ええっと……。
 どうして、今、私、こんな状態になってるんだっけ?

 白い制服を着ているコって、みんな冬海ちゃんみたいに華奢で愛らしいコばかり、ってワケじゃないんだ。
 私よりかなり大柄な人たちに囲まれてるからか、目の前にはタイがずらりと、1、2、3、4、と。わ、5本も並んでいる。

 あ、そっか。
 冬海ちゃんとはタイの色が違う。この色って確か、3年生の色だよね。

「ちょっとお話させてもらってもいいかしら? 時間は取らせないから」

 空から有無を言わさないような声が降ってくる。

「勘の良い日野さんなら、なに聞かれるか、わかってるよねえ?」
「そうそう」

 私は目を見開いたまま、頑なに口を閉じる。

 多分、きっと。
 今までに何度もあったことの繰り返し。
 それが今回は、大きな津波みたいにしてやってきただけ、だもん。

 ── 柚木先輩について、私が一体何を言えるっていうんだろう?
*...*...* Grace *...*...*
「大体、なんなのよ、あなた」
「そうそう。ぽっと出の普通科が、コンクールに出るって言うのもおこがましいのよ」
「それでいて、なに? ヴァイオリンの扱いがヘタだから、って柚木サマに送迎してもらうなんて!」
「柚木サマのお優しさに付け入るなんて、図々しいにも程があるわ」

 わ、女の子の感情に満ちた声って、結構聞き取りにくいモノなんだ……。
 なまじ、周囲に聞こえないように、っていう配慮からか、声を抑えようとしてて。けど抑えきれなくて。

 それが却って聞き苦しい。

 そうだなあ。
 もしこの音をヴァイオリンで表現したら、どんな感じだろう?
 一番高い音がでるE弦を、あまり松脂の塗ってない弓で無理矢理ガコガコ鳴らしたような感じ?

 って、ばかばか。
 私、どうしてこんな時に、ヴァイオリンのことなんか考えてるのーー。

 声で脅せない分が目のヒカリの強さになって現れて、私は10個の瞳に囲まれている。

 そろりと白い肩の隙間を縫うようにして視線を投げてみる。
 ああ、誰か。誰でもいいから、声かけてくれないかな?

 放課後のエントランス。
 周囲には、白い制服と深緑の制服が魚みたいに行き交ってる。

 けれど、ここは、ベンチが点在している最奥の場所。
 まるで死角になっているからか、日頃もここまで脚を運ぶ人は、まばらで。
 女の子同士が談笑してる? とでも思っているのか、誰も私と、このオンナの子の集団に目を遣る人はいない。

 ふらふらと視線が定まらない私に腹を立てたのだろう。
 中心にいる女の人が声を荒立てた。

「この場で約束しなさいよっ。これから2度と柚木サマの車には乗らないって」
「行きも帰りもなんて。日野さんには厚かましいって言葉がピッタリねっ」

 車。送迎。
 そうだった。
 柚木先輩と一緒に下校することは、たまにある。登校することも。

 でもどちらも、特別な理由があるわけじゃない、と思う。

 『ついでだし? お前といると退屈しないからな』

 そ、そう。
 ついで、ついで、なんだよね。

 昨日はたまたま登下校とも柚木先輩と一緒だった。
 それが、目の前の人たちの逆鱗に触れたんだろう。

 おこがましい? 図々しい? 厚かましいの? 私……。
 ネガティブな言葉って、結構ヘコむなあ……。

 ── でも、待って。
 どうして? どうしてこんな言葉を私、受け取らなきゃいけないの?
 私が柚木先輩の車に乗ってるということで、何かこの人たちに迷惑をかけてるのかな?

 きょろきょろと視線を動かさないように、とじっと下を向いていると、ふと自分のローファーがぼやけてくるのが分かった。

 …………。
 泣かないもん。この人たちに見せる涙なんて、ない、から。

「あらあらー。セレクション邁進中の優勝者、泣かしちゃったぁ?」
「泣くワケないじゃない? コンクール出場できて? その上柚木サマと仲良くなって? これ以上、なにを望むっていうのよ?」
「日野さん。ほら、早く約束しなさいよ」

