*...*...* Faure *...*...*
第4セレクションまであと数日、っていう放課後。外は、いつになく強い風が吹いている。
西側に見えるはずの太陽は、すっかり形を無くして。
目に見える速さで雲が沈んでいく。
きっと、明日は雨かな? 雨ってわりと好きだから、いいんだけど。
正門前のファータ像は、空気を反射して、どこかしら重苦しい色をしている。
「うう、痛いよ……」
私はヴァイオリンを肩から降ろすと、くるくると左腕を回した。
背中には無香性の湿布が2枚貼ってあったり、する。
慣れってコワイ。
筋肉痛も2ヶ月も続くと、どうってことなくなってくるのが、我ながらおかしい。
「……香穂子先輩。頑張ってますね」
「あ! 志水くん!」
私は肩に載せていたヴァイオリンを降ろすと、志水くんに笑いかけた。
「うん。もう少しだもんね。志水くんも練習?」
「……はい。あ、その前に遅延案内が来ていた図書館の本を返してからですけど……」
「そうなんだ」
志水くんの手には重厚そうな本が抱えられている。わ、音楽理論? しかも対位法って……。
対位法って、な、なに?
音楽科の生徒さんの中では、ごく基本的な知識の1つなのかな?
だとしたら聞くのも恥ずかしいから、黙っていることにする。
『聞くのは一時の恥』っていうけど、『聞かぬのは一生の意地』って火原先輩が教えてくれたもんね。
「志水くんは、セレクションの練習、進んでる?」
「ええ。……ああ。僕は、いつも通りです」
志水くんは眠そうな目の端を指で引っ掻いた。
「いつも通り?」
「そうです。寝て、食べて。チェロを弾いて。楽典を読んで。またチェロを弾いて。……毎日がその繰り返しです」
「そ、そっか……」
天才気質って、こういう志水くんや月森くんたちのことを言うんだろうな。
全てが音楽。
彼らの中に音楽があるんじゃなくて、音楽の中に彼らがいる。
全ての行動が音楽に続いている、っていう、感じ。
そんな人たちと一緒に、コンクールに出てるなんて……。
晴れがましさ以前に、よくよく考えたら、私の行動ってすごく無頓着かもしれない。
「香穂子先輩も、自分の探していた音が出たときって、嬉しく感じませんか?」
「ん……」
そ、そうかな? まだ、私の技術じゃ、とてもそこまで到達していないような気がする。
音を作るだけで精一杯な私。
自分の理想とする音を決めて、その通り表現できたためしがないもの。
目の前の男の子に目を遣る。
いろんな音を出して、演じて、確かめて。その中で1番自分に響く音を。
志水くんは、いつも、『探して』いるんだ……。
志水くんは手にした本を抱え直すと、まっすぐに私を見つめた。
「僕は僕の納得いく音を探したい。ただそれだけなんです。
香穂子先輩の音は、いつも僕になにかを教えてくれる。だから追い求めてしまうのかもしれません」
眠そうだった目が見開かれて、私を捉えた、と思ったら、みるみるうちに優しく細められる。
白い頬。ふにゃふにゃと柔らかい髪。
湿度の高い空気さえも味方につけて、ほわりとした雰囲気を醸し出している。
── わ。可愛い、かも……。
私はつられるようにして、ふにゃりと緩んだ頬を隠すように手で押さえた。
……って、私ったら、後輩くんにときめいてどうするのーー。
天羽ちゃんも言ってたっけ。
今回のコンクールの参加者は誰を取っても絵になる、って。
『アンタはヴァイオリンばっかりに気持ちを取られて、なーーんにも知らないから教えてあげるけど、
志水くんのファンクラブっていうのも結成されたって話よ? しかも2、3年のおねーさま達が主催って』
ふふ。なんだか、その気持ち、分かる気がするなあ……。
志水くんって、どこか、年上のオンナの人の心を引っ掻くようなところがあるかもしれない。
「あ! えっと、私で良かったら、また一緒に合奏しよっか? というか、合奏させてください。お願いします!」
年は、というか、年だけは、志水くんより上だけど、音楽歴ではとうてい、彼には敵わない。
頼み込むように顔の前で両手を合わせると、志水くんは軽く頷いてまた笑った。
「わかりました。ヴァイオリンとチェロのコンチェルトに良さそうな楽譜があったら香穂子先輩に届けますね」
*...*...*
えへへ。嬉しい、かも……。私は再びヴァイオリンを肩に載せると、さっきの志水くんとの会話を思い出していた。
今まで、火原先輩や柚木先輩、土浦くんや月森くん、っていった、 同級生や上級生とはたまに会って話す機会はあったけど、下級生、しかも男の子の志水くんと話す機会はあまりなかったっけ。
嫌われてる、とは思いたくなかったけど、アンフェアな方法でコンクールに参加しているのは事実だったから、なんとなく自分から避けている部分もあったような気がする。
けど、さっきお話して。
彼は私のことを嫌ってるワケじゃない、って分かっただけでも。
「う、嬉しいよ〜〜」
えっと、そうだ。こんな時に合う曲、ってなんだっけ??
