*...*...* Presto *...*...*
「── 梓馬お兄さま……? いらっしゃる? ちょっといいかしら?」
「雅か。……いいよ。入っておいで」

 みしりと襖が軋んで、古くさい音を立てる。
 これだけ沈んだ音がするということは、雨が近いのかも知れない。
 全てが時間が止まったかのようなどっしりとした家屋の中、意外にも俺はこの音を気に入っている。
 柚木家に相応しい仮面を付けたり外したりすることは、全部この音が起点になっているからだ。

「あ、やっぱり書を書いてらしたのね。廊下まで墨の匂いがしたもの」
「ああ。松煙の墨はいささか香りが強いな」

 松を燃すことでできる松煙の墨は、液体油の墨よりも硯の中で扱いにくいが、やはり書き上がりは全然違う。
 俺は、たった今書き上がった書を桔梗色の毛氈から取り上げた。

 そして半紙の端に押印をして。改めて目の前の雅に目をやった。

 しなやかなウェーブと、華やかな目鼻立ち。白い肌がいっそう作りを引き立てている。
 まだオトコに媚びることを知らない、のびやかな表情をしている。

「……なんだかとても難しい字ばっかり。行書だからかな?」

 雅は書き損じの半紙を逆さから覗き込むようにして字面を追うと、あまり興味がなさそうに途中で読むのを止めてしまった。

「王羲之の書を書いてみたんだ。……今の俺にしっくりする気がして、な」

 2000年前に確かにこの世にいた、王羲之。
 書聖と呼ばれ、彼が亡くなってからも世の権力者たちは彼の書を探し求めたと言う。

 しかし彼の書いた書面の内容は、現代にも通じるところがあって。

 カネ。出世。家での立場。
 恋人、友人。立ち回り。

 結局、人間は同じところを何千年とさまよい続けているのかもしれない。

「それで。どうした? 何か話があるんだろう?」
「まあ、ね? 話、というより、ただの伝言。子どものお使い、って言った方が正しいかもしれない」
「……お祖母さまか」
「ご名答」

 雅はほっとしたように畳に姿勢良く正座すると、俺を見上げた。

「この頃、お兄さま、コンクールコンクールって忙しそうにしているでしょ?
 それがお祖母さま、ご不満なのよ。ほら、3つ年下の例の人とのお話を進めたいのに進められない、って」

 俺は軽く頷き返した。
 なるほどね。

 直接俺に言いに来ないで、雅を使うとは、お祖母さまもなかなか考えていらっしゃる……。

 確か、高3になってからまもなく、そんな話をお祖母さまの部屋で聞いた気がする。
 俺は、どんなやつともソツなくやっていける自信があったし。
 お祖母さまの意見に従うことが、柚木家の一員の義務だと十分理解していたから。
 確かお祖母さまの提案には従うようなことを適当に言った気がするが……。

 お祖母さま、か。
 思えばコンクールが始まって以来、自分からお祖母さまを避けていたというわけではないが、確かに挨拶程度の話しかしていなかったな。

「お祖母さまのよろしいように、とでも言っておけよ。どうせ俺たちに拒否権はないんだろ?
 全く……。自分の思い通りにならないと気が済まない人なんだからな」
「ええ。本当に。私も梓馬お兄さまの歳になったら、30過ぎのオジサンと結婚しろ、なんて言われそうね。
 お姉さまみたいに。……冗談じゃないわ」

 雅はまだそうなることが現実として捉えられないのだろう、明るい笑い声を立てた。

「わざわざ面倒な役、やらせて悪かったな。俺からお祖母さまをフォローしておくよ」
「うん。お兄さま、よろしくね。……あ! 私、肝心なこと言い忘れてた。こんなんじゃ子どものお使い以下だわ」

 雅は一度立ち上がりかけ、そして再びしなやかに腰を据えた。
 こんなところは俺と良く似ている。
 そして、上3人の兄姉と年が離れている俺たち2人を躾けたのは、他でもないお祖母さまだと、再び思い知らされる羽目になる。

「なに?」
「その例の人と、6月中旬に一度会席の場を設けるって。必ず日程を空けておくように、って……」

 雅は言いにくそうに語尾を早めて告げる。
 ふぅん……。そうきたか。

 今は、5月下旬。第3コンクールにむけての中盤期。
 6月中旬と言えば、第4セレクションも終わって。
 それでいて受験までにはまだ間がある時期。

 コンクールを理由に辞退することも、受験勉強を盾に拒否することもできない、ってことか。

 俺たちとお祖母さまとの関係。
 そこには世間一般のルールとはほど遠い、頑なな規律がある。

 お互いがお互いの2歩も3歩も先の手を読んで。
 周囲に見えない蜘蛛の糸を張り巡らせるような。

 俺はお祖母さまの威厳に満ちたいかめしい表情を目の前に見るようだった。
*...*...*
「じゃあ、私は自分の部屋に戻るわ。……あ、お兄さま、電話みたいよ?」

 雅が畳に手をついて立ち上がり背中を見せたとき、机の上に置いてあった携帯が微かに肩を震わせた。

「ああ。悪かったな。いろいろ」
「ううん? 早く出ないと」
「そうだな」

 雅の頭を軽く撫でて見送ると、俺は携帯に手を伸ばした。
 見慣れない数字の羅列が点滅している。……一体、誰だ?

