2人の兄と比較され、兄たちよりも秀でることは何もかも許されなくて。
俺はいつしか、自分自身を愛おしむ気持ちというのを失っていたのではないか、と。
すべてが虚構で、化かし合いの人間関係。
周囲の状況を瞬時に判断し、今、自分が置かれている立場で最善のことをそつなく行う。
その俺が、どうしたって?
まったく。バカみたいさ。
1人の人間にこんなにも依存して。
すべてをさらけ出した俺に、笑いかけてくれる。
俺の汚いところも、底意地が悪いところも、しなやかに交わして対抗してくる。
── その空気を心地良いと感じるなんて。
*...*...* Rainy *...*...*
「おはようございます。梓馬さま」「ああ、おはよう」
7時20分。
いつも通り自宅の車寄せに行くと、運転手の田中は雨が不安なのか、いつもより車体を内側に寄せていた。
「雨?」
「さようでございますね。傘をお持ちになった方がいいかもしれません」
「そう?」
「お車のいつもの場所に置いてございますよ」
俺は開かれたドアの中に乗り込むと、軽く息を吐いた。
第4セレクションに入ってからというもの、すっきりしない天気が続いていた。
さっきの、朝の食事。
季節柄仕方がないのかもしれないが、こういう日が続くと、食事の前座は決まってお祖母さまの愚痴から始まる。
「全く、うっとうしい季節だこと。……だからと言って、この柚木家を軽んじるなんて不愉快ですわね」
俺たちは、お互いに苦笑を交えながら席に着く。
この先に続く話を俺は、生まれてこの方、何度繰り返されたことだろう。
まるでその事実の原因が、俺、であるかのような感覚で。
「雨天でも晴天でも関係ありませんよ。柚木家に誕生した男子なのですよ?
なのに、分家に生まれた長男の方がお祝いが多いなんて」
なんでも俺が生まれた年は、まれに見る長梅雨に見舞われたらしい。
雨とお祝いの数とに直接的な因果関係はないだろう。
しかし本家であるウチが、分家よりもお祝いの数が少ないという事実は、勝ち気なお祖母さまとしては許せない事柄だったのだ。
「……世間ではそういうものかもしれませんよ。お祖母さま」
幼い頃から繰り返された繰り言。
そしていつしか俺はそんなお祖母さまをなだめる側に変わって。
俺が、生まれた季節や自分自身までもを疎ましく感じ始めるまでに、それほど時間は掛からなかった。
雨。
陰鬱な季節。
うっとうしい時期。
特に弦楽器にはやり過ごしにくい期間であることは明白だ。
俺や火原のような金管楽器は、あまり湿度には影響しない楽器だけど。
一方で、木管や弦をやってるクラスメイトは、季節の変わり目や梅雨時、台風時をひどく嫌っている。
そのたびに、なんとなく居心地の悪い気分を味わっていることを。
── 多分、周囲の人間は誰1人知らないだろう。
俺は、朝食の時の雰囲気をふりほどくかのように首を回した。
(……今頃、あいつはなにやってるんだか)
俺は香穂子の後ろ姿を思い浮かべる。
すんなりとした背中。
スカートから続く形の良い脚。
両手には、傘、と、ヴァイオリンケースと。
ああ、そう言えば、あいつ、普通科だったな。
だったら、それなりに教科書も持って行くだろうし?
セレクションが進むにつれ、ヴァイオリンの扱いに慣れてきたようだったが……。
この横から降る霧雨には、苦労するかも知れない。
ヴァイオリン本体はそれほど重い楽器ではない。
一応ケースの中に片付けておけば、万が一落としたとしてもそれほどの実害はないだろう。
細かい雫が降り続く街路樹に目を遣る。
── この角の向こうに香穂子の家がある。
「……田中?」
「はい。かしこまりました」
言い終わらないうちに、田中はバックミラーの中、俺と目を合わせた。
「この角でよろしいですね」
偶然を装い、いつも香穂子を乗せる曲がり角。
田中は普段無口な男だが、人の機微を読むことにかけては素晴らしい感性を持っていた。
車内での会話。
2人の間に生まれる、熱や空気。
思えば、俺と香穂子のことを1番良く知っているのは、この田中かもしれない。
車は今俺が思い描いた後ろ姿を見つけると、ぴったりと横に付く。
俺はドアを開け、傘を差し掛ける。
そして淡いピンク色の傘を差している香穂子の顔を覗き込んだ。
「おはよう。やっぱり、お前か。ふらふら歩いてると危ないぞ?」
「え? ふらふら、ですか? 確かにそうかも……。今日は荷物が多くて」
「普通、あいさつにはあいさつを返すものだろ?」
「あ、はい……。おはようございます。柚木先輩」
「ああ、まだ雨が止まないな。ヴァイオリンの扱いに気をつけて」
軽い意地悪は、これから始まる時間のための前奏曲のようなもの。
それがわかっているのか、香穂子も笑いながら車に滑り込んできた。
他の女たちに対して向けるような美辞麗句が、香穂子に対して浮かばないのが我ながら滑稽だね。
「いつもありがとうございます。それにしても、雨、止みませんね」
「ああ。どうやら入梅したらしいな」
「そうですか……。んー、セレクションもいよいよ最後、ですものね」
香穂子は、窓の外に目を遣る。
長い髪が額から頬に流れている。
髪の隙間から覗く額の白さ。
華奢な首から続く制服と、なだらかな胸の膨らみに目を奪われる。
いつも見ているはずなのに。
なんなんだ、こいつ。
── こんなに綺麗なヤツだったか?
