どんなことだって、こうなるには、何か意味があるんだ、って。
きっと、今ここでやり遂げられることは。
── どんなことも、未来の私のチカラになる、って。
*...*...* Broken *...*...*
リリっていう、妖精を目にしてから、私の生活は変わった。妖精、なんて、今ドキの高校生が口に出したら、電波系のレッテルを貼られそうだけど。
そんな不思議なきっかけから、私は初めて触れるヴァイオリンで音楽を奏でていった。
弾き込むうちに、私はこの500グラムに満たない焦げ茶色の楽器に、どんどん惹かれていって。
私の想いを伝え聞くかのように、魔法のヴァイオリンはいつも優しく鳴り響いてくれて。
まるで水に流されるかのようにして、私は第4セレクションまできていた。
『楽器はさ、自分の相棒だからね? 大切に可愛がってあげるといいよ。
なんて言ったって、自分の一番の同士だもんね!』
今朝も登校途中でばったり会った火原先輩は、私と肩を並べると嬉しそうに言った。
『はい。頑張ります』
『俺もさ、トランペット始めるの、人より遅かったよ? 中2の頃。
だから、香穂ちゃんも大丈夫だって。俺が保証する!』
『あはは。嬉しい。火原先輩が保証してくれるんですか?』
『もっちろんv』
うう……。
たった数時間前のことなのに。
そうやってノーテンキに笑ってた自分が懐かしいよう。
第4セレクションに入った初日の昼休み。
私はリリに呼び出されて、お弁当もそこそこに屋上へと向かった。
「日野香穂子……。これを見るのだ」
魔法のヴァイオリンはE弦とG弦が切れて、心なしか寂しそうに見える。
私はリリが悲しそうに新しいヴァイオリンの説明をしている間、ぼんやりと魔法のヴァイオリンを見つめ続けていた。
「ね……。リリ、本当なの? 魔法のヴァイオリンが壊れた、って」
「だ、大丈夫なのだ。逆に言えば、もう日野香穂子に魔法のヴァイオリンは必要ないと判断されたのだ。
だから……。お前はお前らしくこのまま練習を続ければいいのだ」
「でもね、リリ。もう最終セレクションが始まるんだよ? 急にそんな……。できるかな?」
私は新しく手渡された高級ヴァイオリンのA弦を、ため息混じりにピチカートしてみる。
……わっ。鈍い音。
身体の芯に砂を詰め込まれた時みたいに滅入る音。
こんな音、久しぶりに聞くような気がする。
恨めしげにリリを見つめると、リリはしょんぼりと肩を落とした。
「確かに、この高級ヴァイオリンはあまり音は響かないかもしれないのだ……」
「どうしよう? どうしたらいいの? リリはアルジェントなんでしょ? エラい子なんでしょ? なんとかしてーー」
泣きつく私にリリは申し訳なさそうにぼそぼそと口を開いた。」
「日野香穂子……。逆に言えば、これからが本番なのだ」
「ん……」
「これからは、魔法というハンデがないのだ。誰とでも、正々堂々と渡り合える。
魔法のヴァイオリンだということで、お前のことを認めていなかった人間も、これでちゃんとお前を一人前に扱ってくれる。
悪くない話なのだ」
「確かにそうかもしれないけど……」
「我が輩はいつもお前たちを見ている。お前たちの作る音色がどんなに人間を豊かにするかを」
リリは独りで頷くと、小さな杖をくるりと振りかざして姿を消した。
── 私の手は、まだ私の体温さえもはじきそうな、品の良いヴァイオリンがあった。
*...*...*
鉛色の空が少しずつ、地面との距離を短くしてくる放課後。私は正門前でおそるおそるケースから高級ヴァイオリンを取り出す。
同じヴァイオリンって言っても、色つや形はそれぞれなんだなあ……。
そっと、弓に手を伸ばすと、まだそこは私の手には全く馴染まない堅さがあって。
(どんな音を鳴らしてくれるかな?)
