「はい?」
金澤先生は無精ヒゲの生えたあごを撫でると、言いにくそうに口を開く。
「お前さんに校長センセから本格的な話が来てるぞ。……音楽科に編入しないか、ってさ」
「わ、私がですか?」
「ま。俺としては、お前さんの音楽を独り占めできなくなる、というわけだ。……どうする? ん?」
*...*...* Breath *...*...*
全てのコンクールが終了した後も、私の放課後はコンクールの最中とあまり変化がなかった。練習も1日休みを取っただけで、あとは、コンクール中と同じ時間の過ごし方をしている。
むしろ、リリと初めて出会った時の方が、変化が大きかったなあ。
初めてのヴァイオリン。
初めて出会う人たち。
それにリリ。リリが率いるラーメやファータ。
ふわふわと飛び交う可愛いコと、周囲のコに気付かれないように小声で話したりするのは結構スリリングだったっけ。
魔法のヴァイオリンに対する確執や、魔法がかかっていてもなお、上手く弾けない自分へのいらだち。
コンクールの真っ最中は、目の前の山はどうしてこんなに険しいんだろう、って思ってた。
けど、過ぎちゃえば。
苦しかった息継ぎも、痛くてたまらなかった筋肉痛も、全部、笑い話になってる気がする。
SHRが終わって、活気に満ちた顔をしてみんなそれぞれの場所へ散っていくとき、仲の良いユミちゃんが話しかけてきた。
「香ー穂。今日くらい、パァっとお茶しにいかない? 駅前通りに可愛い喫茶店がオープンしたって」
「うん。天羽ちゃんから聞いたよ〜。ワッフルがイチオシなんでしょ?」
「そうそう。オープン価格で今日は半額だしさ。行かない?」
「う、行きたい……」
ケーキとかアイスクリーム。見た目が可愛くて甘いお菓子は、私の大好物で。
オープンしたてのワッフル屋さん、って、どんな感じだろう?
あ、お姉ちゃんにお土産って言って買っていってあげたら喜ぶだろうな……。
そうつぶやきながらも、私の手にはヴァイオリンケースが握られている。
私が練習しなくても、このコはきっと何も言わないけど。けど、言えない分だけ、寂しい思いしてると思うんだよね。
行きたいけど、弾きたい。
まだ私がコンクールの魔法の取り憑かれている間は……。ううん、これからもずっと、弾き続けたい。
けど、ワッフルかぁ……。こっちもたまらなく魅力的だよね。
「どうする? 香穂」
「んーー」
ぐずぐずと煮え切らない私の背にふわりとオトナっぽい香水が漂ってくる、と思ったら、長身の天羽ちゃんが背後から私を抱え込んでいた。
背中にコツンと当たるのは、天羽ちゃん愛用の小型マイク。ちょ、ちょっと痛い、かも。
「ダメだよ〜。普通科から音楽科へ切り込もう、っていう人間をワッフルで釣っちゃあ」
「天羽ちゃん!」
今日の昼休み、私も金澤先生から聞いたばかりの話を、天羽ちゃんは知っているのが当然と言った感じでクラスメイトに告白している。
「え? ホント? 香穂!」
「えーっと、まだ、返事はしてないんだけど、多分……」
「香穂! おめでとう、おめでとう! すごいよーー!!」
もごもごとつぶやく私に、ユミちゃんは私の手を取ってぶんぶんと振り上げた。
── 私以上に喜んでくれてる、みたい……。
不思議。嬉しいっていう気持ちは、連鎖するんだ。
それは、自分のところに戻ってくると、その大きさは倍じゃきかない。
もっともっと大きく、豊かになって。その気持ちは目の前の親友にも連鎖する。
(あなた が すき だよ)
えへへ。嬉しい、かも……。
でも、待って。ええと、ええと……っ。
よく分かってなかったけど、普通科から音楽科へ転科する、ってそんなにすごいことなの?
