐっと丸くして私の視線に顔を向けた。
 わ、ひげがぽつぽつしてる……。
 金澤先生って、せっかくカッコ良いのに、なんかあまり自分のことをいたわってないって感じで、かなりソンをしてる気がする。

「お前さんのことをイタく気に入った教授がいてさ。俺としてはガードするのに大変なワケだ」
「ガード、ですか?」

 音楽科に行きたい、という気持ちがあるワケではないけど、ガ、ガード? されるのは不思議だなあ。
 どうしてだろ?

「仮にだ、お前さんが普通科から音楽科に編入ってことになったら、
 この俺がお世話係を任されるだろう? 俺としては嬉しかったり悲しかったり、だ」

 金澤先生は苦笑を浮かべて私を見下ろしている。

 そっか。……んー。確かにそうかも。
 普通科の選択科目である音楽を担当しているのは金澤先生だし。
 とは言っても、私の選択科目は美術だから、本当にコンクールが始まるまでは、金澤先生って見たこともなかったんだよね。
 やっぱり普通科からの編入となると、コンクール担当主任という肩書きも手伝って、1番最初に声が掛かるのは金澤先生かもしれない。

「てなワケで今回も頑張れや」
「あはは、私が頑張っても頑張らなくても、先生は困るんですね」
「おっ。お前さんもこのごろ世間の仕組みっていうのがわかってきたみたいだな。だから、テキトーに頑張れ。な?」
「はい」

 いかにも金澤先生らしい口ぶりで私は思わず笑ってしまう。

 いつも『シブシブやってる』って仮面を被り続けてる先生だけど、聞いたことには答えてくれるし。
 音楽室に顔を出すと、何気ない振りをして私の聞きたいことを敏感に察して教えてくれる。
 目をかけてくれてる、って感じるから、先生のおどけた口調は純粋に楽しいって思えてくる。

「あ、香穂子! ああ、金やんもいたの?」

 そのとき渡り廊下を勢いよく走ってきた天羽ちゃんが、私たちの方にやってきた。

「あ、天羽ちゃん」
「あー。うるさいのが来た。俺はとっとと退散するぞー」
「あ、いいの。今日は金やんに用事ないから」

 天羽ちゃんはあっさりと言い捨てると私の方に向き直った。
 いいなあ。
 気っぷのいい姉御肌の天羽ちゃんがこういう態度をしても、全然イヤミじゃないんだよね。

「香穂子、優勝おめでとう! こりゃもう報道部からしたら、格好のネタだね。
 なんてったって普通科から飛び入り参加のぽっと出のアンタが2回連続で優勝なんてさ。一度詳しいこと聞かせてよ」
「わわっ、天羽ちゃん。しーっ、しーーー」

 天羽ちゃんは、声が大きい。
 しかもとてもはきはきとしていて、ヘタなナレーターなんか顔負けじゃないかな。
 おまけに身振りも大きい。

 天羽ちゃんの存在に散策をしてにいた人たちも興味深そうに振り返る。

 優勝したのは本当のことだけど、やっぱり『魔法のヴァイオリン』という事実は、私の優勝を晴れがましく思う気持ちの中で、一点、暗い影となって絶えずわたしの中にある。
 心から喜びを出せない私の態度は、周囲からは『謙遜』と取られて。
 更に奇妙な評判まで起こしているのはわかっていた。
 そのたびに、私の中には堂々巡りのやり切れない感情が押し寄せてきたりする、から。

「あ、ごめんごめん。アンタの顔見たら、聞きたいことが口元まで出かかってさ。
 なにしろコンクール当日は、報道部員が立ち入れないところまで参加者って入っていけるんだもの。
 たとえば舞台の袖とかさ。なにか、わかった? 例の、アレ」

 天羽ちゃんは私の屈託にお構いなく、私の頭をつんと突くと耳元に口を寄せた。

「へ? アレ、って?」
「んもう、ニブいなあ。アンタ、私のリサーチでは、このごろ柚木先輩と仲が良い、って話じゃない」
「え? そうなの?」

 天羽ちゃんは『柚木先輩』というフレーズに声を強めた。

 柚木先輩と私が?
 あ、そっか。
 もしかして第2セレクションの後、たまたま柚木先輩の車に乗るところを見かけたコがいるのかもしれない。

 けど、それと仲が良い、っていうのはまた別の話、なワケで……。

 天羽ちゃんは、『柚木先輩』という固有名詞を言った時点で、もう小さい声で話す必要はないと判断したのか、上体を起こして笑った。

「今さ、星奏学院の中の1番ホットな話題は、なんと言ってもコンクールなのよ。
 普通科のアンタはトントン優勝しちゃうしさ、第2セレクションから出てきた土浦くんは、あのルックスであの腕前でしょ?
 火原先輩と柚木先輩だって、3Bの最強コンビって言われてるんだよ? アンタ、もしかして何にも知らない?」

 こくこくと首を振る。そ、そうなの? 最強、ってなに?