私はおずおずと本体を自分の肩に載せる。
わ、あご当ても、なんか魔法のヴァイオリンとは違うような気がする……っ。
固くて、ちょっと、冷たい。
みぞおちにチカラを込めて。
両足を軽く開き。
弓を構えて。軽く調音をして……、っと……。
そのとき、目の前を歩いていた音楽科の男の子が食い入るように、私の手元を見ているのに気付いた。
「あれ? 以前のヴァイオリンとは違いますね? 俺の気のせいかな……?」
名前も知らないその人は、私のヴァイオリンのあご当て部分から、4本の線、ペグへと目を這わす。
ヴァイオリン専攻の人というのは、殊の外自分の楽器を大事にするっていうウワサを聞いたことがある。
だからこれは当たり前すぎる行動なのかもしれないけど、私は落ち着かなかった。
「う、うん。そうなの。えっと、今日から変えたの」
「そうなんですか。コンクール途中で自分の道具を変える人も珍しいですね」
「え、そうなの?」
「当たり前ですよ。コンクール中、楽器の代替えは1番のタブーとされているんですよ?
弦1本替えるのも躊躇する人もいるくらいなのに」
常識でしょう、と言わんばかりの口調に、私は慌てて頷く。
これ以上、無知さ加減を知られるのもマズいよね?
「そ、そうだよね。でも、ちょっと気分転換にいいかな、って……っ」
「そうですか。……コンクール優勝者の余裕でしょうね。頑張って」
男の子は一人納得すると、首をふりふり、私から遠ざかっていった。
そうだった。
第3セレクションで。
私が想いを乗せて弾いた曲は、今回も入賞という晴れがましさの中、終了した。
欲がなかったと言えばウソになる。
自分の頑張った成果が結果として目に見えるというのはすごく嬉しいことで。
けど、今は。
私は肩に乗せた新しいヴァイオリンを見てため息をついた。
── 私の相棒はもう、いない。
(どうしたらいいのかな……?)
何度も逡巡する。
弓を構えては止めて。
息を深く吸い込んで、もう一度構える。
新しいヴァイオリンがどんな音色を出すのか、胃がシクシクするほど気になる。
ううん。違うな。
それ以上に、すごく、コワイ。
仲良くしたいのに、目の前の相手は何気なく冷たいオーラを放ってる、そんな感じ。
「あ。ねえ、君、日野、ちゃん? コンクールに出てるコでしょう?」
ちょうどそこへ。
ふらりと数人の普通科の人たちが通りかかって、脚を止めた。
「そうそう。昨日、優勝したー?」
「気持ちいいよね。普通科の2人が上位入賞なんてさ」
セレクションも回数を経て、普通科も巻き込んだ一大イベントと化してきたのだろう。
第3セレクションの後半くらいから、普通科の人からリクエストをもらうことも多かったっけ。
これもリリの言っていた、
『音楽を通しての架け橋になる』
ってことなのかな、っていうのは分かる。
けど。
今、今ここでのリクエストは、困るよーー。
一番前にいる闊達そうな男の子が顔を近づけてくる。
そして昨日のドレスアップした私と、今ここにいる制服の私が一致したのか、満面の笑みを浮かべた。
「そだ、日野ちゃん、って言ったよね? 今、ここで1曲、リクエストしちゃってもいいかなー?」
「えっと……」
「そうそう。あの、なんとかアーノ、だったっけ? ちゃらららららーっていう曲。すごくいいよね!」
「ばーか。そんなんで分かるかっていうの」
「わかるよね、日野ちゃん。優勝者ってことは、なんてったって星奏学院のエースってことだもん。ねぇー、お願い」
私は曖昧に笑う。
うう、できれば、この場から逃げたい。
いくらなんでも今ココで、このヴァイオリンで奏でるなんて、自信ないもん。
今日の今日。
それも、まだこのヴァイオリンになってから、音も全然試してないのに。
「あのね、実はまだ調弦してなくって……」
また今度の機会に、と言っているハナから、私の声は蛮声にかき消された。
「おおー。調弦だって! 俺たちには一生縁がない言葉だよなーー」
「なんかカッコ良くないー?『オレの彼女はヴァイオリンやってますー』なんて言ってみたいよなあ!?」
「な。俺たちのお願い聞いてよ。日野ちゃん」
初めに言い出した男の子は今更引っ込みがつかないのだろう。
口では軽くいなしながらも、目の色は真剣そのもので。
このまま別の場所に動くことは難しそうだった。
「……はい」
深く息を吐いて。
今日何度、こうやってヴァイオリンに集中するために息を止めただろう。
……これが、最後。
指先にチカラを込める。
(鳴って。お願い)
私は祈るような気持ちでそっと弦を上下に動かし始めた。
(これ、って……?)
