*...*...* Darkness *...*...*
「んー。ちょっと早く着きすぎた、かな?」駅前通りのファータの噴水。
きらきらと日を浴びている水しぶきが、今日の暑さを教えてくれるような気がする。
昼がどんどん長くなって、短くなった夜を追い出す季節。── 夏、本番だなあ。
私は目的地に到着すると、ほっと息をついた。
10時10分前。── 約束の10分前。
今まで、よくお友達と待ち合わせて、ショッピングに出かけた。公園のアイスクリームを食べに行ったこともある。
けど、時間通りにその場にいればいいんだ、って思ってたから、こんなに早く目的地に着く、なんてことはなかった。
そして私の悪友も、だいたい、約束の時間か、2、3分遅れて到着、って感じだったから……。
……手持ちぶさた、かも、しれない。
こんな風に約束の時間まで、そわそわと周りの様子を見ながら気を紛らわすの、ってどうしたらいいんだろう。
あ、この前月森くんから借りた、『音楽用語辞典』を持ってこれば良かったかな? あれ、文庫本サイズだし。
けど、せっかくの待ち合わせに本なんか読んでたら、申し訳ない、よね。
「あれ?」
かつり、と石畳を打つ、靴の音。
あんなにまぶしかった夏の日差しが手のひらで遮られる。
「……良い子だね。ちゃんと待ち合わせ時間の前に来てるなんて」
「あ、先輩、こんにちは!」
真っ白なシャツ。
さりげなく外されたボタンから覗く白い首。
品の良いグレーのスラックスが、歳よりも大人びた、雰囲気を醸し出してる。
思えば、柚木先輩って制服をきちんと着こなしているから、こんな風にカジュアルダウンした格好って、新鮮な気がする。
やっぱり、品の良さ、って、身につけようと思って、すぐ身につくものじゃなくて。
毎日の生活の中で少しずつ、まとう空気の中に積み重なっていくのかなあ……。
……ああっ。み、見とれてる場合じゃなくて、私、なんか、なにか、言わなきゃ!
口を開きかけたそのとき、柚木先輩は私の格好を一瞥して口を開いた。
「香穂子、今度はクルーザーって言っただろう?」
「…………。ははい!??」
私は、自分の胸元からスカートの先まで見下ろす。
先週、思い切って買った白地に細かいドット柄のキャミソールワンピ。
胸と裾のぱっと目には気が付かないような、小さなフリルが可愛い。
可愛い、けど……。クルーザー、ってことは、海、だよね??
海、ってことは、やっぱり水着とか、着替えとか。あああ、私、日焼け止めも持ってきてないーー。
目の前の人は満足そうに私の様子を見定めると、気品のある笑顔から一気に意地悪な笑みを浮かべた。
「冗談だよ。お前って、どうしてそんなに簡単に騙されるわけ?」
「はい?? ひ、ひどい……」
「ったく。俺以外の男に騙されるなよ。ほら、さっさとついてこい」
柚木先輩はそう言うと、すたすたと駅前通りを歩き出した。
すんなりとした背中。身体の横、リズムを取るように腕が動く。
遠くで見るときとは印象の違う、思いのほか、男の人らしい指も揺れる。
この指から、あの音楽が生まれるんだ。繊細で、のびやかな、あの音が。
現金な私。
指を見て。先輩の奏でる音を思い出して。
その途端、さっきの意地悪なんてまるで帳消しになってるんだもん。
私はぱたぱたと小走りで先輩に近づくと、急いで隣りに並んだ。
「どうしたんですか? 急に、今日空けておいて、なんて」
「……別に。な、香穂子。お前って、昼と夜と、どちらが好き?」
「え? えっと、どっちだろう……。んー、夜、かな?」
本当はどちらも好きだけど。
── 夏は、夜が短いから。
マイノリティっていうのかな? 少ないモノ、小さいモノがなんとなく好き。
でもその分、夜が長くなる冬は、昼が貴重になって。昼の方が好きになっちゃうんだけどね。
「ああ。夜はいいな。ライトアップした建物が冴え冴えと美しい。……ま、昼も開放的でいいけどな」
先輩は、すぐ隣りのコンサートホールに目をやった。
著名な建築家が設計したという、この駅前通りのコンサートホール。
冬海ちゃんは中学生の時、ここのホールでコンクールに出たことがある、って言ってたこと、あったっけ……。
確かに足元に埋め込まれているライトがホールを照らす夜は、キレイかもしれない。
映し出される直線的な建物も、どこか柔らかくなる気がする。
「……夜は華やかな光でいろんなものを隠すだろう?」
「え? 隠す、から、好きなんですか?」
「そう。……どちらもそれぞれの時間帯での表の顔だ。……そして普通なら裏の顔など見せるものではない。舞台でも楽屋裏は見せないものだろう?」
隠す……。
私はライトアップされた白い建物を想像するとき、光の当たっている部分にばかり目を遣ってきた。
影になる存在を意識することなしに。
「先輩?」
先輩の自嘲的な雰囲気も気になる。
もしかして……。
実は先輩は、まだ私に見せない隠しているところがあって。
コンクールの間中、あっちこっちと走り回ってる私に、『努力っていうのは自分でする気にはなれないね』なんてからかってたこともあった、けど。
本当は、人に見えないところで、毎日、悩んだり、努力したり、諦めたりしてるのかな……?