「はい。……柚木です」

 出るべきかどうか一刻迷い、ゆっくりと通話ボタンを押す。

 外からかけているのか、背後には車の走り去る音に加えて、ざわめいた雰囲気を感じる。
 そんな中、周囲の雑踏に負けまいとばかりの元気な声が飛び込んできた。

「あ、柚木先輩? 私です。日野です!」
「……なんだ、お前か。相変わらずだな」

 言葉とはうらはらに、香穂子からの電話という事実に喜んでいる自分がいる。
 いや。喜んでいるから、こんなそっけない、素のままの俺の口調が自然と出てくるのだろう。

 俺は部屋の端にある杉の柱に背を預けると、窓の外を見た。
 雨は降ってないものの、さっき擦った硯の中の墨流しを思わせる空。

 木製楽器にとって湿度は命取りだ。
 たとえケースに入っていたとしても、空気までは遮断できない。

「ごめんなさい。金澤先生からのコンクール参加者への連絡網なんです。
本当は火原先輩から柚木先輩にかけてもらうつもりだったんですけど、火原先輩、電源がないとかで繋がらないんですね。だから……」
「お前、傘は持ってるのか?」

 俺は香穂子の話を遮って、現実的なことを問う。

 まったく。
 俺はどうしたっていうんだ?
 別に俺が香穂子の楽器の心配をする必要はないだろうに。ましてや身体までも。
 ── 俺は、こういう人間だったのか?

 電話の香穂子はのんきな声で笑っている。

「え? いいえ。走って帰るから大丈夫ですよ。……あ、降ってきたみたい。走りますねっ」
「走るな。……どこか雨宿りできるところはないのか?」

 机上にある時計を見る。

 練習のキリが下校時間よりも早くついたから、と今日の俺は下校時刻よりも早く学院を出て。
 自宅に戻ったのが6時過ぎだった。

 きっと香穂子は、森の広場あたりで練習をしていて。
 下校時刻を若干過ぎてから学院を出たのだろう。

 それとも正門前で土浦とかに呼び止められたりしていたのか。

 迎えに行くとしても。
 今から俺が車に乗って星奏学院まで1時間。
 一方香穂子の自宅は星奏学院から歩いて10分。
 ……話にならない。

「香穂子? 聞こえているか?」
「あ、はい。えっと、それで、金澤先生が言うには……。わっ、雷!! ヒカりましたよっ」

 俺はすばやく頭を働かせる。

 この前初めて、香穂子の自宅まで送っていったとき。
 車窓から見る風景はいつもコマ送りのようで、普段なら全然気にも止めない景色。
 俺はそれをゆっくりと思い出す。

 ── なにか、あったはず。

「香穂子。途中に小さな神社があっただろう? そこへ行けよ」
「え? 神社?」
「屋根のある祠があるだろ。どうせ通り雨だ。待ってるうちに止むだろうが、ヴァイオリンが濡れるのはまずい」
「え? ありましたっけ……? あ、ホントだ! ありました! ちょっと走ります。待ってて下さいね」

 香穂子は携帯を耳から離したのだろう。
 俺の携帯からは勢い良く走る足音。水たまりを踏んだのか、水をはじく音。
 加えてスカートがぱさりとはためいていく音が混じって聞こえてくる。

(小気味良い)

 ただの雑音であるそれらの音が、なんらかの調べのようになだらかに俺の耳を打つ。

 ── 俺はいろいろなことを認め始めなくてはいけないのかもしれない。
 そんな時期に来たのだろうか。

「……はぁ。……やっと着きました! ……あれ? 先輩?? 繋がってますか?」
「ああ。……全く。デキの悪い後輩を持つと苦労する。お前とヴァイオリンは大丈夫か?」
「はい! 無事、転ばないで辿りつけました。……って、デキの悪い、って? 私のこと、ですよね?」
「当然。誰が見たって月森くんや土浦くんはデキが悪いとは言わないだろ?」
「そうですねえ」

 コトリと何かを置く音がする。多分、これは、ヴァイオリン。
 香穂子は、肩で携帯を挟み込むと、制服に付いた水滴を払っているのだろう。布を叩くような湿った音がする。

 1本の電波が俺と香穂子を繋いでいる。
 そしてきっと、西の方から明るくなり始めている鈍色の空を見上げるのだろう。

 ── 今の俺が眺めているのと同じ、空を。

「香穂子 ──」

 手を伸ばして。
 空を切って。

 まるで香穂子が目の前にいるような気がする。

 ── おかしなモノだ。

 呼吸が落ち着いたのか香穂子は、改めて周囲を見渡して自分が今いる場所に気付いたらしい。

「それにしてもすごい。どうして私が歩いているところがわかったんですか? この祠の場所も……」
「お前を自宅まで送ったことがあるだろ? 1度通れば大体わかる」
「……私、1年以上、学院に通ってるんですけど、知りませんでした。これから雨降りのときは利用しますね」
「お前には経験値ってモノがないのか? これからは傘を携帯するんだな」

 こいつの反応は、俺の周りで俺に取り入ろうとするオンナたちとは違う。
 俺を苛立たせて、心配させて。
 最後には少しだけ安堵、して。

 ── こいつの音色、そのものだ。

「はあい。……あ、雨、止んだみたいですよ? どうもありがとうございました。今から帰ります」
「ああ」
「えへへ。柚木先輩に遠隔操作されちゃいました。じゃあ、失礼します」

 どこか楽しんでいるような声が耳朶を打つ。

『遠隔操作』

 なかなか面白いことを言う。
 ── もし、俺がそうしたら、お前はどんな表情を見せるか楽しみだね。

「ああ。じゃあな」

 俺は電話を切りながら、香穂子が自宅へ帰ったときのことを考えた。

 分かってて、期待して、携帯のボタンを押した俺を笑いたくなる。

 香穂子が自宅に着いて。自分の部屋へと向かう。
 そのとき、正しく連絡を伝えてなかったと、あわてふためいて、もう一度俺へ電話する姿を。

 ── 再び、香穂子からの電話を期待する、なんてな。
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