学院からの帰り道。
車から降りた香穂子は、門扉に手を掛けると思い出したように振り返って言った。
「夜はあいにく家の都合がある。昼なら」
「あ、お昼でも嬉しいです。ぜひ、ウチに遊びに来て下さい! えっと……。お腹を空かせて」
「……お腹を空かせて?」
*...*...* Celebrate *...*...*
今までの今頃。俺はどうやってこの日をやり過ごしていたのだろう、と我に返る。
まだ幼くて。具体的に柚木家と釣り合う女性を、と探していたわけでもない。
思い出すのは、緊張を強いる周りの空気。気品のあるお祖母さまの顔。それを取り囲む家族の顔。
しかも、みな微笑んではいない。
面倒なこと。早く終わればいい、と思っていることがあからさまに伝わってくる顔が揃っていた、ということ。
だからと言って、俺自身がその場を逃げ出すわけにはいかない。── そんな窮屈な日。
今年も、その時間がやってくるのは必須だ。しかもやっかいなことに、オプションまでも携えてくる、らしい。
この前の夕食。
珍しくお祖母さまが席に着いたと思ったら、開口一番俺の顔を見据えて言った。
『梓馬さん。学院内のコンクールとやらも終わったとのこと。勉学に差し支えはありませんでしたか?』
『はい。大丈夫ですよ。お祖母さま』
『それは良かったこと。……雅からお話は聞いているかと思いますが、日曜日の4時からの会には三条家のお嬢さんがいらっしゃいますからね。あなたも粗相のないように、そのおつもりで』
『はい』
やれやれ。……全くやっかいな。
俺は香穂子の自宅へと向かう車の中でため息をついた。
香穂子の自宅から、俺の自宅までは車で1時間。
4時からの会となると、3時には香穂子の家を出ることになる、のか。
── まあ、いい。今は、家のことに気を遣いたくない。
流れるように動いていく景色をながめながら、俺は田中に話しかけた。
「悪いね、田中。休みの日まで車出してもらって」
「いいえ。梓馬さま」
シミ一つ無い制帽。
この季節ではさぞ暑かろうと思われるのに、田中は年中 真っさらな長袖のシャツを着て、窮屈そうにネクタイを付けている。
「お帰りは何時頃でしょう?」
「そうだね。3時くらい、かな?」
「かしこまりました」
田中は寡黙だ。必要なことであっても、最小限しか話さない。
けれど、俺がこうやって休日に女の家に赴くというのは初めてのことで。
どこか田中の態度には、俺のこんな行動を喜んでいる節、も伺えて。
俺はそれ以上は何も告げずに車から降りると、改めて香穂子の家のベルを押した。
思えば、何度も学院への送迎をしてきたけど。
直接自宅まで迎えに行くようになってからは、あいつ、いつも律儀に家の前で立っていたから、こうやって、ベルを押すのは初めてのことかもしれない。
門の外で様子をうかがっていると、ドアの向こうに人の気配がする。
「先輩、ですか……?」
香穂子は俺を認めると笑顔で飛び出してきた。
「ようこそ! 柚木先輩。お待ちしてました!」
「どういう風の吹き回し? 突然俺を自宅に誘うなんて」
香穂子は両手を胸の前で合わせると、元々大きな目をさらに大きく見開いた。
「え? だって、今日、先輩の誕生日、でしょう?」
「ああ。まあな」
「ん……。私に、何ができるかなー、って考えたんです。今まで……。って言っても、コンクールが始まってから、だからまだ3ヶ月ぐらい、ですけど。先輩にはすごく良くしてもらったから、お礼がしたくて」
ドアの先。はにかみながら、玄関でスリッパを俺の向きに揃えている。
「ヴァイオリンで1曲奏でて、それがプレゼント、になれば素敵だけど……。まだまだ時間がかかりそうなので、今日は別の方向からチャレンジ、です。えっと、奥にどうぞ?」
香穂子はリビングへのドアを開けると、そのままダイニングの方へ脚を進めた。
きちんとアイロンをかけた真っ白なTシャツ。それに続くブルージーンズ。
ベージュ色のカフェエプロンが、そこだけ成長することを忘れたような華奢な腰にまとわりついている。
「じゃ、柚木先輩。早速ですけど座って下さい」
小さなテーブル。……ってどうなんだろうな、一般的な4人家族なら、こんなくらいが普通なのか。