「……お取り込み中のようだけどな」

 薄暗い中、凄みを増した低い声がする。
 見ると、いつからその場にいたのだろう。大きな肩が白い制服の壁の上、にゅうっと突き出しているのがわかる。

 エンジ色のネクタイ。
 頭1つ分、突き出た長身。

「……土浦、くん……」
「みっともないことするなよ。別にいいだろうが。誰が誰と仲良くしようがさ」

 音楽科の先輩たちは、コンクールで土浦くんの存在を知っていたのだろう。
 一瞬顔を見合わせ、何か決心したように今度は土浦くんに向かっていく。

「ああ。そう。普通科同士で仲良くしてるってことね。日野さん、柚木サマとの二股なんて止めて、いっそ土浦くんオンリーにしたらいいのに」
「そ、そんなっ!」
「はぁ? なに言ってるんですか? ── ああ、柚木先輩、ですか。なるほど」

 土浦くんは意味深に頷くと、真ん中の女の人に向かって冷笑した。

「なんなら、俺が直接柚木先輩に伝えましょうか? あんたたちの柚木先輩への気持ちを」
「な、なに言ってるのよ。年下のクセに……」
「こういう気持ちは上でも下でも関係ないんですよ。オトコっていう共通項で括れちまう」

「なっ……。も、もう、行きましょっ!」

 土浦くんの切り返しにこれ以上ここにいてもムダだと思ったのか、音楽科の先輩達は靴の音を高くしてその場を後にする。

「なんだよ? ああいうことはさ、香穂なんかに言わないで、直接柚木先輩に言えばいいのにな。
 なんかオンナって大変だな〜。……って、オイっ。大丈夫か?」
「── き、緊張したよう……」

 私は、くたんとキレイに磨かれた床に座り込む。
 手にしていたヴァイオリンと弓を落とさなかっただけ、私も少しだけヴァイオリンを持つ心構えができたような気がする、けど、

 本当は。

 脚がガクガクして。
 白い壁を見送った今でも、10個の瞳が身体の回りにまとわりついてる気がして。
 まばたきもできない目からは、生理的な涙がほろほろ出てくる。

 なに? どうして……? どうして、こう、なるのかな……?

「こ、怖かった。怖かったよ、土浦くん……っ」

 泣き顔を見られたくなくて、私は顔に手を宛てる。
 手にしている弓は長くて、涙に触れる前に、髪の毛にひっかかる。

 それに気付いて土浦くんが、優しく弓とヴァイオリンを私の腕から取り上げ、床に置いてくれた。
 そしてそのまま、中腰になると私の手を取り外し、そっと顔を覗き込んだ。

 こ、こんな風に泣き顔を間近で見られたら、困る。……困るよ。

「……な、香穂」
「……見ないでよー。な、なに……?」
「俺じゃ、役不足か?」
「え?」
「役不足、って言うなら、今すぐ柚木先輩を捜してきてやる。
 もしそうじゃない、って言うなら、このままお前のそばにいてやる。
 ……っていうか、なんて言うんだ? こういうの」
「土浦くん……」
「── 俺が、お前のそばにいたい。そうだな、そんな感じなんだ」

 えっと、えっと……。

 思わず涙もどこかに引っ込んじゃうくらい、私は動揺していた。
 えっと、どうして今、こうなってるんだっけ?

 それで、土浦くんは、なんて?
 そばにいたい? そばにいたい、って……。

 わたしの中でシグナルが鳴る。
 これ以上そばにきてもらうのはダメ。そう、ダメなんだ。

 きっと土浦くんは、同情しちゃったんだよね。今の状況に。
 普通科で、素人で。でも頑張ってる。
 そう言っていつも応援してくれる土浦くん。

 多分これは、友人としてのエールなんだ。
 アニキ肌の、人望のある、カッコ良い人だもん。

 こんなことで土浦くんの大事な時間を、ジャマしたく、ない。

 私は土浦くんの手ごと私の顔に引き寄せると、ぐいぐいと頬の涙を拭った。

「ううん? ありがとう。大丈夫。コンクールまであと少しだもん。土浦くんも練習しなきゃ、だよね?」
「香穂……」
「泣いてる女の子に惑わされちゃダメだよ? さっきは特別。……ね、えい、って引っ張って?」
「お? おう」

 私は土浦くんに手を引かれ、その勢いで立ち上がった。
 パンパンと短いスカートのおしりをたたく。
 まるで、その音と一緒に泣き顔を見られたという恥ずかしさを消せればいいのに、なんて思いながら。

「それにしても土浦くん。どうして役不足、なんて言うかなー? 
 不足どころか、私にはもったいないほど、足、足……。
 あれ、『不足』の反対語ってなんて言うんだっけ?」
「は? 文系が苦手な俺に聞くなんて、お前、やっぱりどうかしてるんじゃないか?」

