「ほら、な? 大丈夫だっただろ?」

 余裕たっぷりに言う先輩の口元が見える。
 私は視線を合わせることなく、先輩のブラックタイを見つめてため息をついた。
 たった今まで自分のしていたことが信じられない。
 視界の隅にある、先輩の指。
 これからの私は、今までの無邪気な気持ちで先輩の指を見ることはできないよ。
*...*...* Secret *...*...*
「日野さん、いくらなんでもこれはマズいわ」
「そ、そうですよね、やっぱり……」

 私はへらりと追従のような笑顔を浮かべる。
 こんなことしても何の役にも立たないって分かってるけど、この笑顔が万に一つの例外を作ってくれるなら、なんて思いながら。
 目の前のgrammerの先生も釣られたように小さく微笑んだ。

「半分くらい得点できていれば、私としてもこんなイジワルなことは言わない主義なんだけどね。
 わかるでしょ? 英語主任の山中先生がうるさいのよね」
「はい……。知ってます」

 先生は尻すぼみに言葉を濁すと、申し訳なさそうに私の顔を見上げた。
 うう、そんな縋るような目で見つめられても……。

「ごめんなさい。私……。えっと、ペナルティ、受けます」
「日野さん、そうしてくれると助かるわ!」
「えっと、範囲は……?」
「2年生になってから習った単語、全部かな?」

 英語の単元テスト。100点満点中、40点以下を取ったときのペナルティは大変なんだよ。
 っていうのは、学院に入学して1番最初に聞くウワサ。
 知ってたし、事実、周囲の友達がそのペナルティを受けて、悲鳴を上げているのも見ていたのに。
 私はgrammerの教科書を広げながら、恨めしそうに、真っ赤に色づいた答案用紙に目をやった。
 ── 38点、か……。あと、1問だったのに!!

 先生はパラパラと教科書をめくる。
 えっと大体1ページに新しい単語って10コくらいだっけ?
 軽く50ページはある、ってことは、……軽く見積もって、……500コも、単語、書くの??

「ここまで、かな。まあ、期末へのステップアップにもなるから、頑張ってみて?」

 先生はそう笑うと一番最後のページに栞を挟んで、私に渡してくれた。

「え? こんなに……?」
「気合いを入れれば3時間くらいよ?」
「3時間、ですか」
「日野さんの集中力を持ってすれば、叶わないことは何もないって金澤先生は言ってらしたわよ?」

 私は返事の代わりにため息をついて、すごすごと職員室を出る。
*...*...*
「ふぅ、っと……」

 パソコンの時代に、手書きで、しかも、単語1コに3回ずつ。
 単語500コのペナルティ。それぞれ3回ずつ書いて、1500回。
 考えただけでため息が出そうな壮絶なプランが目の前にある。

「あ、その前に、っと」

 私は携帯を取り出すと、慌てて先輩に宛ててメールを打った。
 今は3時半。6時を過ぎることは確実で。
 少しぐらいの遅れなら、待っててくれるかもしれないけど、
 受験生である先輩の時間を削ってしまうのは申し訳ない、から。

 『ごめんなさい。先に帰ってて下さい』

 状況を細かく書こうと思えば、書けないこともなかったけど。
 なんだか自分のバカさ加減を先輩に話すのもイヤだもん。

 私は、画面の上、くるくると封筒が飛んでいくのを見届けてから、電源を落とした。
 図書館だしね。音が響くの、良くないし。

 時折通りかかるクラスメイトが、grammerの教科書と、私の必死な様子に納得して、一言二言声を掛けて、去っていく。
 ふふ、そうだよね。
 誰でも一度はこのgrammerの洗礼を受けているわけで。
 きっと卒業したら笑い話になるよね、なんて、クラスのお友達と言い合ったりしてる。
 そして明日の朝になれば、ウワサになってる。
 『洗礼を受けた』
 って。
 カトリック系の学校で、『洗礼』という言葉が別の意味を持って使われてるって、よく考えるとおかしい。

 『あ、あの……。志水くんはそのペナルティも忘れちゃうって話です……』

 冬海ちゃんが、さも自分が申し訳なそうな表情を浮かべて教えてくれたことがあった。

 『え? それで、ペナルティ、忘れちゃって、どうするの? 次の日に出すの?』
 『いえ、次の日も忘れちゃうんです、志水くん……。今は、先生の方が諦めているらしいです』
 『えええ? まだ入学して間もないのに、志水くんの存在感ってすごいよね。……私のことも諦めて欲しいよーー』
 『音楽科は不思議ちゃんが多いから仕方ない、って先生が』
 『あはは、冬海ちゃんも不思議ちゃん?』
 『あは……。そうかもしれませんね。香穂子先輩も、ですよ?』
 『わ、私も??』