「香穂子。楽屋裏の存在というのは、内側にいる人間だけが知っているんだよ」
意味深な流し目と共に届いた言葉。
それって、もしかして、……裏方、って、私の、こと??
嬉しいような、誇らしいような。
けど、もし、勘違いだったら。
今の自分の今の表情をどうやって引っ込めたら良いんだろう、って戸惑ってしまう言葉。
柚木先輩は、やれやれといった風に首を振ると、歩みを止めた。
「つまり、お前は俺の裏方というわけだ」
「先輩……」
好きな人の裏方を任せられるなんて、嬉しくないハズがない。
私は緩んだ頬を手で隠す。夏の暑さだけではない赤味が顔中に差しているのが分かる。
ふいに柚木先輩はその手を取ると、皮肉っぽく聞いてきた。
「中々ハードな仕事だよ? 裏方というのは。お前はちゃんと俺の裏方をやれてるの?」
「ちゃんと……、ですか?」
どうなんだろう。私が、柚木先輩の裏方……?
ちゃんとやれている、って胸を張って言えるほど、私は柚木先輩になにもしてあげてない気がする。
コンクールが終わって。
音楽科と普通科。それぞれの場所に戻っていっただけだっていうのに。
思えば、同じ学校でも、科が違うとこんなにも出会わないものなんだってことを痛いほど感じる毎日だったりする。
講堂や正門。そういう場所で会えるのは休み時間と放課後だけ。
授業も音楽科と普通科は全く違うカリキュラムで組まれてる。
校舎だってかなり離れてる。
学院で過ごす殆どの時間。
先輩、ということもあって、なかなか先輩の教室にも行けない。
そして、もちろん、先輩は今まで以上に有名人で、親衛隊さんからも生徒会からも大事な人で、普通科には来ない、から……。
音楽の世界でも。
私が先輩に教えてもらうことはたくさんある。先輩だし、音楽科だし。
彼の知識と私の知識を比べるなんておこがましい、っていうくらいのレベルの差がある。
つまり……。
私が先輩に伝えてあげられることは、何もない、ワケ、で。
……うう、落ち込んできた、かも。
『ちゃんと』
そもそも『ちゃんと』って、どんな状態を『ちゃんと』って言えるんだろう。
五分五分? フィフティ・フィフティ? 与えられることより多くを与えること?
学院の宗教の授業で聞いた言葉。
その言葉をこれほど身近に感じたことって無かった気がする……。
「大丈夫、安心しろ」
頭の上から声がする。思いがけない優しい声音で。
「だって、『ちゃんと』はできてない気がしますよ……。私」
「ふぅん。……言って欲しいの?」
捕まった手はそのまま先輩の手の中にある。
どうしていいかわからずに手を引くと、囲むその手に、更に力が入ったのが分かった。
「『香穂子……。君という人がいないと僕はなりたたないよ』と言って欲しいの?」
艶っぽい声。すっと、先輩の顔が近づいてくる。
こういうときの先輩は策士だと思う。特に、私に対して、『君』と呼んだり、自分のことを『僕』って言ったりするときは。
コンクールの間に、さんざん騙されたからわかるもん。
わかっていても、胸の奥がことりと音を立てるのを抑えることができない。
「あ、あの、いえ。そういうわけじゃないですよ」
「そんな顔して。……ま、俺の言うことが信じられないって言うなら、暗がりに連れ込むだけだけどね」
「わ! 信じる! 信じますってば。本当に」
「そう? まあ、信じても、連れ込むことには変わりないけど」
「え……?」
暗闇。……暗闇。
頭の中で、この前の屋上での行為がよみがえる。
また、あの、恥ずかしくてたまらないことを、目の前のこの人と繰り返すの? その続きを?