 土浦くんはやれやれと苦笑して、引っ張り上げた私の手をゆっくりと解いた。

 今泣いたカラスが今笑う、っていう様子をつぶさに観察してる、って感じなのかな?
 私の表情を目を細めて見つめている。

「あ。じゃあ、別の言い方にしよう……。えっと、私にはもったいないほど素敵な助っ人だったよ。……ありがとね」
「別に大したことじゃねーよ。……じゃあな」

 土浦くんは立ち上がった私の脚からゆっくりと顔の方へと視線を動かした。

 そして1歩脚を踏み出して。
 真っ直ぐ前を見つめたまま、小さな声でつぶやいた。

「香穂……。なんかあったらさ、いつでも俺に言えよ? 話くらい聞いてやるから」
*...*...*
 下校時刻6時まで、めいっぱい練習する。
 学院全体がオレンジ色に染まる時間。
 去年まではこんな時間まで学院に残ることはなかったから、コンクールへ参加するようになってから初めて目にした景色。

 この風景をとてもとても好きになっている自分に気づく。
 ブラボーの声も嬉しいけど、こうやって自然の中に響くヴァイオリンの音色がどれだけ素敵か、って知り始めてから、私はこの景色が大好きになった。

 泣いたせいかなんだかすっきり、とまではいかないモノの、あの1件の後は、却って練習に集中できて、私は満足していた。

(今日はどうしよう……)

 あんな風に悪意をぶつけられた今日。
 もしこのまま正門に行って。
 そして、柚木先輩の車があったら。

 もちろん誘われない日もあるから、今の私の悩みはうぬぼれかもしれない。
 けど、もし、誘われたら。

 ── どうしたら、いいの?

 (断りたくないな……)

 断ったときの、つんと澄ました、けど、どこかつまらなさそうな先輩の顔を、私は見たくなかった。

 身体は頭よりも早く動いて、私はくるりと踵を返す。

「今日は北門から帰ろう……」

 正門の正反対の位置にある、北門。
 いつもひっそりと人影もない。
 しかも私の家から遠回りだということで、あまり利用したことはなかった。

「へぇ〜。こうなってるんだ……」

 おずおずと北門をくぐる。
 北門は正門ほど豪華な作りではないにしろ、小さく星奏学院の校章が押してあって、こぢんまりと気品があった。

 しばらく、あのお姉さんたちの、ぶつけられたら悲しくなる感情が落ち着くまで。
 こうやって、北門から帰ろっかな……。
 そうだよね。それが一番良いよね。

「……こんなところで会うなんて奇遇だね、日野さん」

 背後から、声がする。

「はははいっ!?」

 ツタが這い、薄く陰になっている隙間から現れたのは、私がたった今まで想っていた人だった。

「どどうしてここに……!?」
「……俺がお前の考えていることをわからないとでも?」
「は、はい……」

 どうしてこの人はいつも私に関することについて、ううん、どんなことについても自信たっぷりなんだろう。
 それでも不思議と、その自信を頼りにし始めている自分も、いて。

 柚木先輩はつかつかと私の横に並ぶと、ゆっくりと歩き出した。

「あれ? 今日、車は……?」

 問いかける私のことは全くムシして、柚木先輩は別のことを切り出した。

「聞いたよ。土浦と濡れ場があったんだって?」
「え? 濡れ場? 濡れ場って、あの、濡れる、ってことですか? あの、確かに泣いちゃいましたけど……」

 きょとんとして私は答える。
 どうして知ってるんだろ?
 あれ? でも、濡れ場って、もっと別の隠微な意味があったような……?

「ご丁寧にもね、詳細を知らせてくれる女の子がいるんだよ。
 きっと自分が可愛がったコがどうなるか興味があるんだろ? 物好きだな」

 ああ。
 私はエントランスの様子を思い出す。
 確かエントランスって、柱がキレイなアーチ状になって、あちこちに並んでいるっけ。
 その陰に上手く隠れていれば、案外、分からないかもしれない。

「なんでもないですよー。今日のハプニング特集、というか、本日のイチオシイベント、って感じですね。あはは……」

 釣られて一緒に笑ってくれると思ったのに、柚木先輩は厳しい表情で私を流し見ただけだった。

「えっと……」
「今までも何度もあったのか? こういうこと」
「…………」

 返事に、詰まる。
 きっとどちらの答えを告げても、目の前の人が悲しくなると思うから。

 正しい答えなら、ストレートに。
 偽りの答えなら、余計に。

「香穂子?」
「大丈夫ですよ? 私、強いから」

 ── いろいろ抱えているこの人が、これ以上、なにも、抱え込みませんように。

 何か言いたげに口を開いた先輩に、私は笑いかける。


「そ、そう言えば、歩いて一緒に帰るのって、初めてですね」
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