 2人で購買のジュースを飲みながら、話していたことを思い出す。
 後期から音楽科への編入が決まった私も、不思議ちゃんの仲間なのかもしれない。

 目と手は正確に冷静に、教科書の字面を追って、ノートに写していく。
 英語って、初めて習い出したときには、4本の線が並んでいたっけ。まるで、音符が乗ってる五線譜みたいに。
 1本少なくて、下から2番目の線は薄いピンク色だった。
 そう思うと不思議。
 英単語がなんだか音符に思えてくる。
 もし英単語が音符だったら、もっともっとこのペナルティも捗るかもしれないのに。

「よし、もう少し」

 私はgrammerのページの厚さと格闘する。





 ── どれくらい、時が過ぎたんだろう。
 低い低い年代物の柱時計が、時刻を告げる。ゆっくりと鳴る音。なり始めた時点で6時だと気付く。
 それくらい長い時間が過ぎたんだ、ってことは、ペンを握り続けていた右手が教えてくれた。

「……やった! できた! すごいよ、2時間半でペナルティ、クリアーだよーー」

 ゆっくりと右手を広げると、中指の内側が赤くなってる。
 こんな風にまじまじと自分の指を見るのは久しぶり。
 あれ? 私、こんな爪の形、してたっけ??
 平たく、短い爪。以前、見たことがある、月森くんのような指。


 私は、目の前に書き散らしてあったレポートの縁を揃えて顔を上げた。
 首を傾けると、ぽきっと鈍い音がした。
 うう、少しだけ、肩が凝ってる気がする……。

「……ふぅん、Grammerのペナルティ、ね……。俺、バカは嫌いだよ?」
「わ!!」


 肩に乗る重み。絹のようなさらさらした髪。
 首の下には適度に筋肉のついた腕が交差している。
 女の子とじゃれ合うときの手とは、全然違う。『手』じゃなくて『腕』が私を覆っている。
 背中越しの温もり。
 ひんやりと空調の効きすぎたこの場所では、なぜか人の温かさが気持ち良くて、私は先輩のされるがままにゆっくりと背中を預ける。

「あれ? どうしてここに? あ、メール届かなかったとか……?」
「……お前、こんな遅くに1人で帰るつもりだったわけ?」
「ん……。先輩を待たせるのがイヤだったんですよね」
「へぇ。それはまた殊勝な心がけだな」

 先輩の息が耳にかかる。心なしか先輩の声も低く艶を帯びているよう。
 近くにいるのに、視界には入らない。
 英語のペナルティをクリアするまでの集中力が途切れて、私はぼんやりしている。
 柚木先輩は私のこめかみにキスを落とした。

「そんな顔して」
「え……?」
「イジめたくなるね、そんな顔されると」
「あはは、いつでもお相手しますよー」

 軽い調子で言い返すと、私の身体に巻き付いていた腕に力が入ったのがわかった。

「先輩……?」

 学院への行き帰り、先輩と私の間で交わされる、言葉のキャッチボール。
 先輩の軽い意地悪が好きで。その中に隠れてる本当の気持ちを知ることが楽しくて。
 先輩が先輩らしく、肩の力を抜いてくれる。その瞬間を見るのが好きで。
 えっと……。
 『イジめたくなる』
 って、いつものような言葉遊び、のこと、じゃないの……?

「……あ……」

 目には見えないはずなのに、先輩の纏ってる空気が本気になる。
 熱い程の唇が耳たぶをかすめた後、すばやく首筋に落ちてきたのがわかった。

 サイドにあるファスナーが鈍い音を立てて開けられていくのを感じる。
 素肌がひんやりとした空調の風に当たる。
 でもそれは一瞬のことで。
 すぐさま、その場所は熱を増した大きな掌に覆われた。

「い、いや……」

 胸の頂き。
 制服が不自然なシワを作り、動いていくのがわかる。
 先輩の手は難なくフロントのホックを探し当てると、そこを解放した。
 白いレースの布の代わりに、男の人の指が食い込む。

