*...*...* Wish *...*...*
放課後の講堂。今日は犬と猫が大騒ぎしているくらいの雨……、って、イギリスの人はよく言ったものだよね、 と思えるほどの激しい雷雨に恵まれてしまって、 私はいつも行く森の広場や屋上に行きそびれていた。
本当は室内よりも空の下でヴァイオリンを響かせる方が好きだけど、こんな雨じゃどうしようもないもんね。
「今日はこっちで練習しようかな」
練習室が予約でいっぱいだったこともあって、私は普通科棟から渡り廊下を伝って講堂にやってきていた。
平日。だけど、金曜日、ということも手伝ってか、ほとんど人はいない。
ふふ、その気持ち、とってもよく分かるなあ。
明日はお休み。しかも季節もいい。
クラス替えで新しくお友達になった子もいる。お友達になりたいな、って思える子もいる。
そういう子を誘って金曜日くらいぱぁっと遊ばなきゃね、ってばかりに、みんな学院を飛び出して行ったんだろうなあ。
……ヘンなの。
私もほんの2ヶ月前まではそうしてたはずなのに。
どうしてかな?
ヴァイオリンのない生活のことを考えると、ひどく昔のことのように感じるんだもん。
「さてっと。どうしようかなあ。選曲……」
私は1番端っこの椅子にヴァイオリンを置くと、脇に挟んでいた楽譜を広げた。
子守歌とロマンス第1番。それにカンタービレ。
第4セレクションに入って新しく覚えた楽譜を、パラパラとめくる。
学院中走り回って集めた紙たちは、私の書き込みとやや乱暴な取り扱いを受けて。
端が少し折れたりして、最初の時よりも厚みを増している。
ガサガサと乱雑な様子が嬉しくて、私は楽譜の表面をそっと撫でた。
「……えへへ。一緒に頑張ったもんね」
この楽譜たちも、ヴァイオリンも、今となっては私の大事な相棒だもの。
私はカンタービレの楽譜を広げると、ヴァイオリンをケースから取り出した。
……うん、今日の気分はコレだよね。
軽く調弦をしながら、考える。
昨日、些細なことから柚木先輩と話して。
久しぶりに一緒に合奏したことで、また私は元気をもらっていたりする。
なんだろう。
私の前にいる先輩は、他の人たちに見せる貴公子然とした先輩じゃないし。
口はこれでもか、って言うほど毒舌なのに。
ときどき、私を気遣うような優しい視線を向けてくれる。
聞いたときは、キツい、って思う先輩の言葉も、家に帰ってから考えると、ひどく的を得た助言だったりもする。
……だから、どんどん、惹かれた。
柚木先輩は、ときどきちらりと本音を見せてくれるようになった。……気がする。
けど。私が思い切って1歩を踏み出すと、さらりと交わされてしまう。……気もする。
柚木先輩の中にあるガラスの壁みたいなもの。
それは透明で、見えないから。
私は、無意識のうちに柚木先輩に向かって歩き出してて。
いつもその壁に勢いよくぶつかってから、我に返る。
(入っちゃ、いけなかったんだ)
って。心の痛みと、一緒に。
そういえば、天羽ちゃんがそっと私に教えてくれたっけ。
『なーんか。いろいろ難しいおウチみたいよ? 旧家で? 御曹司で? ってことになると、ね。
表向きは身体が弱いから、ってことで車で通学してるけど、本当は余計な虫が付かないように、っていう
家の人の配慮もあるみたい』
『む、虫? す、すごい……。先輩、男の人なのに』
『案外さ、高校卒業したら、あっさり婚約とか結婚とかしそうだよね。
それに、香穂子。もし柚木先輩に車がなかったら、って考えてみたことある?
柚木教の信者が下校時間にもまとわりつくこと、必須だよ?』
『あはは。言えてる〜』
軽い調子で話を合わせながらも、私の中ではストン、と納得いく答えが浮かんできていた。
── だから……。だから、なのかな?
だから、私に、『コンクールの間だけ、好きでいて』って念を押したんだ、って。
元々、俺とお前とは、別の道を歩くんだ、って。
先輩に対して向かっていく気持ち。
それを育てる前に、きっぱりと遮断された今。
私はこの3日間、1人ヴァイオリンに向かって話しかけて。ようやく自分を納得させて、1つの結論に向かっていた。
先へ進む気持ちを諦めること。
それと、柚木先輩に出会えてから今までに感謝すること。
この2つは、実は、真逆じゃない。同じベクトルを指してる、って。
先へ進む気持ちを諦めるからって、今を否定したくないもん。
「よし、っと……。準備オッケー」
私は相棒を肩に乗せると、ゆっくりと弓を動かす。カンタービレ。祝福の音色。
カンタービレを作ったパガニーニの想いの上に、今の私の気持ちを乗せる。
ありがとう、の気持ち。
音色に音がついているかのように、周囲の人が振り返って、脚を止めてるのがわかる。
── もう。
私の独りよがりな気持ちは、止めなきゃ、ね?