4脚の椅子があるダイニングテーブルの上には、2人分の箸と箸置きがセッティングされている。
「お前、これ……」
「えへへ。お口に合うと嬉しいんですけど……」
薄紫色のわすれな草をあしらったお盆には、2種類の前菜。
出されたそれらは、思いがけず和風の優しい色合いで。
アスパラの焼きびたしが入っている薄卵色の器に手をやると、それはひんやりと気持ち良く冷えているのが分かる。
香穂子はキッチンに向かうと、手際良く料理を小皿に盛りつけ始めた。
「ヴァイオリンを始める前……。コンクールに参加する前まで、私、高校を卒業したらお料理の道に進みたい、って思ってたんです。お姉ちゃんと2人で」
トントン、と小気味良い音がすると思ったら、それに続いて、ミョウガのつんとした香りが漂ってくる。
「私たち姉妹って、食いしん坊なんですよ。だから、小さい頃からお料理にすごく関心があったんですね」
「ふぅん」
「……1日2組くらいのお客さんを迎えて。お気に入りのお皿にお客さん好みの料理を並べて。楽しい時間を過ごすための料理、っていうのかな? そんな店が持てたらいいね、って話してたんです」
料理をしている時の香穂子は、ヴァイオリンを奏でているときと同じくらい嬉しそうな顔をしていて。
なるほどね。こんな1面があったとは、ね。
香穂子の、ヴァイオリン以外の1面を知ることができた、という事実を、こんなにも喜んでいる自分がいるのが、我ながら不思議なくらいだ。
── 戸惑っているのが分かる。自分が、自分に、ね。
「それで? 今はどう考えているの? 音楽と料理」
「今? 今、ですか……? 今は、どうだろう。ヴァイオリンに夢中で、この包丁を握るのも久しぶり、ですね……。はい、完成、っと。一緒に食べましょう」
香穂子はするするとエプロンを外すと、俺の隣りの椅子に座った。
お盆の上には、じゅんさいのお吸い物やうなぎ炊き込みご飯など、こまごまとした料理が並んでいる。
熱いものは熱く。冷たいものは冷たく。
俺の好みをいつ知ったのだろう。出てきた料理は全部和風のあっさりした味付けのものばかりだった。
人の好意には慣れてきた。
差し入れと称して、いろんな手作りのものを、名前も覚える気もない女の子からもらってきたこともあった。
けれど。
香穂子にそうされて。
人の好意が、こんなに嬉しいものなのかと改めて知る。
いや、……違うな。
香穂子。だから、嬉しいし、愛しいのだろう。
「香穂子……」
隣りに伸ばした手が、香穂子の肩を這う。
そのとき。
「あ! 1番大事なもの、忘れてた! ごめんなさい、先輩、もう少し待ってて」
香穂子は勢いよく立ち上がると、パタパタと冷蔵庫の方へ向かった。
俺はため息をつく。
ヴァイオリンに関しては、めざましいまでの変化があったのに。
── こいつが、こういう艶っぽい状況を把握できるようになるのは、いつなのだろう。
香穂子は俺の屈託に気付くことなく、手にしていたお皿をテーブルの上に置いた。
ケーキサーバと共に出てきたのは、青葉のような色をした抹茶のタルト。
「はい! 今日のメインです。バースディケーキ!」
「これも、お前が?」
「そうです。……あ、タルト生地だけお姉ちゃんに手伝ってもらったかな……。ね、ロウソク、つけましょうか。明かりも消して……」
香穂子は照明を落とすと、ケーキに近づいて、端に飾ってあった小さな1本のロウソクに火をともした。
「きれい……」
北向きの部屋なのか明かりを消しただけで、薄暗くなる。その上柔らかなオレンジ色の影が広がっていく。
元々柔らかい線で作られている香穂子の顔が、光を受けて、より優しげな表情になる。
火は太古から、まじないや宗教にも使われてきた。人をどうやら神聖な気持ちにさせる効力があるらしい。
俺は、自分でも知らないうちに口を開いていた。
「……小さい頃。とても俺を可愛がってくれるおじさんがいたんだ。子供心にも嬉しくてさ。ずいぶん慕ったものさ」
「先輩?」
突然の話の成り行きに、香穂子は首をかしげると、静かに俺の隣りに座った。
「いつだったかな。そのおじさんが俺の誕生日だといって、兄たちが羨ましがるようなおもちゃを持ってきたことがあった。
嬉しくて飛び上がったね。兄たちも俺に、といって渡されたおもちゃを取り上げるわけにはいかないだろ?