まず、運弓が全然違う。
大きく振れない。
ムリに音階を引っ張り出したら、裏返って、不愉快な音を生んで、割れる。
いつもなら高く響く音が、信じられないほど、地を這って途切れる。
── 最後の音が消えていく。
重苦しい空。
湿った空気。
その中にあるヴァイオリンの音も、行き場を失ったかのように、しばらくその場にたゆたっていて。
余韻に続く静寂。
その静けさは、全く好意的なモノじゃないというのが全身にのしかかってくる。
「あ……、ありがとな、日野ちゃん」
言い出しっぺの男の子は、不可解さ破るようにそう言ってくれた。
けど、他の人は、今生まれた音が信じられないのか、不快そうな表情を浮かべている。
「いえ。あの……。ごめんなさい」
やりきれない気持ちを抱えて、ぺこりと頭を下げる。
恥ずかしい。……というか、クヤしい。
再び顔を上げたとき、その男の子たちは既に背中を向けて歩き出していた。
聞こえないようにしよう、という配慮もまるでないのか、ストレートな感想が漏れ聞こえてくる。
「なーんか? 講堂って音響がいいんじゃね?」
「あれで優勝って、音楽科のレベル、相当マズいよな?」
「ま、俺たちには関係ないかぁ。音楽なんて、所詮カネにならないしな。お遊びだろ?」
遠ざかる足音。
今起きたことが、写真みたいに四角く切り取られて、バラバラに広がる。
新しいヴァイオリンから流れる音色を聞いた途端、私自身が魔法にかかったみたいだ。
動けない、魔法。
だらりと弓を降ろして。
あごの下にある異物の堅さをそのままにして。
── いつまで、私、こうしてるんだろう。
身体中の力という力が抜けきっているのに、耳だけはひどく研ぎ澄まされてて。
どんよりと湿度を持った風が吹くのさえも耳に響くほど。
悲しみ、とか、痛み。
そんな言葉で表現できないようなやりきれなさが全身を襲ってくる。
(実力じゃない。実力じゃない。実力じゃない……)
何を今まで驕ってたんだろう。ちょっと褒められて、いい気になって。
月森くんの言ったとおりだ。柚木先輩の助言のとおりだった。
そもそも私なんかがコンクールに参加するのは、一生懸命音楽に向かっている人たちに、これほどまでに失礼だったんだ。
冬海ちゃん。志水くん……。
1年生でありながら、真摯な態度で音について勉強してる人たち。
いつも姉のように慕ってくれる冬海ちゃん。
でも、この魔法のヴァイオリンの事実を、知ったら?
……初めて出会ったときのように、ぎこちなく視線を外されちゃうようになるのかな。
『べっつに優勝なんてどうでもいいけど。3年生らしく頑張ろうって柚木と話してるんだ』
底抜けに明るい火原先輩の笑顔まで浮かんでくる。
そうだよね。
不定期に開催されるこのコンクールに、高校最後の思い出として、何が何でも参加したいって思った3年生の人。
きっとたくさんいるよね。
本当なら、新しいヴァイオリンに慣れるためにもっともっと練習をしなくてはいけない日なのに。
私は肩に乗せていたヴァイオリンを外すと、腕時計を見る。
針はちょうど4時を回った頃だった。
(……帰ろ)
すごすごとケースを開き、ベージュ色のベルベットの上にそっとヴァイオリンを入れる。
── 私、もう1度、このケースを開くこと、あるのかな……?