「そっか。あの1年の志水くんも、お姉さんたちからアイドル扱いされてるしさ。月森くんだって、あの血筋とあの腕前。
 参加者のどこをどう取っても絵になるワケよ。そこで、だ」

 天羽ちゃんは、私をしっかと見つめて指を差した。

「全参加者の素顔に迫る、と。その第一陣がアンタなのよ。手っ取り早く柚木先輩の素顔に迫ってきて」
「わ、私が??」

 私は天羽ちゃんの顔を見上げてふるふると首を振った。

 で、できるワケ、ないっ。
 あの人がどれだけコワイか、天羽ちゃん、知らないから、そんなこと言えるんだよー。

 今でさえ、柚木先輩に話しかけられると、ときめきとは違う意味でドキドキするし。
 ねっとりと辛辣にキツいこと言われると、凹んじゃうし。

 きっと天羽ちゃんがネタとして求めてるモノは、柚木先輩が時折私に見せる横柄な態度のこと、なんだろう。
 けど、3年間真剣に音楽に向き合ってた人が、普通科で素人で魔法のヴァイオリンで参加、なんて聞いたら。
 ……きっと誰だってあんな風に不愉快さをむき出しにすると思う。

 だから。

 (私のせいだもん)

 だから、言えない。言いたくない。


 あ、でも、待って。
 ちょっと強引で、イジワルだけど、優しいとき、も、ある、かな……?
 この前の練習室の時だって……。

 練習室。

 突然、ババっと、自分でも分かるくらい頬が熱くなるのを感じる。
 でもあんな風に先輩のことを感じられた時間は、ホンの少し、だもん。

 ……上手く説明、できないよ。

 キレイに磨かれた天羽ちゃんのツメは、ひらひらと私の顔の前を舞っている。

「天羽ちゃん、あの、私、できないっ。ごめん。ムリ!」
「で・き・る、って。だってあんなに上手にヴァイオリン弾けるんだもの。話も合うでしょ?」
「できないーーー!」
「とにかく、頼んだわよ。柚木先輩の素顔を暴くこと。コレはアンタへの至上命令」

 わ、最初の時は、その固有名詞をわざわざ耳に口を寄せて小声で話してたのに。
 今はなんていうか、報道部の使命を担ったエリートって感じで、はっきりとその名前を口にしている。

「ムリ、だから……、……あ!」
「あれ? 香穂子、どうしたの?」

 天羽ちゃんの背後からゆっくりと人が近づいてくる。
 天羽ちゃんは気付かない。
 夏の日差しが降りかかって、その影は濃さを増す。
 天羽ちゃんの影とその人の影が完全に重なると、穏やかな、けど有無を言わさないテノールが響いた。

「僕が、どうしたって? 天羽さん」
「ひゃ! あ! ははっ。柚木先輩! ここんにちは〜、っと。香穂子、じゃあ、頼んだわよ」
「なんとなく僕の名前が呼ばれたような気がしたから。……ああ、日野さんもいたの」

 柚木先輩は優等生スマイルで私たちに微笑んでいる。
 でも、私自身にやましいところがあるからか、その微笑はどこか辛辣にも見えた。

 こ、コワイよう……っ。
 ここに2人きりでいたら、私、何言われるか分からない。
 あ、そうだ。天羽ちゃんと一緒にこの場から離れればいいんだよね?
 そうだ。そうしよ。

「じゃあ柚木先輩。私、報道部のミーティングがあるんで、これで失礼しますね。香穂子、今言ったこと、よろしくね」
「あ、待って。天羽ちゃん、私も行く!」

 脱兎のごとく、ってホントにそうかも。
 私は一瞬天羽ちゃんのしなやかな脚に見とれ、少し遅れてベンチから立ち上がった。

「ああ、日野さん。第3セレクションのことで話があるんだ。……ちょっと残ってもらってもいいかな?」
「いえ、あの。あ、私、金澤先生から聞きました。大丈夫です」

 慌ててその場から離れようとすると、柚木先輩は私が脚を進める方向を塞ぐ。

「……別に取って食おうってワケじゃない。いいから、座れよ」

 柚木先輩は低い声でそう言うと、私の肩を軽く押さえ、元いたベンチに身体を沈み込ませる。
 そして自分も悠々と私の隣りに座って。

 ……えっと、何から言えばいいんだろう。
 ってそもそも柚木先輩、私たちの話の内容、把握してないかもしれない。
 だとしたら、いきなり、ごめんなさい、って謝るのも、却ってマズいかもしれない。