「なに、香穂、そんな顔して。もっと喜んで! 香穂の最終セレクションの曲、良かったもんねー。じゃあ、今は頑張り時、かな? ヘンなとき誘っちゃったかもね」
「うん。ごめんね。私、もう少し、頑張ってみる!」
「よし。その調子だよ、香穂」
「ありがと! じゃあ、私、練習してくるね!」
大好きな親友に手を振って。
天気の良いことを理由に、私は、ヴァイオリンケースとカバンを持って、音楽科棟へと向かう。
コンクール中、お世話になった屋上へと脚を進める。
*...*...*
「ふぅ、暑いなー」私はこつこつと屋上へ続く古めかしい木目の階段を昇った。
そっか。コンクール開催中は春だったから、あまり暑い、とは思わなかったけど。
こんなにさんさんと日が照ってる夏は、日焼けの心配をしなくちゃいけない。
サンタン、っていうのかな。綺麗に美味しそうに日焼けしてるコを見ると羨ましくなっちゃう。
私の場合、日に当たると赤くヤケドをしたように皮膚が悲鳴を上げて、そのまま元のぼんやりとした色に戻るだけなんだもん。
「よし。ワッフルの分も頑張ろ」
頑張って。もっともっとヴァイオリンのスキル、身につけて。
そして。
あの人に褒めてもらうんだ。『── 上手くなったな』って。
なんて、ね。もしかしたらそんな風には言ってくれないかもしれない。皮肉屋さんだから。
『何も言わないで、そばにいてくれ』
最終セレクションが終わって。
リリに言われるがままに、屋上で『愛の挨拶』を演奏して。そのときに言われた言葉。
請われるがままに何度かこの曲を奏でて。
── 思ってたこと。
(これが、ヴァイオリンロマンス、なの?)
想いが通じ合った者同士だけが聴くことのできる曲。
確かに柚木先輩は私の奏でる音を聞き分けて、屋上まで来てくれた。
それから1週間というもの、ずっと、変わりなく柚木先輩と学院の行き来を共にして。
たまに練習しているとき、なんらかのアドバイスはくれる、けど。
『3年も半ばになると、進路に向き合わなきゃいけなくなるからさ』
以前からそう言ってたとおり、コンクールが終わってからというもの、がくんと柚木先輩がフルートを構える姿は見かけなくなった。
── この、空っぽの気持ちを、なんて言うんだろう。
今まで。
頑張った成果が音に反映させられれば嬉しかった。
柚木先輩が聴いてくれたら、どんな風に言ってくれるかな、って想像するのが楽しかった。
上手くなればなるほど、先輩に近づけるって思ってた。
近づいて。触れられて。恥ずかしくてたまらないのに、喜んでいる自分がいた。
けど。
柚木先輩が家庭の事情で、経済か経営といった、音楽とは関係ない大学に進学するとしたら……。
私と先輩を結びつけていた唯一のモノ。
それが、なくなっちゃっても、私……。
先輩のそばにいること、できるのかな。
「ん……。どうなんだろう」
4本全ての調弦を済まして、相棒を肩に乗せる。
そもそも、
『そばにいてくれ』
って言われた、だけ。
そう、そうなんだよね。それ以上でもそれ以下でもなくて。
柚木先輩からしてみたら わりと面白いおもちゃを手に入れた、って程度の感覚なのかも。
うう、もしそうだとしたら、私のこの『付き合ってる、かも』っていう、勘違い系の考えは悲しすぎる!
「やれやれ。ヴァイオリン構えて、空想にふけってるなんて、お前も偉くなったね」
「……うきゃあ!!」
私ったら本当にどうかしてる。
廊下から屋上へ続くこのドアは、重いのと古いので、開閉するときにかなりの鈍い音を立てるのに。
その音に気付きもしないで、ぼんやりと楽譜を眺めてたなんて。
夏服を着たその人は、しなやかに近づいてくる。
夏の午後。
日差しは鋭さを増して屋上に降り注いでいるのに、汗1つかいたことのないような涼しやかな顔が、目の前で意地悪く微笑んだ。
「たまにはお前の練習の成果を聴いてやろうと思ってきたんだけど。
そんな様子なら大した音は鳴らせないだろ? 別の日にするか?」
「あ、いえ。えっと、先輩に教えてもらった新しい曲、ここまで練習したんです……っと、わ、待ってーー」
ふいに突風が吹く。
楽譜を止めていたお気に入りのペーパーウェイトはあっけなく、地面に落ちて。
私は両手に弓とヴァイオリンを持ったまま、楽譜を追いかけた。
「馬鹿。楽器を手にしたまま走らないの」
先輩の片手がやすやすと私の腰を捉える。
「あ、でも、楽譜……」
「いいから」
今まで感じたことのない近さで、柚木先輩を感じる。
ヘーゼル色の瞳。
半袖から出た、思いの外たくましい腕。
いつも車の中で感じるキレイな香り。
そんな私たちをからかうかのように、2枚の白い楽譜は更に飛んでいって。
屋上の柵にぶつかると、その場に吹き付けられて止まった。