何よりもさっき無遠慮に向けられた男の子たちの視線は1つ1つが弾になって、私の身体に入り込んでいるみたい。
あれが、事実で、実力なんだ……。今の私の。今までの私の。
正門の中央にあるファータの銅像の横をとぼとぼ歩く。
第4セレクションは、どうしよう……。
棄権? 不参加? 途中退場、かな……? 私。
「なんだい。……負け犬がしっぽを巻いて帰るって?」
ファータの銅像の陰からひっそりと出てきた影が、私の前に立ちはだかる。
さっきの普通科の男の子達は、私がヴァイオリンを弾く前、やんやと盛り上がっていたから。
きっと柚木先輩も私の一部始終を目にしてたんだろう。
いつもなら先輩のそんな口調を聞くたびに、受けて立ってやるー、とばかりの負けん気が沸いてくるのに。
……はは。── ダメだなあ。今日は、その元気、ない。
「あは……。見られちゃいましたか?」
私は力なく笑うと、ふと顔を上げた。
「からかわないんですか? 絶好のタイミングですよ?」
普段、私のこと、おもちゃ、って言ってるんだし。
しかも、からかいがいがあるとかなんとか、楽しんでるんだから。
でも。
今、柚木先輩がいつものように私のこと、からかったら……。
私……。
── どうなっちゃうのかなあ。
へにょん、ってこの場に座り込んじゃうかも。
柚木先輩は首をかしげて私の表情を見遣ると。
口の端に皮肉げな表情を浮かべて言葉をぶつけてきた。
「── そんな表情したヤツには言ってやらないよ」
その軽蔑しきった口調に、私の頬はカッと熱を帯びる。
「ど、どうして? からかえばいいんですよ。
やっぱりお前の実力はそんなものだとか、だから普通科は出しゃばるな、とか。
日頃思ってること、全部言えばいいじゃないですか!」
ばかばか。私。なに柚木先輩に当たってるのーー。
けど言い出した言葉は一人歩きを始めて、私の中の感情を育てていく。。
なおも言い募ろうとした私に、柚木先輩は余裕たっぷりに微笑んでくる。
「おや? 不満? せっかく優しく接してやったのに」
「先輩……」
じわり、と柚木先輩は脚を踏み出した。
なんとなくその姿に凄みを感じて、私は1歩、後ろへ下がる。
先輩は歩みを止めない。
脚は先輩のされるがままになって、私の背中はファータの銅像にぶつかって止まる。
「な、なに……?」
「なんだ? もっと優しくして欲しいって?」
「い、いえっ。そんなこと……っ」
柚木先輩は私を抱え込むようにして、銅像に手を宛てた。
「香穂子。……これは俺からの助言」
「はい?」
「……自分に同情するな。自分に同情するのは弱い人間がすることだ」
心の奥底まで、見透かされそうな、キレイな、瞳。
わ、こうやって見ると、先輩の瞳の奥は髪の毛と同じ、少しだけ紫がかってるんだ……。
柚木先輩は緊張している私を解きほぐすように笑って。
「魔法がとけた。馬車はカボチャに、行者はネズミになりました。……それから?」
「え? シンデレラ、ですか?」
えっと?
確かに12時を過ぎるころ、シンデレラは元のみすぼらしい姿に戻っちゃったんだよね?
魔法? シンデレラ??
えっと、ヴァイオリンに魔法がかかってて、それがとけちゃって……。ええとええっと。
「……やれやれ。ニブい後輩を持つと苦労する」
柚木先輩はファータ像から腕を外すと、マヌケ面をしてるであろう私の顔を覗き込んだ。
「シンデレラはどんな格好をしていてもシンデレラでした。……本質は変わらないってことさ」
「はい……」
確かに、そうだよね。
灰かぶり姫と呼ばれていたシンデレラは、魔法で飾られた外面じゃなくて、その素直で明るい内面で王子の心を掴んだよね。
本質は、変わらない……?
ええっと……。つまり。
(どんなヴァイオリンを持っていても、私は、私、でいい、ということ……?)
柚木先輩と視線が重なる。
息使いさえも感じられるような、至近距離で。
私は意志を込めて頷く。
「……やって、みます。── 新しいヴァイオリンで」
今、心に浮かんだ素直な気持ちを告げると、先輩は満足そうに笑った。
「……いい子だね」
── こんな、表情するんだ。
……限りなく、甘くて。優しくて。
他の人に見せている優等生然とした、キレイな顔じゃない。
あくまで、優しい、優しい、顔。
でもその表情は、うたかたのようにして消えて。
私の目の前には、いつもの意地悪な先輩だけが残る。
「まあ、今のままでは公害以外のナニモノでもないし? あんなの聞かされちゃこっちが迷惑だからね」
いつの間にか私も、先輩に応酬するだけの元気が出てきたみたい。
私は笑って言い返す。
「先輩も、私の作る音に慣れていってくださいね」