『お前がそういう気になるまで待っててやるよ』
初めてキスをして。
私に対する先輩の気持ちを痛いほど知った。
好き。だから、キスをする。
今まで特別だと思っていたこと。
それが毎日の繰り返しになって。── 当たり前になって。
逆に、それがない週末の方が不思議になる。
キスをしないで過ごしてきた今までが、不思議になる。
けど。
私は先輩の肩の向こうにある景色に目を向ける。
初夏を思わせるまぶしいほどの青空が広がる、絶好のデート日和。
先輩に見つめられることが恥ずかしくて、おろおろと遠くに見える柱時計の長針と短針の角度を見つめたり、して。
まだ、午前10時。
こんな時間に、暗闇……??
先輩は私の顔をさんざん眺めた挙げ句、吹き出しそうな表情を浮かべると、私の肩に顔を埋めた。
「何か期待させた? 映画に行こう、とお誘いしてるんだけど?」
「え? 映画……?」
「そう。映画。暗闇だろ? あれも」
暗闇……、って……?
「せ、先輩〜〜〜!!」
「お前の意見も尊重したいところだけどな」
「け、結構です! 尊重しなくて、いいです!」
もう片方の手の平に汗が滲んでくるのがわかる。キレイにアイロンをかけたハンカチは握りしめてシワが寄ってる。
うう、私の心の中のこと、きっと先輩なら見透かしてる。
バカバカ。恥ずかしい想像をした私を、先輩、なんて思っただろう。
「ほら、行くぞ?」
「は、はい!」
顔から火が出る、ってこういうことを言うんだろうな。
だけど先輩も意地が悪いと思う。映画なら別に『連れ込む』ことをしなくても、私、普通に入るのに。
けど……。でも……。
もし。もし、も、もっと求められたら。
私は、止められないかも知れない。先輩自身を、じゃなくて、自分自身を。
映画館の入り口で、先輩はチケットを買った。
先輩ならどんな映画を選ぶんだろう、と思っていたけど、それは意外にも私が行きたいと思っていた映画で。
先輩のいう暗闇の中、手を引いてもらいながら、席に進む。
「先輩と映画館、ってなんだか不思議……」
「そうだな。俺もそう思うぜ」
「ん……。先輩ならDVD買って、大きなお部屋で1人で鑑賞、って雰囲気ですよね」
先輩は私を席に座らせると、隣りに座って脚を組んだ。
スクリーンにはこの夏の封切りの予告がせわしなく流れている。
先輩は手にしていたパンフレットを膝に置くと、何でもないことのように切り出した。
「……お前といると、今まで俺のいた世界はなんて小さかったんだろう、と思えてくる」
「先輩……?」
「こうやって、人を好きになる。そいつのいろんなことが知りたくなる。── 同じ時間を過ごしたくなる」
「…………」
「理屈じゃないんだな、とか? ……いいものだ。好きな女のせいで、変わっていく自分っていうのもさ。── 全く俺らしくないぜ」
私はアームレストに置かれている先輩の指に触れる。
ノドが乾いて、声が出ない。『先輩』という簡単な呼びかけさえも。
容姿や才能。先輩を取り巻く、背景。
何もかも恵まれているのに。人が羨む、たくさんのモノを持っているのに。
先輩の心の中は、決して、幸せばかりじゃ、ないのかな……。
私は掠れそうになる喉を励ましながら、応酬する。
── 今、私といるときは、目に見えない幸せを少しずつ重ねていって欲しいから。
「あはは、そうですよ〜。庶民ワールドへようこそ、です。映画の後は私がエスコートしますね」
庶民っていう言葉に力を入れて笑い返す。
私をからかって、目の前のこの人の持ってるものが軽くなるなら、私、なんだってしちゃうよ。
スクリーンはいつの間にか真っ暗になって。
ざわついていた映画館中が静まりかえる。
それと同じくらい、静かな、けれど、優しい声を私は聞く。
「── 感謝してるよ。香穂子」