「ほら、な? やみくもに走ればいいってものじゃない」
「で、でも……。あの楽譜、先輩が選んでくれたものだから」
この前、柚木先輩に連れて行かれた音楽科専用の書架。
『今のお前には、これがいいかもな』
そう言って渡されたサン・サーンスのヴァイオリン協奏曲第3番の楽譜。
先輩が選んでくれたことが嬉しくて。
音楽科さんしか入ることが許されてない特別な場所に入れたことが嬉しくて。
私はどんどん練習しては自分なりのフレーズを書き込んでいった。
そして今は、書架にあったオリジナルとは全く違う楽譜がここにある。
── 私にとっては、宝物。
無くしたら、またコピーすればいい、とか、そういうものじゃないもん。
「あ、じゃあ、楽譜、取ってきます」
目の前にあるベンチに目星をつける。
そっか、そうだよね。何も、楽譜を掴まえるのに、ヴァイオリンは要らないよね。
最初から、あそこにそっとヴァイオリンを置いておけば良かったんだ。
「……あれ?」
1歩、脚を踏み出して。
柔らかな圧力が自分の身体を押し返していることを感じて。
私はようやく今の状況を把握する。
「……えーっと。先輩?」
「なに?」
「離してくれないと、楽譜、取りにいけないんですけど……」
「……さあ。どうしようかな」
言ってることとは真逆の方向に、私を囲う腕が小さくなる。
目の前のアスコットタイ。押し返そうにも、ヴァイオリンが邪魔をして手が使えない。
「ま、また、からかってるんでしょ。あの、早くしないと……」
頭の後ろに5本の指が忍び込んだ。優しい力。目の前にある端正な顔が傾いた。
私はまぶたを閉じる。引力がさかさに働いて、身体中の力が脚から一気に頭へと逆流を起こしているみたい。
私の唇は続きの言葉を伝えることなく、柔らかいモノで覆われた。
「……それにしても。おまえ、キスぐらいで、どうしてこんな風になるわけ?」
ふにゃりと足元のコンクリートが歪む、と思ったら、脇に手を通されて。
支えられるような格好で、私は肩で息をする。
さっきと何も変わらないのは2枚の白い楽譜だけ。
ううん。違う。私たちを囲むモノは何1つ変わらない。
変わったのは私と柚木先輩との距離、だけだ。
「……フルーティストの先輩とは違うの。息が……」
「息? 鼻を使えばいいだろ?」
「使っても! それでも……っ」
目のすぐ先に、先輩の唇がある。
たった今まで私に触れていたそこが、普段より赤味を増していることを知って、どうしていいかわからなくなる。
「……今まで、触れたら止まらなくなる、と思って、自制していたんだけど。まあ、お前が飛び込んできたんだしね」
「そ、それはそうだけど……っ」
「お前にこんな艶っぽい顔ができるなんて、嬉しい誤算ってところかな。── 今度は集中しろよ?」
先輩はそう言葉を繋ぐと、再び唇を落とした。
私を解きほぐす、この人の優しい物腰、そのもののキス。
だから、戸惑う。
優しいだけなら。コワいだけなら。── 私はこんなに惹かれなかったのに。
口内に入ってくる柔らかい感覚に、惑わされ続けてる。
私の中の堅さが取れて、少しずつ馴染んでいく。
ヘンかな。……先輩とずっとこうしたかった、って。
そうされてから。そういう状態になってから、初めて気づくことって、ある。
自分が想っている以上に、先輩が好きだ、っていう事実を。
先輩は最後に軽く私の唇を舐めて、離れて。
のぼせたように先輩の顔を見ることしかできない私に、目の前の人は笑って言う。
「なんだ。お前、続き、したいの? だからってこんな固いところでするの、俺はご免だけどね」
続き……。
続きっていう行為が、演奏する、だとか、合奏する、だとか、そんなシンプルな意味じゃない、ってことくらい私だってわかる。
「まあ、こういうのは、お互いの合意というのが必要だしね? ……お前がそういう気になるまで、待っててやるよ」
「へ? 私次第、ってことですか?」
「おや、不満? 香穂子もなかなか言うようになったね」
「うう……」
そういう気、そういう気って、つまり、その……っ。
……頭が上手くまとまらない。さっきの行為で酸欠になっちゃったのかな? クラクラする。
上手く息が繋げなくて。肩で息をしてるから、言葉が出てこない。
気が抜けたように目の前の整ったな顔を見つめていると、かすかに口の端が上がったのが分かった。
「……まさか、この俺にそこまで言われて、嫌だなんて言わないよね?」
「わ、わかんないですよ! 私、今まで、こんな経験、ないんですっ。だから、どう言っていいのか……」
「ふぅん。モテなかった過去をそこまで披露する必要はないけど。……でも」
「はい……?」
「俺にとっては幸運だったよ」