*...*...* Aware *...*...*
 ふぅ……。
 私は屋上の風見鶏の元、壁に背を預けてのんびりと動いていく雲を眺めていた。

(練習、しなきゃ……)

 第3セレクションに向けて、ほぼ楽譜は全部集め終わって。
 後は、テーマに合った解釈を探そう、という日。

「やる気はあるんだけどな……」

 ふっと、身体中にみなぎってた気合いのようなチカラが抜けている。
 きっとこの調子で練習をしなかったら、あとから絶対後悔するの、わかってる。

 けど。

「いっかぁ。たまには──」

 リリから魔法のヴァイオリンをもらってから。
 毎日がヴァイオリンとの格闘だった。

 音符だって、ロクに読めない。音感もない。
 何しろ週の半分の授業が音楽に費やされてる音楽科の人たちとは、知識もノウハウも違いすぎて。

 とにかく、あと、少し。
 第2セレクションが終わったんだもん。半分、やってきたんだもん。

「気持ちいい……」

 眠い……。
 このまま寝ちゃうことができたら素敵だろうな。
 あ、ヴァイオリンが膝の上に出しっぱなしだ。
 せめてケースに入れておかないと、突然湿度が高くなってきたら大変かも。

 壁に沿ってた背中がずるりと引力に従う。
 まぶたも背中と同じような動きをして。

 少し、くらいはいいよね……?

 かつかつと低い音をさせて誰かが階段を上がってくる。
 心地良い音。
 なんだか高級なメトロノームみたい。正確で、品が良くて。

 んーー。この足音って月森くんっぽい。

 もし彼だったら、私のこと、そっとしておいてくれるだろうな。
 それにもしかしたら。
 私がここにいることも気付かずに綺麗なヴァイオリンの音を聞かせてくれるかもしれない。

 睡魔と覚醒との間。
 ホンの少しだけ睡魔が勝って、私は彼に乗っかることにした。

「……何やってるんだ? お前」
「……っ! はははい!?」

 呆れた声と共に降ってきたのは、額を軽く押される指だった。

 かすむ目には、薄い雲を散らした空と、藤色の髪の毛が映っている。
 わ、睫、長い。肌だって、真っ白。普通の女の子よりもキレイかも……。
 んーー。
 どうして柚木先輩の顔がこんなに私の近くにあるんだろ……。

「って、わっ!! ゆ、柚木先輩っ。どうしてこんな近くにいるんですかーー!」
「お前が死体みたいに動かないからだろ? 全く、何やってるんだ?」
「や、あの、生きてますっ。大丈夫ですっ」

 私は白い肩を押し返す。い、いくらなんでも、この距離は、やっぱりマズいよう。

 って、でも、私、何がマズいんだろう……?
 えっと、えっと……。
 ……あ、きっと、そう。
 こんな至近距離のところ、見つかったら、親衛隊さんから何言われるかわからないから、だよね?

 柚木先輩は私の抵抗をさらりと受け流して立ち上がると、風で乱れた髪をかき上げた。

「今日は良い音が響きそうだと思って、ここに来たんだけど。どうやら、邪魔したようだな」
「あ、いえ。どうぞ。私、ウトウトしてただけなんです。場所、替えます」

 立ち上がろうとして、私は今の状況を把握する。
 わわ、膝の上に置いてあった弓が落ちちゃうよう。

「別にそれほど慌てることもないだろ?」

 柔らかなヒカリを放つ金色の楽器を手にして、柚木先輩は私の様子を軽く一瞥した。

 うう、こんなふやけた顔、見られたくなかったな……。
 あとでこのことを、どんな風に振られるかわからない。
 柚木先輩はふわりと、2人の時だけに見せるイジワルな笑みを浮かべた。

「優勝者の驕慢さが、次のセレクションの悲惨さに繋がるってどうして分からないのか不思議だね。
 『奢れる者は久しからず』とは俺は言い得て妙だといつも感心するよ」
「あはは。いいんですよ。私は失うモノが何もないから」
「……香穂子?」

