今まで、恋にウツツを抜かす輩を白々しく見ていたし、俺を取り巻くわかりやすいオンナたちも、ただのアイテムとしてしか考えていなかったのに。
「柚木先輩!」
屈託のない笑顔と届く、邪気のない声。
俺の言うことを受け止めて、受け入れて、素直に響くヴァイオリンの音色。
こいつといると。
── 今まで軽蔑さえしていた、ごく普通のことがしたくなる。
こいつの前では、自分の全てをさらけ出すのが、却って心地良い。
その時間を増やしたくて。俺以外の誰にも取られたくなくて。
学校がない日まであいつをこうして連れ出している。
*...*...* Miss *...*...*
ベビーピンクのカットソー。白いふんわりとしたスカートが小走りに走るたび膝上で揺れる。
肩の上で跳ねる髪がこいつの嬉しそうな雰囲気を伝えてきていて、ついこっちまで甘い顔になる。
「はぁ……っ。間に合いましたよね? こんにちは!」
「遅いよ。お前」
「え? あ、今、ちょうどぴったりの時間ですよ?」
ほら、と赤いバンドの腕時計を見せる。
弦を持つようになってから、右手にはめるようになったの、と言っていた腕だ。
手首から指先にかけては薄い小麦色の肌を、手首から二の腕にかけては青ざめて見えるほど白い肌をしている。
外での練習の影響だろう。
人前で練習しろ、と俺が言ったことを、素直に受け入れ守っているところが、俺の気持ちをさらに加速させる、なんて。
目の前のこいつは、きっと考えもつかないのだろう。
「外で待ち合わせるときは、定刻前に着いておくものだよ。自宅に訪問する場合はその限りではないけどな」
「はい。次は気をつけますね!」
「……良い返事だな」
「そりゃあ、もう。先輩には鍛えられましたもん。……それで、どこへ行きますか?」
香穂子はまぶしそうに俺を見上げると、1歩前を歩き出した。
学院への送迎も、その他のどんな用事も。殆どの場合、車を使っていた。
けれど今日は、天気も良かったことも手伝って、俺は、いつも香穂子を乗せる曲がり角まで来ると、田中をそのまま自宅へと帰していた。
見て、感じたい、と。
素直にそう思える自分が不可解なくらいだ。
香穂子の肩の向こうに見える景色や、醸し出す空気。そんなものを見ていたくなる。
香穂子と並んで、歩く。
こんな中学生みたいなことがしたくなるなんてさ。── 全く、俗物だよな。俺も。
「先輩?」
何も言わない俺を案じたのか、香穂子は振り返って俺の顔を覗き込んだ。
「あ、ああ。行き先は駅前通り。多分お前の知らない店」
「わ、なんだろう……。フルートのお店ですか?」
「さあな」
「えっと、じゃあ……。紅茶のお店かな?」
「さあ」
「うう。当たらないと、なんかこう、気になるじゃないですかーー。
……あ、分かった。お香のお店かな? 茶香炉、気に入ってる、って言ってくれたことあったでしょう?」
「ハズレ」
そっけなく言ってやると、香穂子は雅みたいに口を尖らせて食ってかかってくる。
「もう。怒りました! 絶対お店に着くまでに当ててみせます!
えーっと、きっと柚木先輩なら、和風のものがお好きかな、って思うんですね。だから……。
呉服屋さん? 違うかなー。和食屋さん? なんだかこれも違いそう……」
香穂子は俺の隣りに並ぶと、目を空に向けてぶつぶつと独り言を言い始めた。
目の前の、好きなオンナが俺のことだけを考えている。
結構、悪くない図だね。── ああ、悪くない。
「私、柚木先輩の親衛隊さんくらいは先輩のこと知ってるつもりでいたのに……。親衛隊さんに弟子入りしなくちゃいけないかも」
「着いたよ」
「え? もう?」
感じよく色褪せた黒紅梅の暖簾が真っ白な漆喰に映えている。
経営しているのか否かわからないような、静かな佇まい。
杉でできた古い引き戸に手をやると、音もなく滑るように人が通る半間分の隙間ができる。
俺は香穂子の肩を押すと、そっと中に入るように促した。
「俺の行きたい店が分からなかった、ということで。── さて、今日はどうしようか。お前を」
「ま、待って下さい。先輩、お前が知らないお店、って言ってたでしょう? 分からないのは、仕方ないですよ、ね?」
俺は、背中側から香穂子の耳元に口を寄せた。
「……まだ日は高い。今日1日の間にたっぷり払ってもらうよ」
*...*...*
「……わぁ……。素敵……。格調高い、っていうのか……。どれも柚木先輩に似てますね」「は?」
「わ、えっと、品が良い、っていうか、……。素敵」
薄暗い店内に目が慣れるにつれ、香穂子はおそるおそる、といった風情で知らないうちに掴んでいた俺のシャツから手を離した。
「あ……っ」
そしてびくっと身体を揺らすと、銀鼠の壁を凝視している。
壁だと思っていたところに、単衣を着た品の良い店の老主人が立っていたからだ。
「いらっしゃいまし。梓馬さま。お待ちしておりました」
「ああ。なんとなく虫が知らせたものだから、お邪魔したよ」
初老の主人は、香穂子の姿を認めると一瞬目を見開いて。
それを包み隠すかのように、濁った目を床に落とした。
まあ、俺がここに誰か別の人間を連れてくるのは初めてのことだし?