 さわさわと植え込みの樹が葉ずれの音を鳴らす。
 まぶしいまでの陽のヒカリが音に共鳴するかのように日差しを強くしていく。

 そのまま柚木先輩は私の存在を忘れたかのように、まっすぐ空一点を見つめ続けていた。
 私たち3人をどうなることかと見ていた周囲の人たちは、また何事もなかったようにゆっくりととりとめのない会話に戻っていく。

 そのまま続く、沈黙。

「あの……。柚木先輩?」

 何を言われるんだろうと身構えていた私は、いつまでも続く沈黙にどうしていいか分からなくなる。
 どう、したんだろう。

「……さっきは、なかなか面白い茶番を見せてもらったよ。ブラボーの1つでもかけたくなったくらいだね」

 柚木先輩は、5月の風に髪を揺らせながら皮肉そうに笑った。

「あ、あはは……」

 やっぱり。
 さりげなくここを通りすがった、って感じだったけど、本当は天羽ちゃんの魂胆は全てお見通しだったんだ。
 けど。どうしてだろ?
 いつもの人を見下したような表情が。


 ── 今日、今、このときだけは、やけに儚く、脆そうに見えるのは。


 少しだけ、苦しそうに、見える。……どうして?

「……どうして言わなかった? お前や天羽さんに言われたくらいでは俺のパブリックイメージは揺るがない。言いたければ言えばいいんだ」
「言えませんよ。だって……」

 私は下唇を噛みしめた。
 ……こんなこと言うの、おこがましいかな。
 自惚れてるって、かえってまたバカにされちゃうかな。

 だって。
 天羽ちゃんに、本当のことを、言ったら。告げたら。

 (なんだか柚木先輩が遠くに行っちゃう気がする)

 なんて。
 バカみたい。今だって、それほど近しい存在、というワケじゃないのに。

 結局、心に浮かんだ言葉はノドの奥に突き刺さって、伝達としての言葉にならずに。
 さっき感じた沈黙分だけ、私と柚木先輩の間に再び時間が流れていく。

「香穂子?」

 私は困ったような笑い顔を浮かべた。

「いいんです。別に気にしてないから」

 柚木先輩はゆったりと脚を組み替えて、私に顔を向けた。

「全くお前も物好きなヤツだな。俺にいいようにされて、不愉快じゃないのか?」
「えっと、どうだろう……。ちょっとコワイけど、不愉快、ではないと思います……」

 コワイのは事実。

 今日は一体何言われるんだろう、と身構える気持ちと。
 身構えたまま、どこに行っても、会えなくて。
 独り夕暮れの校門をくぐるときの、味気ない気持ちと。

 どっちつかずの気持ちのまま、ぐるぐると私は迷ってる。

 そしてその気持ちをヴァイオリンに乗せて。
 きっとまた、火原先輩にきみの解釈はわからない、なんて苦笑されちゃうんだ。

「ふぅん。お前も言うようになったね」

 やれやれといった風に柚木先輩は立ち上がって。

「ああ。日野さん。髪の毛に木の葉がついてる」

 私の頭に目を遣ると、ゆっくりと手を伸ばした。

「え? あ、どこだろう?」

 私はヒカリに透けた朱色の髪に手を伸ばす。

「! な、なに……?」

 ふいに視界が暗くなる。

 目は突然与えられた影に追いつかずに、赤と緑の点滅を繰り返して。
 いつも車に乗るときに感じる香りが近づいて来たのがわかる。

 私の手の上に、細いけど明らかに自分の手とは違う、男の人の手が重なった。

 さらりと髪の揺れる音がする。私の髪はこんな音を立てない。
 衣擦れのような、優しい音。
 それが耳の近くで鳴ったと思ったら、イジワルなささやき声が注がれた。

「……動くなよ」

 軽く指をなぞる感触。
 唇を寄せられてる耳が心臓になったかのように早鐘を打つ。

「俺としては嬉しい限りだね。……これで俺のおもちゃを手放さなくてすむ。……ほら、取れたよ」

 私は柚木先輩の唐突な仕草に動けなくなる。
 そして柚木先輩が離れたことも気付かずに、私はただベンチに座り込んでいた。

 香り、ってズルい。

 ふと漂ってくる香りにも。
 今こうして、故意にぶつけられたイジワルにも。
 たえずまとわりついて、そして私の中に生まれた想いを育てていくんだ。

「ゆ、柚木先輩、なななに言ってるんですかーーー!」
「どうしたの、日野さん」
「あのっ、おもちゃ、って、おもちゃって……!?」

 私が抗議の声を上げたのは、先輩が離れて少し経ってから。

 柚木先輩は、証拠の品とばかりに手にした葉を見せて。
 私の反応を楽しそうに見定めたあと、綺麗な顔を向けて笑った。


「ああ、もう午後の授業が始まるね。僕はお先に失礼するよ」
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