 あれ? 私、ちょっと寝ちゃったから、かな?
 身体中のビスが緩んだみたいに、饒舌になってる。

 日頃、感じてて。
 けど先輩だから、って遠慮して言えなかったこと。
 告げたら、もしかしたら先輩を不快にしちゃうんじゃないか、って思ってたこと。

 それが頭で考えるよりも早く、舌の上に乗っかって飛び出してくる。

「たまたま優勝しただけ、です。しかも100パーセント私の実力ってワケじゃないんです。
 人望も名声もない私は、今、目の前にあることをやるだけなんだもの。
 ……却って、先輩のような人は大変かも」

 いろいろな気持ち、全部が混ざって。
 私の中には1つの結論が生まれる。

 先輩がこうやっていつも私に当たるのは、何か意味があるのかな?
 ── そう、思えて。

 柚木先輩は表情1つ変えることなく私の言葉を聞き終えると、意外にも怒ることなく。
 口調だけは面白そうに。
 けどどこか暗い表情を浮かべて微笑んできた。

「……やれやれ。お前に同情されるとは思わなかったね」
「ごめんなさい。気を悪くしました?」
「別に。お前の言うことは俺にとって大して意味を持たない」

 返ってくる言葉はいつも通りの傲慢なモノ。
 柚木先輩は拗ねたように顔を背ける。

 んん? なんだか様子がおかしいような……?

 やっぱり、言い過ぎたかな、私。
 そうして。
 柚木先輩は私から2、3歩遠ざかると、海の方角へ顔を向けた。

 逆光が彼の身体を包み込む。
 元々細い身体のラインが、腕や脚なんかは、透けてなくなりそう。
 艶やかな髪がヒカリを含んで、更に光沢を増し始める。

(きれい……)

 後ろ姿さえも美しい、って彼のことを言うんだ。
 立ち位置1つにも、力を抜かないで。

 『視覚と聴覚は人に押しつけられるモノだろ? それを使わないでどうするんだ?』

 少しずつ人前で演奏し始めた私に、最初に投げかけられた一言。
 そのころの私は、弦の上を踊る指を追いかけるのに精一杯で。
 そんな立ち位置だとか視線の方向だとかなんて考えたこともなかったころ、だったっけ……。

 柚木先輩は、軽く第2セレクションで演奏した『春の歌』の最初のフレーズだけ手慰みに奏でて。
 視線を鋭くすると、再び私の方に向き直った。

「お前は人に認められようと思わないのか?」
「私、ですか?」
「お前を見ていると、いつもイライラする。
 お前がいる場所は、たいてい、練習室か、正門前か、屋上だ。独りで独りの音を奏でている。
 お前はお前の良さを、もっと人の多いところで押しつけようとか考えないわけ?」

 先輩は目を細めて少し苦しそうに私を見る。

 ずっと人の輪の中心にいる先輩。
 そんな先輩から見たら確かに私は、いつも人通りの少ない場所で、自分の音色を探してばかりいる。
 思えば他の人から見た自分に気を遣う余裕はなかった。
 それはセレクションが後半戦に進んだ今も変わらない。

「えっと、どうだろう……? 別に、全員の人にわかってもらおうとは思いません」
「どうしてだ? 人前で演奏することは2つの利点がある。
 人がどういう曲を好むのかがわかるし、人もお前を認めるだろうから。
 人の評価は自分の存在価値を計る良い指針だろう?」
「はい。確かにそうですけど……」

 今年の春。
 初めてリリと出会った季節から。
 たった2ヶ月間のことを私は思い出してみる。

 私がいつも、柚木先輩に指摘された場所へと行くのは。

 人通りが少ないから?
 独りの音色を奏でたかったから?

 ううん。違う。

 私はどんな時もただ1人の人を探し続けてた。
 会えたら、たくさん話ができる、っていうワケではなかった。
 なにしろ相手はイジワルだし、気分屋だし。
 そっけない一言で、その場を離れられてしまうこともあった。

 けど。

 時折投げかけてくれる言葉は、皮肉と抱き合わせになった真実があって。
 今となっては、私の中心で大きな幹になっていることがわかる、から。

「私は……。私のことは……」
「……なに? 聞こえない」

 ゴゥ、と風が音を立てて、屋上の空を舐めていく。

 そっけないことを言う目の前の人へ。
 風に負けないほどの声で、私は告げる。


「柚木先輩がわかってくれるなら、それでいいです」
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