実直真面目な主人が、驚きの表情を見せるのは、わからないでもない、か。
── 俺が店主なら、そんなわかりやすい顔は客に見せないだろうけどね。
「こ、今回入手した漆器はどれも、きっと梓馬さまにもお気に召していただける自信がございまして」
「ありがとう。適当に見せてもらうよ。香穂子、おいで」
「は、はい……」
見ると、香穂子は返事をするものの、どうやって脚を踏み出していいのか分からないらしい。
人1人が通れるほどのスペースはあるものの、足元から天井まで積み上げられている美術品の山を崩さないかと身を縮めている。
学院で会っているときより、目線の位置が高い。
足元を見て納得する。
服のデザインに合わせたのか香穂子はピンク色の華奢なヒールを履いている。
香穂子は、俺を見上げると照れくさそうに微笑んだ。
「背伸び、したかったんです。柚木先輩に会えるから」
「……馬鹿」
……全く。手に負えないね。
自分の気持ちも。
香穂子の、俺が誤解したくなるようなスキのありすぎる行動も。
狭い。しかも薄暗闇だ。店の主人も用があるのか、奥の部屋に入っていった。二人きり、だ。
── つまり。
俺がその気になれば、どんなことだってできてしまうだろうに。
「おいで」
俺は香穂子へ向かって手を伸ばす。
白い小さな手は、ほっとしたように俺に縋りついてきた。
ひんやりとした細い指が俺の指に絡む。
俺の隣り合う2本の指を5本の指で掴んで。
本当に不安だったんだろう。幼子みたいな真剣な力だ。
── この指からあの多彩な音が生まれて。消えて。
そして、音楽の別れと共に俺は、この指も手放さなくてはならないのか。
そろそろと二人、半暗闇の中を歩く。
突然、半畳くらいのスペースに辿り着いたと思ったら、日頃、店の主人がもっとも贔屓にしている品物を置いてある空間に出た。
みると違い棚の一角に、見事な意匠の漆器が置いてある。
それは恬淡とした書き味が却って品の良さを引き立てている、といった絶妙なモノで。
光線の加減も工夫してあるせいだが、この場だけ、特別な空気が醸し出されていた。
あまり造詣の深くない香穂子にも、この作品たちは何かを訴えるものがあったのだろう。
一言も発しないで、2つの作品を見つめている。
「紅葉と薄、か。お前なら、どちらを選ぶ?」
「難しい、です……。私、漆器なんてこうやってじっくり見るの、初めてなんですけど。……吸い込まれそう、って思いました」
「そう」
「どっちもすごく秋らしいと思いませんか? 色は全く違うのに。……不思議です」
「確かに甲乙付けがたいな」
繋がれたままの指から、じわりと暖かい気持ちが流れ込んでくる
白露の季節。中秋の名月を水面に映すのに、相応しい漆器かもしれない。
コンクールもとうに終わったそのころ、俺は一体どうしているのか……。
「ま、こういうのは巡り合わせだ。機は逃さないようにしないと。両方包んでもらうか」
「はい。どちらも素敵だと思います」
俺は店の老主人を呼ぶと、購入する旨を伝えて香穂子と二人、玄関の方へ向かった。
「先輩……」
「なに?」
「あの……。ありがとうございます。連れてきてくれて。本当に、私の行ったことのないお店でした。
素敵だな、って思うものがいっぱいあって……。嬉しかったです」
そう言って、香穂子はぺこりと頭を下げた。
こういう香穂子の礼儀正しさをいつも好ましく思ってはいた。
── けれど、ね。
今日はそのこと以上に、もっと大切なことがある。
「香穂子。どうして俺がお前をここに連れてきたかわかる?」
「え?」
ちゃんとわかってないかもしれない、と俺は頭の中でため息をついた。
妙なところで鋭いクセに、妙なところでニブいこいつのことだからな。
お前の実力を認めて。お前の努力を見てきて。
── お前なら、俺の代わりになって、俺以上に、音楽を愛してくれると思ったから、こうしたんだ、ってこと。
ちゃんと、伝たえておきたいしね。
「…・…良いものは心の滋養だからだよ。何でもいい、お前が綺麗だなと思うものを見る習慣をつけるといい」
「先輩?」
「見て、聞いて、感じて。そのときの恍惚感をお前の音に反映させろ。
そうすることでお前の音楽には幅が出るはずだ。音楽は芸術の一部なんだから」
「はい」
香穂子は音楽の話になると、姿勢を正して聞き入るというクセがある。
この時も例外ではなく。