音が、講堂の天井高く響いて。最後のフレーズがだんだん立ち消えていく。
そこにパチパチと乾いた拍手が幾重にも広がった。
「ブラボー!!」
「いいぞ。日野ちゃん!」
私は慌てて弓を降ろすと、周囲に頭を下げた。
わ、こんなにいっぱいの人、いつの間に集まってくれてたんだろう。全然知らなかったよ。
「第4セレまでもう少しですね。頑張ってください!」
音楽科の1年生のコかな?
冬海ちゃんと同じタイの色の女の子がやや興奮した面持ちで手を叩いている。
*...*...*
楽譜から目を離してなだらかな斜面の下の方にある舞台に目を遣ると、いつの間に来ていたのか、柚木先輩がグランドピアノのそばに立っているのが見えた。あれ……? どうしたんだろう。
いつもの取り巻きの女の子は1人も見当たらない。
かといって柚木先輩も練習に打ち込んでいる、っていう様子ではなくて。
金色のフルートを片手にじっとグランドピアノを見つめている。
どうしたのかな?
私はヴァイオリンを片手に小走りで舞台の階段を昇った。
「柚木先輩!」
あ、あれ?
……どうしたんだろう。私の声、小さいかな?
柚木先輩の背中は少しも動じることなく、鍵盤の上では先輩の右手がメヌエットの旋律を響かせている。
「柚木先輩……? あれ? 聞こえてますかー?」
「聞こえてるよ。何度も不協和音みたいな呼び方しないでほしいね」
「あ、はは……。不協和音、ですか……」
今日はいつもにまして機嫌が悪い、らしい。
目の前の人は私に目を移すと、肩をすくめた。
「まあ、いいか。お前も来年には感じることになるだろうから」
柚木先輩は、私から目を離すと、すっと遠くに目を遣った。
私の身体を通り抜けて、遥か向こう。講堂の客席を愛おしげに眺めている。
私も同じようにして振り返ったけど、そこには整然とした椅子が並んでいるだけだった。
「こうして、高校最後の年にコンクールに参加できたことは、想い出になるだろうな」
不定期に開催される、音楽コンクール。
ここで優勝した人は将来音楽の道で大成できる、というジンクスも手伝って、参加を願う生徒も多いって聞く。
とはいえ、参加できるのはその中のわずかな人たち。
音楽科の人たちからしたら、すごく思い入れのあるイベントなんだろうな。
── もちろん、今の私にとっても、そう、だけど。
「音楽も……。思い出になる。コンクールの終わりが音楽との別れかな?」
高2の初夏。けれどそれは私にとっての位置づけで。
柚木先輩や火原先輩からしたら、高校最後の初夏、でもあって。
卒業、かぁ。
今の私には柚木先輩の感傷的な思いはぴんとは来なかった。
「3年も半ばにさしかかると進路に向き合わなくちゃいけないからさ」
柚木先輩は外部受験だと聞いたことがある。
音楽科ではかなり珍しいらしい。
だって、そうだよね。
週の授業の半分が、音楽関係のことに占められていて。
全く授業を受けてない教科を独学で勉強して、受験に受かる人、なんて。
そんなにいないだろう、って思える。
……って。あれ、ちょっと待って。
今、先輩、すごいこと、言ったような気がする。なんて言ったっけ……?
音楽との別れ……?
別れって……?
どうして?
まだ先輩の音色はあんなに人を魅了するのに……?
上手く頭が働かないうちに、柚木先輩は、フルートをピアノの上に置く。
「え?」
そしてそうすることが当然と言った仕草で私のヴァイオリンを取り上げると、フルートの横にそっと置いた。
そして右手に持っていた弦も取り上げると、それもヴァイオリンの横に置く。
2つの楽器はスポットライトを浴びて、居心地良さそうに光っている。
「疲れるだろ? ……そういえば、お前、バレエを観たことがある? もし観たことがないなら一度観てみるべきだよ」
話が長くなるときのいつものクセ。
今まで、さりげなさ過ぎて分からなかった。
3日間、離れていたことで気づく、当たり前にとらえてて当たり前じゃなかったこと。
(ツカレルダロ?)
先輩の、すぐには見えにくい優しさに胸が詰まる。
── どうしてそんなに優しいかなあ。
私と向かい合うときはいつも俺サマ、って感じなのに。
ときどき思いもかけない優しさで包み込むから、……余計、困る。
さりげない仕草は、取り繕ってない先輩そのものに見える。
だとしたら、やっぱりこの人は優しい人……?
