*...*...* Dearest *...*...*
なんだろう。この気持ちはなんて言うんだろう?身体中が浮き立っていく。私の身体のうぶ毛が1本1本羽化していく。そんな感じ。
わからない。だって私の人生の中でこんな瞬間、1度もなかったもん。
湧き上がるような拍手の渦。
止めようとしても止まらなくて、金澤先生は、困ったように頭をかいてる。
「アンコールってーのはこのコンクールにないのっ。特例? そんなもんないない。ほれ、もうやめろ」
私は伴奏をしてくれた森さんに目配せすると、肩からそっとヴァイオリンを降ろした。
── 全部、終わった……。
降ろして。ほっと、息をついて。却って緊張が増している。
今までヴァイオリンが私の緊張を吸い取ってくれてたんだ。なんて今更ながら思ったり。
あ、脚がガクガクしてる。袖まで歩けるかな、私……。
今日私が演奏した曲はフォーレの子守歌だった。
同じ曲で勝負しよう、と言われて。
── 柚木先輩に。
私、思ったんだ。
もし、私が、最終セレクションで柚木先輩に勝てば。
そうしたら、もしかしたら、柚木先輩は音楽の世界にとどまってくれるんじゃないか、って。
大学は事業家さんになるための進路でも。
ずっと先輩の身近に、音楽を持ち続けてくれるんじゃないか、って。
勝手な甘い期待が浮かんでくるのを、止めることができなかった。
そんな安易な約束を、1度も先輩が言ったワケでもないのに。
再び一礼をして、顔を上げる。
また起きる、大きな波。
そこには、優しい顔をして拍手を送る柚木先輩の姿があって。
いつもの周囲の女の子に見せる貴公子然とした顔でもなく、かといって、私に向ける意地悪な笑みでもなく。
それは先輩が、心の底から音楽を愛してるんだ、と感じることができる暖かい笑顔だったから、私は目が離せない。
(頑張りましたよー。私)
小さく、口を開いて、告げる。
私ね、大好きになったんですよ? ヴァイオリンも、音楽も。
そして、セレクションが進むにつれて、好きなものが増えてきて。
高2の春の放課後。
ヴァイオリンと音楽の中に、先輩がしなやかに入り込んできたから。
初めは、ウワサ通りの、なんて優しい先輩だろうって思った。
先輩、学院内の有名人だから、私、顔と名前は知っていて。
いろいろ気を遣ってくれて。ああ、この人のこの優しさは本当なんだ、って信じてて。
初めて先輩の本音を知ったときは、怖かった。錯覚かと思った。夢ならいい、って願ったりもした。
けれど。
先輩が私にそういう態度を見せれば見せるほど、……なんていうのかな……。
先輩が寂しそうに見えたっけ。
それから、かな?
先輩のわかりにくい優しさをわかりたいと思って。
辛辣な嫌味の中に隠れてる、適切なアドバイスを見つけて、1人で勝手に盛り上がってた。
音色が変わったとリリに冷やかされて。1人で照れたり、納得したり。
そんな頃に言われた。
『お前と俺は、コンクールの間だけの関係だ』
という言葉。
目が覚める思いだったの。自分の独りよがりを恥ずかしく感じたりもして。
月森君に紹介してもらった、誰もいない楽器店の個室で、自分が空っぽになるほど練習して。
あの3日間の練習で、私、E弦を4本も切っちゃったんだ、ってあとで月森君に告げたら。
呆れたような顔をして黙りこくられちゃったこともあったっけ。
そのとき、ひらめくように悟った。
柚木先輩への想いはコンクールの間だけでいい、って。
それで、充分。
これ以上、先輩になにを望むことがあるだろう、って。
いっぱい、先輩の気持ちも、思い出も。
合奏も一緒にたくさんしてもらったから、フルートの音色も、もらえたから。
それに。
こんな短い間のことでも、賢い先輩のことだから、私のこと、覚えててくれるでしょう?
柚木先輩の唇が何か言っている。あれ、なんだろう。先輩の長い髪に隠れて良く見えない。
『先輩……?』
『香穂子』
2人のときだけに私を呼ぶ声。
……どうして?