私は第4セレクションのキーワードなんてまるで無視して、楽譜に向かう。
「何にしようかな。……あ、これなんか、どうかな?」
第2セレクションで奏でた曲。『ロマンス・ト長調』
彩り豊かで華やかな曲。── 今の自分にぴったりな気がする。
私は弓を弦に当てると、ゆっくりと音を作った。
ね、リリ。聴いてくれてる?
この2ヶ月、ホント、いろいろ大変だったんだよ?
人間関係も、ヴァイオリン自体の取り扱い方も。まるで、不慣れで。
けどね。
こうやって、コンクールに参加するまで全く知らなかった、後輩くんと、お話できるようになれた、ってこと。
やっぱりすごく嬉しい。
── ありがとうね?
途中から、軽く目配せをして、音楽科のピアノの子が合奏に加わる。
わ、その後ろにはフルートの子もいる。
まるで歩くジュークボックスみたい。
のびやかな音色が正門前いっぱいに広がって。
拍手の中、肩で息をしながら、考える。
(志水くんの言ってた音色って、このことなのかな?)
自分の感情が、ダイレクトに楽器に伝わって。
楽器が笑ってくれるとき。
嬉しさが、態度になって表れて、私は周囲の人に、ぺこぺこと頭を下げる。
音色が消えるにつれ、拍手が止んで、人がまばらになる。
「よぉし。この調子でもう1曲頑張っちゃおうかな」
「……ったく。人寄せパンダみたいなことしてるヤツがいると思ったら、やっぱりお前か。
そこまでするならいっそ着ぐるみでも着たらどうだ?」
「うう……。そういうこと言う人は、やっぱり柚木先輩ですね」
背後から声がした、と思ったら、それは穏やかなテノールで。
他の人には聞こえないヴォリューム。
言っていることは辛辣なのに、どこか楽しんでいるような声音だ、と思うのは気のせいかな?
「なんだ。ひどく調子良さそうじゃないか。……生意気なくらいだな」
「はい! さっき、嬉しいことがあったんです。だから調子に乗っちゃいました」
思い出す。たった今までの拍手の渦。
私の作ったモノで、他の人が、あんな風に微笑んでくれるのなら。
……うん。音楽って素敵だよね。
月森くんや志水くんにはまだまだ及ばないけど、真剣に考えれば考えるほど、音楽を好きになる自分に気付くことができるんだもん。
「えっと、……先輩?」
柚木先輩は、あごに手を宛てて、なにか考え込んでいる。
なんだろう。
いつもは意地悪そうに私を見る視線が、地面に落ちているから、読み取れない。
目を伏せたことで、先輩の頬に長い影が差す。
睫、長いんだ、なんて、今更のように思ったり。
「おまえ、フォーレの子守歌は弾けるよな?」
「はい? 子守歌? えっと、……はい。なんとか……」
確か、第4セレクションに入ってから、何度か解釈練習をしたはず。
けど、コンクールで演奏する曲は別の曲にしようと考えていた。
フォーレ。約100年前のフランスの作曲家。
調性と旋法性の融合という点において、フォーレの和声には独自性が見られる、……だったっけ?
