俺はいつも俺自身が割り当てられている役割を笑顔で締めくくると、正門前から音色の聞こえる方角へと向かった。
── 終わった、な。
約3ヶ月に満たなかった、学内コンクール。
暦の長さと想いの深さは必ずしも正比例しなくて。
充実した日々はたった1週間くらいのことにも思えるし、この間起きたいろいろな出来事は、学院生活の想い出の大半を占めるんじゃないかとも感じる。
(香穂子……)
薄い水色の羽を幾重にも重ねたような空。
天空から弾むような音色が聴こえる。
── まるで、あいつ自身が俺の目の前で演奏しているような錯覚。
はっきりと聴こえる。伝わってくる。
そして。
俺自身がどうあるべきかも、導いてくれる。
そういう音楽に出会えたこと、お前に出会えたこと。
……いつ言おうかと、思っていた。
コンクールが終わった今なら、きっと言える。お前に伝えられる。
*...*...* Dearest 2 *...*...*
「柚木。お疲れ! これから3Bのみんなが打ち上げをしてくれる、っていうから、柚木も行かない?」音の鳴る方向につられるようにして、階段を昇っていると、背後から聞き慣れた声が話しかけてきた。
まだコンクールの余韻が残る、昂揚した顔。跳ねた髪。
いつもとは違う髪型に、どこか火原らしい屈託のなさを感じる。
「ああ。そうだね。火原。ちょっと用を足してから後で合流するよ」
何気ない振りを装いながら、俺は火原の顔を見上げた。
「ん? どうしたの? 柚木」
「いや、何でもないよ」
どうやら、火原にはこの音が届いていない……?
以前からヴァイオリンロマンスなどというくだらない言い伝えを、近くの女たちはうっとりとした表情を浮かべて話していたものだけど。
俺には、これほどはっきりと響いてくる音色が火原には伝わっていない、ということは。
── これは、やっぱり。音楽が起こそうとしている奇跡なのだろうか。
「了解、っと。じゃあ、あとで場所をメールするよ」
「ありがとう」
俺は歩き慣れた屋上へ続く階段を昇りながら考える。
香穂子が、俺を?
まさか、そんな……な。
そんな俺自身の勝手な想いに呆れる。
酷いことを言った。あいつの気持ちも考えずに、自分本位の行動を取った。
挙げ句におもちゃだと言って。
コンクールが終わるまでの付き合いだとも、本人に言い切った。
── 俺本位のわがままな行動に、あいつはどれだけ傷ついただろう?
傷ついて。それでも自分の力で、立ち上がって。
それ以上に俺が聞き逃せない程の深みのある音を携えて、戻ってきて。
今も、なお。
俺の中には、最終セレクションであいつが弾いたフォーレの子守歌が流れ続けている。
優しい演奏だった、と思う。
その事実を何よりも証明したのが、観客の反応だ。
元々、普通科のあいつが最終セレクションまで上位に食い込むなんて誰も予想していなかった。
だから、香穂子の演奏が始まる前には全生徒が、単なる興味だけで会場に臨んでいたと思う。
普通科がどこまで音楽科に食い込むか、なんて、な。
演奏する曲『子守歌』に雰囲気を合わせたのだろう。
最終セレクションは柔らかな木目に映える、コバルトブルーのドレスを着て、香穂子は舞台に現れた。
コンクール参加者のささやかなメリット、ということで、俺たちは最前列の客席で、演奏者の細部を見ることができる。
熱に浮かされたような朱い顔。
透き通るような二の腕と、胸元。
微かに震えている指先は、よく、弦を落とさなかったと思うほど。
香穂子の目は俺を認めると、微笑もうとして。
微笑み切れないまま、緊張を隠すように口元を引き締めた。
……全く。こういうときの気持ちはなんて言うんだろうね。
香穂子がもし、俺に勝ったら。
俺は、潔く謝罪し、許しを請おう。
俺がもし、勝ったら。
やっぱり、ここまで頑張ってきた香穂子に、ねぎらいの言葉、1つでも告げてやりたい。
── 例えそれが、いつも通りの皮肉に包まれていた、としてもだ。
そう思いながら聴いた香穂子の奏でる『子守歌』は、今まで俺が聴いたどの音色よりも冴え渡って、講堂中を駆けめぐった。
全生徒が、香穂子の音色の中に流れる自分たちが惹かれるモノ、というのを探そうとして。
その答えが見いだせないまま、楽曲は観客を巻き込んでいく。
奏でていることを、楽しんでいる。聴いてもらって、喜んでる。
喜びが連鎖して、聴衆全員が酔っている。── そんな曲。
技巧も完璧に、鮮やかに、耳を打つ。
勝ち負けを意識している自分が、その時点で既に敗北していることを知らしめる音色。
そんな記憶の音に重なるようにして続く、『愛の挨拶』
これは、俺がお前に抱いていた気持ちを、お前も持っている、と解釈してもいいのだろうか──。
柔らかな木漏れ日のような光が差し込む踊り場で、俺は脚を止めた。
屋上へ続くドア。音色へと向かうドア。
時を越えて、お前を愛せるのか。
本当にお前を、守れるのか。
俺は軽く息を吐く。
お前のために、今、何が出来るか。
*...*...*
「……香穂子」「はははい!?」
ドアの開閉の音で、目の前の普通科の夏服は驚いたように、弓を降ろして。
今、俺がここにいるのが信じられないかのように言葉を失っている。
「なに、ふやけた顔してるの? お前」
「どうして、ここに? あれ? 聴こえました? この曲……」
想いが伝わり合った者同士の間だけに聴こえるという、メロディ。
戸惑いを隠しきれないような顔。
香穂子は、俺が言った『コンクールの間だけ』という言葉に囚われている。
── そうだね。もちろん、俺もそのつもりだったさ。
俺は柚木の家が引いたレールを、迷うことなく進むつもりだった。
別に女なんてどれも同じだと思っていたし?