私たち、今、2人きりじゃない。
今、先輩の周りには、コンクール参加者をはじめ、いっぱい人がいるのに。
目を凝らして彼を見る。
そのとき、拍手にかき消されて聞こえない声を、私は聞いた。
『頑張ったよ、お前』
*...*...*
「今度はお前が奇跡を起こす番なのだ〜〜。楽譜は渡してあるだろう? あれをさっさと奏でるのだ!」「リリ……。ありがと。気持ちだけで嬉しいよ」
「日野香穂子!」
「あ、冬海ちゃんとお着替えするから、ちょっと外に出ててね。
って、そう言えば、リリって女の子? 男の子? 『我が輩』って性別不明だよねえ」
「そ、それはっ。わ、我が輩は……っ」
「行こう? 冬海ちゃん」
私はバタバタと手足を動かしているリリをドアの前にそっと押しとどめると、冬海ちゃんと一緒に楽屋内に入った。
「香穂子先輩、お疲れ様でした。……あっ、それより……。優勝、おめでとうございます。
最後の演奏、心に染みるような、素敵な音色でした。ありがとうございました」
「ありがとう……。って、どうして? どうして冬海ちゃん、泣くかなあ!?」
「ご、ごめんなさい。香穂子先輩。でも、わたし……」
冬海ちゃんはクラリネットをぎゅっと胸に抱いて涙ぐんでいる。
「んもう、冬海ちゃんは可愛いんだからー。よしよし」
私はずれかけている彼女のヘッドドレスを取り外すと、少し下にある頭を撫でた。
……うう、冬海ちゃんってなんて可愛いんだろう。
ふんわりとした柔らかそうな頬。すがるような瞳。
初めは少しだけ取っつきにくかったけど、こうして最終セレクションまできて、その態度は彼女の持ち味なんだなあ、と思えるほど親しくなれて。
柔らかい髪の毛を撫でるくらい、近づけて。
私もイジワルばっかり言うお姉ちゃんより、こういう妹が欲しかったかも。
「今日は疲れてるだろうからなんだけど、また、今度遊びに行こうね。天羽ちゃんも誘って」
「え? いいんですか……? はい、是非!」
「うん! もちろん!」
私たちは手早く衣装を脱ぐと、夏用の制服に手を通す。
第1セレクションの時は、まだ冬服だったのに。── ホント、早かったよね。3ヶ月。
ヴァイオリンのことしか、覚えてない。
授業なんて何やってたんだろう、って考えて苦笑する。
今日くらいは期末テストのことなんて忘れてもいいよね。
── と、いうか……。
えっと、待って?
明日から、私、放課後、何するんだろう……?
ヴァイオリンと、柚木先輩と。
今まで当然のように会えていた人や楽器に会えなくなったら、……どうやって時間をやり過ごしていくんだろう。
うう、マズい、かも……。ずぶっと足元から落ち込んできた気がする。
か、帰ろう。
泣くのも、浸るのも、自宅に帰ってから、目いっぱい、できるはず。
「あ、あの! じゃあ私、帰るね! 冬海ちゃん、お疲れさまっ」
「はい。香穂子先輩も、お疲れさまでした」
「ごめんね。お先にーー。……ったっ!!」
「おおっ!!」
思い切りの笑顔を冬海ちゃんに向けて、確かに、ドアを開けた向こうがどうなってるか、なんて確認してなかったけど。
ドアの向こうにいたのは、怒りで気忙しいそうに羽根を揺すっているリリだった。
リリは顔を赤くして早口で言い募る。
「日野香穂子! 我が輩は諦めないのだ! 絶対絶対、お前に『愛のあいさつ』を弾かせるのだ!」
「リリ……。んー。なんて言ったらいいのかなあ……」
「日野香穂子。屋上に行くのだ〜!」
「あのね。……弾いても、仕方がないの。気持ちはね、届かないの。初めからゴールは分かってるの」
私はなだめるように、リリの小さな頭をゆっくりと撫でる。
「第4セレクションの最初の方かな? 言われたの、柚木先輩に。
『コンクールの間だけ、僕のことを好きでいて』って、はっきり。
だから、ヴァイオリンロマンスは起きないんだよ?」
「な、なんと……っ」
リリはこのことを全く知らなかったのだろう。
口をぱくぱくとさせて言葉が出てこないみたい。
「ん……。辛かったけどね。納得させたの。自分を。── 必死だったんだよ〜。これでも」
笑いながら言う。言える自分を褒めてあげたい気分。
つぼみのままの想い。
いつか、花が咲いて、愛でてくれる人がいる、って思ってた。つぼみのまま枯れるなんて思いもしないで。