「バレエは愛を語る芸術だという。その音楽も愛の片鱗だ。
だが、誰もが他者を自己のように愛することはできないという。
そういった意味で恋は自己満足でしかなく、本質的に実ることはないのかもしれないな」
先輩は自嘲気味につぶやくと、苦笑を浮かべている。
「先輩……」
どこか投げやりで。
それでいて悲しそうな様子を励ましたくて、私は必死でぐるぐる頭を回転させる。
えっと……。そうだ。ん。
今日もクラスのお友だちと盛り上がってた、恋愛話。
友だちからは青臭いだの、時代錯誤だの、散々言われたけど、いいんだもん。
まだ、私たちは、恋に恋していたって、許される歳だと思う。
── 女の子は、お菓子とこういう話題があれば、休み時間なんてあっという間なんだよね。
「それでも、信じてますよ? 私は」
「香穂子?」
「私の中の好きって気持ちが消えない間は、信じたいですね。恋は必ず実る、って。だってすごい可能性で出会ったんですよ? 同じ国の同じ時代に、同じ場所で出会ったんです。話をするんです。それって、すごいと思いませんか? 私は、大事にしたいな、って! ……っと……」
うわーん。先輩相手に私、何、演説してるんだろっ。
柚木先輩は私の口調に圧倒されたように、黙っている。
そうだよね。なに熱くなってるんだろう、私。
── けど、なんだか。
苦しい表情を浮かべてる先輩が、やけに儚げに痛々しく、見えたから……。
でもね、でもね。
こんな顔見てるくらいなら、意地悪な笑顔を見てる方が、ずっと、いいんだもん。
このことはもちろん内緒。
だって、告げたらその代わりにどれだけの意地悪な言葉が返されるか、考えただけで負けてしまいそう。
「そうだね。恋はきっと実る。君の恋はね」
「……先輩?」
ふっと、まろやかな声が頭上から響いた。
あれ? でも、……『キミ』?
ええっと? 私と2人きりのときはいつも、お前、って言うのに……?
「……僕は君の恋を叶えるためなら、どんな犠牲を払っても惜しくはないよ。
それが僕への恋なら、── この命と引き換えでもかまわない」
ヘーゼル色の瞳が深い色に光る。真剣な色。
白いばかりの頬が昂揚して、それがまた長い髪に良く映えている。
自分でも気付かないうちに手を取られて。
すぐ隣りにあるピアノの鍵盤がぐにゃりと曲がって見える。── わわっ、引っ張られた。
「せ、せ先輩! ここ、講堂ですよーーっ。待って。ちょっと待って……。あっ」
1番端っこの鍵盤に私の手がついて、頼りない音を立てる。
不協和音のはずなのに、高いキーは、なぜか耳に心地よかった。
目の前が真っ白になる。多分これは私の頭が先輩の広い胸に抱えられてる、せい。
「なんて……な? そんなこと、俺が本気でお前に言うわけないだろ?
こうやって女性をくどくんだよ。覚えておくといい。騙されないようにね」
「うう〜〜。やっぱり、からかってたんですか」
私はバランスを取るためについた右手を先輩の胸から外す。
柚木先輩の心臓のある、ところ。
ふいに、泣きたくなる。
先輩の温かみが生まれる場所に触れて。
そして、その温かみが私のところまで伝わる前に手を離さなくちゃいけない。
なんだか、今の自分にそっくりなんだもん。
ポジティブな自分が張り切るたびに、押しとどめていた気持ちが苦みのように浮かんでくるのには困り果てる。
目の前にいる人が、どんどん私の中に根を張り始めてるから。
私の顔つきを見て何かを察したのか、柚木先輩は微笑を浮かべた。
「だけど、きっとお前は信じているんだろうな。恋は、実るものだと」
「……はい!」
私はぶんぶんと首を縦に動かす。
だって。そうだよ?
── 信じたいの。本当に。先が見えない恋であっても。
今、ここにある、気持ちに素直になって。
たとえ、その恋が成就しなくても。
今、この瞬間、あなたと一緒の空間にいたことは、忘れたくないよ。
たとえ、成就する前に想い出になったとしても……。
コンクールが終わって。そしたら。
── 今までありがとうございました。って。
言いたいな。……言えたら、いいな。
柚木先輩は私の反応に、驚いたように目を見張って。
その後、私の大好きな優しい笑みを浮かべた。
「……本当に……。お前はバカみたいに可愛いな」
「あはは。バカは余計ですよー」
「事実を言ったまでだけど。でも、そうだな……。お前みたいなやつに聴かせたい曲があるよ」
「わ。なんだろう? 私の知ってる曲ですか? その曲、ヴァイオリン用の楽譜、あります?」
弾いてみたいな。
って、簡単に言って大丈夫かな? 難易度スペシャルの難しいのだったらどうしよう……。
いつもだったら調子に乗っている私に辛辣な言葉を返す柚木先輩。
でも今日はいたずらっぽく笑うと、耳元で囁いた。
「……時期が来たら、教えてやるよ」