日頃、目立たないように目立たないようにって行動していた俺が、その日だけは威張って はしゃいでいた」
「ん……」
香穂子は真剣に話を聞いている。
眉をひそめて。浮かんでいた笑みが、少しずつ沈んでくる。
── 香穂子を悲しませるつもりはないのに。
知らないうちに、俺はどこかで香穂子に甘えているのかもしれない。
1人の人間に俺の全てをさらけ出す。そんなの俺のスタイルじゃない。
なのに ──。
俺は目の前にあるカットグラスの中に注がれているペリエを飲むと、話を続けた。
「ところがそのおじさんは言ったんだ。『梓馬坊ちゃん、これを必ずお祖母さまにお見せするようにね』
……俺は言いつけ通りそれを守った。── あとで知ったよ。その人がお祖母さまの口添えで取締役になった、ってね」
「先輩……」
「カネか、欲か。この俺を付き合うことで、何かメリットを得ようとするか。
── そんな輩ばかりだった。……それからだな。人の好意の裏を読んでしまう自分がいた。
まあ、火原は例外だけどね」
「…………」
「なに、くだらないこと話してるんだか。悪かったな。こんな話」
いつの間にか火は消えて。
薄暗い部屋の中、香穂子は燃えて小さくなったロウソクを抜くと小皿に載せた。
そして俺を見ることなく、口を開いた。── 震えている声。
「……私は、先輩が好きです。それだけ、です」
「香穂子」
「車での送迎とか、御曹司とか……。天羽ちゃんからいろいろ聞いたことはあるけど、そんなものは私には関係ない。たとえそうじゃなかったとしても、私は柚木先輩が好きですよ?」
そしてテーブルの上に置いてあった俺の手を、壊れ物のようにそっと持ち上げると両手で包んだ。
ずっと水に触れていたせいか、しっとりと水気を増した香穂子の指が俺の手を握る。
その温もりに。柔らかい感触に。
(大丈夫ですよ)
香穂子の声にならない言葉を聞いた気がする。
「ときどき意地悪なことを言われちゃうけど、いつもあとで考えてみたら、ああ、先輩の意見って正しかったな、って思える、から……。 先輩がいてくれたから、コンクール、やり遂げられたんだなあ、って。いつも、感謝してます」
香穂子はふんわりと柔らかく笑って。
テーブルの上の料理に目を遣ると、片手をほどいて箸置きに置かれていた俺の箸を差し出した。
「……えっと、食べましょうか。ごはん。……はい、先輩の」
俺は渡された箸を静かに元の場所に置く。握った手をそのままにして。
「……続き、するか?」
「はい? なんの?」
「キスの続き」
この前の屋上での振る舞いを思い出したのだろう、香穂子の顔にはすぐさま羞じらいの色が浮かんだ。
「え? えーーっと、あのっ。まだ……。私の方は準備が……」
「は?」
「お料理の方はすぐ準備できるのに、ヘンですよね。はは……」
……軽く、身体の力が抜ける。
こういうことに関しては、女はおっとり、男はせっかちなのかもしれない。
「ふぅん。……料理と一緒に、お前自身の準備はしておかなかったの?」
「うう、不器用、なんです。2ついっぺんに準備はできなかったです、ね……」
真面目に返事を返す香穂子の表情がおかしい。
しょぼんと肩を落とす香穂子の額に、俺は笑いながら唇を落とす。
── まあ、いい。
こういう初々しい香穂子を見ていられるのも、きっと今だけ、だろうから。