諦めることは慣れていたから。
だけど、ね。
お前、そんな俺の中に、どんどん切り込んできたよな。
そして俺の考えを根底から覆して。
俺を取り囲むしがらみは、ただの悪夢で。
実は、これから、なんの屈託もない時間が待ってるんじゃないか、と思わせてくれただろう?
だから、お前のせいだ。俺がこんな風に言うのは。
雨降り。うっとうしい時期。自分の生まれたこの季節を愛せない。
『私は好きですよ。この雨降りの季節』
周囲の大多数の賛同が大切で、1人1人の価値なんて考えたことがなかった。
『柚木先輩にわかってもらえれば、いいです』
恋なんて自己満足に過ぎない。勝手に自分で自分のことを愛でているのさ。
『私の中の好きって気持ちが消えない間は、信じたいですね。恋は必ず実る、って』
香穂子の告げた言葉は、今も変わらず、鮮やかに、俺の中にある。
引き込まれて、惹かれて。引き戻せなく、なりそうな、予感。
「お前は、どうして芸術の分野がこれほどまでに進歩したか知ってる?」
「え? えーっと、どうしてだろう……」
突拍子もない俺の質問に、香穂子はまばたきをして。
俺に、何かイヤミの1つでも言われるんじゃないかと、少しだけ身構えている。
そんな様子さえも可愛くて。
── 愛しさが溢れてくる。
どうして、こいつは……。
こんなにも俺の中に入ってくるんだ?
そう考えて、苦笑する。
好意という感情は、音楽と一緒の、感覚的なモノで。
── 理屈、じゃないのかもしれない。
普通科の、ごく普通の女の子。
コンクール参加者じゃなかったら、多分、交差することない道を歩いていた女の子。
でも、今は。
俺が数あるヴァイオリンの音色の中から、香穂子の音色が聞き分けられるように、
きっとお前の存在はどこにいても、俺からは分かる。必ず、見つけ出せる。
俺は、壁に背中をつけると、再び香穂子を見つめた。
「……言葉では伝えきれない想いを伝えるため、だってさ」
お前の気持ちが、俺に向かっているなら。
── もう1度、弾けるだろう?
そして今度こそ、教えてくれるはずだ。お前の本当の気持ちを。
「今の曲、もう1度、聴かせて?」
「は、はい!」
香穂子は弾かれたようにして弓を構える。
ヴァイオリン本体には金色のE弦が輝いている。
「先輩。……行きます」
飾り気のない、素朴な音色。
素直で、どんな色にも染まっていない、透明な音が屋上中に響き渡る。
── ちょっと、妬けるね。
多分、そう遠くない未来。
たくさんの観衆がこいつの周囲を取り囲むのが見える。
歓声と拍手に、いつまで経っても慣れなくて。
演奏が済んだあと、照れたような、はにかむような、笑顔さえも。
ずっと、近くで見ていてやりたい。
香穂子と音楽を、身近に感じていられたら、いい。
「……Bravo」
「あ、ありがとうございます。先輩、ありがとう……」
ヴァイオリンは雄弁なのに、聞こえてくる香穂子の声は、涙で震えておそろしく小さい。
── さて、どうするか。
今、ここでこいつを抱き寄せてしまうことはひどく簡単だけど。
今日はコンクールで、こいつなりに気も遣っただろうし。
俺も、1度触れたら抑えが効かなくなりそうだしね。
俺は温かい気持ちで香穂子に告げる。
「続きは車の中で聞いてやる。ほら、早くついてこい」
コンクールが終わっても。
音楽が、俺たちの間の架け橋とならなくなっても。
── お前、ずっと俺のそばにいてくれるだろ?