ちょっと前、志水くんに教えてもらった音楽史の中に書いてあったフレーズを思い出す。
フォーレの音楽には、人への理想や憧れといった温かいモノばかりが盛り込まれている気がする。
ヴァイオリンを構えるたびに、襟を正すようなきりっとした想いに包まれるから、 最近では自分の勝手な解釈で好んで弾いていた曲だった。
「ふぅん。上等だ。俺は次はそれを演奏する。同じ曲ならどっちの実力が上かはっきりわかるはずだからな」
「え? 同じ曲を違う楽器で演奏するんですか? フルートとヴァイオリンで?」
今回のコンクールの趣旨として、同じ曲を演奏しても、特に問題はないように思うけど。
……わざわざ同じ選曲をしなくてもいいような気もする。
柚木先輩はすんなりとした指で、風に乱れた私の髪をひとふさ持ち上げた。
そしてそのままくるりと、指に巻き付かせて。
髪の毛は、私の意志とは関係なしに先輩の弄ったとおりに形作られていく。
先輩は満足げにその髪を指で摘むと、私の顔を覗き込んだ。
「そう。お前に勝ったら、俺はすっきり音楽を辞められるだろう?」
「え……? 音楽をやめる? ……ど、どうして!?」
「芸術家であることより事業家であることが、俺の義務だからだよ」
「そんな……」
先輩は他人事のように、面白そうに言う。
「ウチは華道の宗家だが、それは上の兄貴が継ぐ。俺たちはうちがやってる事業を継ぐってわけ。良くできてるだろ?」
その『事業を継ぐ』人は、先輩自身なのに。
まるで、自分の人生じゃないみたいな、軽い言い方。
いいよ。先輩が、音楽を辞めることを望んでいて。
未来予想図が先輩ののぞみ通りになっているなら、それで。
── でも、……そうじゃない、でしょう?
先輩の気持ちがどこにあるのか知りたくて、私は先輩に目をこらす。
けど、そこからは何も読み取れない。
本当は、……本当は。
ああ、私が同級生だったら。
火原先輩みたいな、親友同士だったら。
絶対言ってる。そして引き留めてる。今、先輩がいる音楽の世界に。
目の前にある、フォーマルブラック色のタイと、タイピン。
いつも品良く、あるべき場所に納まっている。まるで私を威嚇してるみたい。
『音楽をやめないで』
その布を握りしめて言えたらいいのに。
ぼう然と黙りこくった私は、先輩からしてみたらすごく不機嫌そうに映ったんだろう。
柚木先輩は皮肉っぽく口の端を上げた。
「なに、お前。俺がお前の実力を認めたのが不満なの? お前なんて偶然で評価を得ただけだって言い続けて欲しいわけ?」
私はふるふると首を振る。違う。そうじゃない。
私の実力なんて、関係ないのに。
さらり、と私の髪の毛が柚木先輩の指から逃げた。
柚木先輩はつまらなそうに自分の指を見ると、そのまま私の頭に手を置く。
「まあ、お前が俺に勝ったら、俺は今までの無礼を全部詫びるよ」
「わ、詫びてくれなくてもいいです。そんなことする必要、ない……。それより、……そんなことよりっ!」
(オンガク ヲ ヤメナイデ)
何か言おうと口は開くのに、言葉にならない。
柚木先輩について、私はわからないことが多過ぎる。多過ぎて……、戸惑い続けてる。
「ふぅん。お前もなかなかエラそうなこと言うようになったね。この俺が詫びるって言ってるのに?」
「ごめんなさい。それはそうなんですけど。でも、そんなことより……」
「俺も忙しいんでね。続きはまた気が向いたとき聞いてやるよ」
「先輩 ──」
今思えば。
私がニブいだけで、柚木先輩は私に向けてなにかしらのシグナルを発し続けていたのかも知れない。
第4セレクションももう終わりに差し掛かって、ようやく気づきはじめた。
『音楽も……。思い出になる。コンクールの終わりが音楽との別れかな?』
『……お前に勝ったら、俺はすっきり音楽を辞められるだろう』
別れ、とか、辞める、とか。
そして、私に告げた、
『コンクールの間だけ』
という告白。
私にとっては寂しく響く言葉。しかもそれを告げる先輩の表情も沈んでいる。
どうしてかな? まだ、先輩の作る音はこんなにも周囲の想いを捉えて離さないのに。
そしてなにより。
── 先輩もまだ音楽が大好きなはずなのに。
1本道の途中。まだ先は細く長く続いている。先はまだ、見えない。
自分の好きなモノへ続いていく道。
そこで、どうして今。
ここまでだよ、って終わりの扉を閉ざそうとするのかなあ。
ぽつりと、頬を打つ感触。
「あ、雨!? わっ。ヴァイオリンが濡れちゃう!」
私は何かに背中を押されるようにして、ファータの前を走り抜けた。