湿度が高いからか、香穂子の身体から甘い匂いが立ちこめる。
それは石鹸かシャンプーか。
色の無い、近くに来なければ感じることのない香り。
── こいつの飾り気のない音色、そのものだ。
「お前も、一応ヴァイオリニストだろう?」
「えっと……。そうですね。まだまだ駆け出しですけど」
湿り気を増した外の景色に見とれていた香穂子は、俺の問いにあどけない表情を向けた。
「だったら。こういう時期をどう思う? やっぱり、忌み嫌う季節、か?」
聞いてどうなるモノでもない。
答えはわかっていた。
ヴァイオリニストなら、ほぼ100パーセントが肯定の答えを返すハズ、で。
仮にその答えを聞いたからと言って、俺の生まれた季節を取り替えるわけにもいかないのに。
わかっていてもなお、問いただしたくなる。
そして、数パーセントの可能性の、否定の答えが聞きたくなる。
── 季節を肯定して。
そして、……俺自身のことも、と。
「んーー。どうでしょう? 雨がキライっていう子も多いけど……」
香穂子は、愛おしそうにヴァイオリンケースを撫でて。
俺は香穂子の桜色の爪が、この数ヶ月で、薄く平たくなっているのを改めて認識する。
疲れたとか、頑張ったとか、自分では言わないヤツだけど。
── ずいぶん、練習したんだ、と俺の方が思い知らされる。
「私は好きですよ。この季節。……あ、学校に着いたみたいですね」
香穂子は膝を揃えて脚の向きを替えて、車の中からてのひらを伸ばす。
そして傘は必要ないと判断したのか、そのまま形良く正門に降り立った。
車は低いエンジン音を残して遠ざかる。
いつの間にか厚い雲が途切れ、ところどころから強い日差しが広がった。
「ほら、先輩、見てください」
「なに?」
星奏学院の正門。
香穂子はアプローチ全面に貼ってあるアールデコ調のタイルを指さした。
「星奏学院の雨上がりの正門はね、水たまりがすごく綺麗なんです。見ててくださいね」
天空では強い風が吹いているのだろう。
目に見える速さで雲は切れ、真夏の太陽が顔を出した。
青色を伴ったヒカリが、水上を反射して。
水たまり全体が空になる。
「鏡みたいに、光るんです。ほら、見て?」
露を含んだ碧葉と。
夏を思わせる青空。
その縁に星奏学院のレンガ色が混ざる。
夏いっぱいの、その景色。
3年間知らないで過ごしていた。
理由は簡単。
俺は人の思惑の方が大切で、足元なんて見てこなかったからだ。
「先輩。行きますよーー?」
香穂子は水たまりを軽やかに飛び越える。
ひらりと翻った白いスカートがまぶしい。
「お前、女だろ? 少しは気を遣え」
口ではぶっきらぼうに扱いながらも、俺の顔は甘い笑みをたたえているのだろう。
振り返った香穂子は、満面の笑顔で俺を見る。
心の中に、甘い感情が広がる。
投げかけられた小さな石から、波紋が広がって。
震えて。溢れそうになる。
── 俺は初めて、感情が液体で形作られていたことを悟った。
本当の俺を知って。
あいつはどう思ったんだろう。
1度、この腕に掴まえて、聞いてみたいよ。
失望したか? 軽蔑したか?
答えは、まだ、出さない。出したくない。
ここ1ヶ月、結論をずっと先延ばしにしていることは分かっている。
── でも。
コンクールが終わるまで、こいつと、そして音楽と一緒に。
普通科と音楽科の垣根をやすやすと跳び越える香穂子となら。
香穂子と過ごすわずかな時間を、ちょっとずつ積み重ねて。
俺は『これから』を信じられる強さを、持ち続けることができるだろうか?
「香穂子。じゃあ、今日もおとなしくしているんだよ」
「了解です」
空と地と。2つの面が青色に染まる中。
香穂子は泳ぐようにしなやかに普通科の棟へと向かう。
まだ俺の自由になる時間はある。
── そう、信じてみたくなるじゃないか。