まるで音楽とは関係ない今日の行き先が終盤にきて、音楽と関連付いていたことを悟って。
香穂子の表情にはいつもの放課後のようなピンとしたものが流れ出した。
クセ? なのか、どうかよくわからない、か。
俺がこの2ヶ月、厳しくこいつを躾けてしまったのかもしれない。俺の、お祖母さまのように。
「梓馬さま。お待たせいたしました。ただいまお持ちいたしました」
「ありがとう。またよろしく頼むよ」
「はい。是非に」
背中越しの引き戸が閉まる。
外は、たった今までのことが白昼夢のような上天気に恵まれていた。
香穂子はまぶしそうに空を見上げると、大きく息を吐いた。
そののびやかな表情を見ていると、ああいうところに連れて行くのは少し早かったかという気がしてくる。
……もっと、そうだな。
火原が喜んで行きそうな、わかりやすい場所の方が、ね。
香穂子は俺の隣りを歩きながら、そんな俺の屈託にはお構いなしに笑いかけてきた。
「結局2つとも、買っちゃいましたね」
「迷うくらいならどっちも、と言う考え方、俺はすごく好きだね。
迷って思考が止まるのを許されるほど、人間は自由な時間が多いわけじゃないだろ?」
「先輩……」
ふいに、左手に引き寄せる力を感じる。
「……先輩は、迷わないの?」
珍しいこともある。
日頃、俺から香穂子に触れることは頻繁にあったが、香穂子から俺に触れることは1度もなかった。
それが俺の中で、微かな しこりになっていたこともあった、のに。
左下を振り返ると、ヒール分だけ少し背の高くなった香穂子が、泣きそうな顔をして見つめている。
「だって、先輩は今までも、きっとこれからも音楽が好きでしょう?
事業家と芸術家……。先輩の場合は音楽ですね。2つともどっちも選ぶ、っていう選択肢はないのかな……」
「香穂子」
「だって、先輩が言ったんだもん。『迷うならどっちも』って。そういう考えが好きだって」
こくん、と白い首が揺れる。
「……ずっと言えたらいいって思ってた。先輩はずるい。まだ、音楽が好きなのに。好きでたまらないのに。
どこかで歯止めをかけてるみたい。これ以上はダメ、って。……どうしてなんだろう、って……。
私のこともそう。……柚木先輩に、嫌われてるのか、好かれてるのか、わからない。
先輩に甘えたくなって、ちょっと先輩の中に踏み込むと、言われちゃう。入ってきてはダメだ、って。
だから……。だから、私は、余計に、柚木先輩が……っ!」
抑えていたモノがあふれ出たように香穂子は話し続ける。
顔が熱を帯びたように赤らんでいる。目に力がこもっていると思ったのは、涙のせい。
それははらはらと滑らかな頬の上を流れて。一筋、あごを伝って地面へと零れる。
多分、……いや、かなり。
こいつはこいつなりにいろいろ考えて、悩んだのだろう。
悩んで、苦しんで。けれど、俺の性格のこともあるから誰にも言えずに。
頭に、か、胸に、か。チクリ、と今まで感じたことのない痛みが走る。
自虐的な痛み。それと香穂子の痛み。
好きな女を泣かすなんて、俺も最低だね。
俺は香穂子の頭に手を伸ばす。
言い過ぎたと思っているのか、怯えたように肩を震わす香穂子をそのまま自分の胸に押しつけた。
香穂子はこうなるとは想像していなかったのか、一瞬身体を固くしたものの、そのまま素直に身体を預けてきた。
「やめないで、ください……」
1人でも、俺の音楽を愛してくれるヤツがいる。
だったら。そうなら……。
もしかしたら、俺も音楽を諦めなくても良いのかもしれない。
どんな形にしても音楽と共にいることはできるはずだ。
何事も完璧を求めるのではなく、自分のペースで接していくことができれば、それで……。
そして。
今の自分には無用なプライドも良心も。
── 全て取り去ってしまえれば。
どれだけの間、そうしていただろう。
時折通りかかる人間が無遠慮に俺たちをじろじろと眺めていったが、そんなことはどうでも良かった。
こいつと、音楽と。
俺は、もうこの2つのものを手放すことはできないだろうから。
「……ごめんなさい。言い過ぎ、ました……」
俺の胸の中、でぽっかりと顔を上げた香穂子に言う。
こういうところが、意地悪だと言われる所以だと思うけど。
── まあ、仕方ない。
これから長い付き合いになるんだ。こいつに慣れていってもらうしかないし?
「お前、さっきなんて言おうとしたの?」
「え?」
「『だから、私は、余計に、柚木先輩が』……その後の言葉が聞きたいね」