わ……。自分で失恋の経緯を説明してたら、視界が潤んできたのが分かる。
……泣きそう。
やっぱりセレクションということで、自分では自覚がないけど、かなり神経が疲れてるのかも……。
柚木先輩……。
私、いつか、先輩のこと、遠い思い出だって忘れることができるのかな。
「わ、泣くな、泣くなーー。日野香穂子!」
「リ、リリが泣かしたんだもん!」
「じゃあ、提案だ! 我が輩が渡したあの楽譜、我が輩のために弾いて欲しい」
「……え? リリのため?」
「そうなのだ! 我が輩はお前の努力が見たいのだ。ヴァイオリンを愛している姿が見たいのだ。頼む。頼まれてくれ!」
「リリ……」
手にしたヴァイオリンケースが熱くなる。
そっか。明日からこうやって、応援してくれる人もリクエストしてくれる人もなくなるんだっけ。
そもそも、ヴァイオリンを練習する理由、がないんだもの。
「ん。最後に1曲、リリにプレゼントするね」
リリを肩に乗せて、廊下を歩き出す。
するとリリはほっとした顔を見せて。
「頼んだぞ、日野香穂子!」
あっという間に姿を消して、私を励ます温かい声だけが響いてきた。
*...*...*
「えーっと。初見で弾けるのかな、これ……。あ、割と簡単かも」屋上。
私はお気に入りのペーパーウェイトで楽譜を抑えると、音符を指で辿っていった。
愛妻家のエルガーが、生涯愛し続けた妻に対して贈った曲。
明るいテンポの愛らしいフレーズ。
ケースを開けると、高級ヴァイオリンが澄ました顔でこちらを見返してくる。
ふふ、魔法のヴァイオリンも、リリも、そして柚木先輩もなくなっちゃったけど。
こうして、キミだけはここにいてくれるんだ。
わくわくしながら、調弦する。
この行程、好きなんだよね。今日はどんな音を聴かせてくれるだろう、っていろいろ期待できるから。
── あ、そっか……。
残ったのは、高級ヴァイオリンだけじゃない。
音楽を好きになった、私が残った。
この、高級ヴァイオリンと、私が、残った。
うん。それだけで、ブラボーかも。
弓を引いて、ゆっくりと音を引き出す。
優しい音色は、薄い水色の羽を重ねたような空に吸い込まれていく。
── 気持ち、いい……。
思えば、コンクールのことばっかり、頭にあって、ここ最近は自分のために弾くことなんてなかったっけ。
私は誰もいないのを良いことに、自分の音を奏で始めた。
自分の気持ちのままに。自分の心地良い早さで。納得する強さで。
(リリ、聴こえてる?)
緩急を付ける。自分らしい色を乗せる。
背筋を伸ばして。
綺麗なモノを見たときの心の揺れを表現して。
こうして、先輩に言われたこと、全部、1つ1つ、音楽に反映させていければ、いい。
そうしたら。
それが、これからの私の力になる。
今が続いて、あとで振り返ったとき、今を笑って思い出すために。
私は、ここにいるのだから ──。
「……香穂子」
「はははい!?」
私を下の名前で呼ぶ人はいっぱいいる。コンクール参加者さんの中にも。
けど……。
どこか皮肉げなクセに、どこか淋しそうで、それでいて温かいこの声。
こんないろんな色を持つ声を、私は知らない。
いつも、この声に支えられてきた。── どんなときも。
「先輩……」
「なに、ふやけた顔してるの? お前」
「どうして、ここに? あれ? 聴こえました? この曲……」
目の前の人は、珍しく少年のように頬を染めている。
「お前は、どうして芸術の分野がこれほどまでに進歩したか知ってる?」
「え? えーっと、どうしてだろう……」
いつもなら口ごもる私に、1つくらい嫌味が飛んでくるはずなのに。
目の前の人はそんな私を愛おしそうに見つめてるだけ、で。
視線が飛んできたところが、少しずつ熱を増す。
「……言葉では伝えきれない想いを伝えるため、だってさ」
「はい……」
「今の曲、もう1度、聴かせて?」
だけど。でも。だって。
日頃私が好んで使わない言葉の羅列が浮かんでくる。
混乱、する。
「早く」
「は、はい!」
ワケが分からないまま、私はもう一度弦を構える。
リリからもらった金色のE弦を張ったヴァイオリンを。
雲の切れ間からこぼれる、幾筋もの光。それを全部、結んで、集めて。
輝く予感にして。