「ふぅん。思ったより大きいんだ。着やせするタチかもな」
「や……」
「こういう体型って和服が映えるんだぜ? 今度着せてやるよ」

 痛いような感覚。
 やわやわと刺激を与えられるたびに、まくれ上がった制服から色づいた先端が見える。
 私の視線に気づいたのか、先輩はくすっと笑うと私の胸の先を親指で揺すり始めた。

「……だめ、もう。……誰か、来たら……」
「キスでふらふらになる香穂子だからと思って、座ってお相手してしてやってるんだよ?」
「え……?」

 図書館の入り口は私の背中の向こう。
 ぱっと目には親切な先輩が、勉強を教えてる、って取れないこともないけど。
 やっぱりそれも無理がある。

 いつ人が来るかわからない場所で。
 乱れた制服。
 鋭い人が見れば何をしていたかすぐ感づかれてしまうような、熱い頬。

 けど、けど。
 ── 先輩に触れてもらうことが、こんなに気持ちがいい、なんて。

「……あっ」

 不意に下半身に熱いものを感じて、私は膝を閉じた。
 図書館に置かれている椅子はすべて革張りの高級品で。
 もし、も、先輩の前で椅子を汚してしまったら……。

 きっと今以上に恥ずかしくなる。どうしていいか分からなくなる。

 私の身体にきゅっと力が入ったのを察したのだろう。
 全てを知り尽くしてる、といった感じに、先輩は右手をスカートの中に滑り込ませた。

「……全く。初々しいね」
「……もう、言わないで……」
「けど、こんなに感じやすくて。……わかる? 濡れてるの」

 先輩は耳元で囁くと、下着の上から濡れている場所を撫で上げた。
 もう片方の手は胸のふくらみを持ち上げたまま。
 2本の指が胸先を挟んで、ゆっくりと揺さぶり続けている。

「……あ、先輩……」

 身体の奥から生まれる疼きのような熱。
 先輩の指がもどかしいような錯覚。
 もっとして欲しくて。けど頼み方も知らなくて。

 そんな私を裏切るかのように、私の脚はだらしなく力が抜け出していく。
 先輩は満足げに私を見ると、すっと目を細くした。

「そうか……。まだおねだりの仕方も知らない、か」
「せ、先輩は、意地悪だもん。わかってるのに知らないフリしてる……」
「しょうがないね、今日は やってあげるよ。……これでも意地悪って言われるのかな?」
「……ああっ……」

 下着の脇から入ったしなやかな指。
 それは少しも迷うことなく私の中に入ってくる。
 左右の扉を開けられた瞬間に、じわりと蜜が広がるのが分かった。
 出し入れするたびに、すぐ上の一番敏感な場所に親指が かすった。

「胸を触られるだけで、香穂子はこんな風になっちゃうんだ……」
「や……。熱い」
「他の男が見たら、なんて思うかな? 清純そうな日野さんが図書館でこんな風になりました、って」

 快感を与えられるばかりの私には余裕というモノがまるでなくて。
 与え続けるだけの先輩は息一つ乱さず、言葉で私を攻め立ててくる。

「せ、先輩だから、です……」
「なに? 香穂子」
「……先輩、だから、こんな風になっちゃうの……っ」

 容赦なく攻め続ける2本の親指に負けそうになる。
 初めて生まれた身体の中の熱。
 外に投げ出さないと、止まれない。

 私の言葉に先輩は一瞬たじろいだように指を止めて。

 息を深く吸い込むと、再び優しい指使いで私を導いた。


「いい子だね。香穂子」
*...*...*
「今、何時だろう……? え、もう7時過ぎてる! 図書館の戸締まりとかどうしましょう?」
「俺たちが最終退出者。鍵も受け取ってある」
「はい? じゃあ……?」
「緊張感があって良かっただろ? 誰か来るかもしれない、って」
「先輩!」

 全く、なんて人だろう。

 でも気のせいか、いつもよりタイがゆるく彼の首にまとわりついているのを見ていたら、何も言えなくなってくる。
 優等生然とした雰囲気の中で、黒いタイは、彼の中で唯一、私と一緒にいたことを証明してくれてるように感じられるから。


 図書館で。
 柚木先輩と。


 柔らかで優しい指使いが私の身体に染みついてる。
 いつも先輩が手元に置いている金のフルート。
 あの子もこんな風に先輩に大事にされてきたのかな。だと、いいな。

「もう……。先輩のおかげで、さっきまでやってたペナルティの英単語、全部忘れちゃいました」

 嫌味を言う私に、柚木先輩はにっこりと微笑んだ。


「またゆっくり教えてやるよ」
「そ、それって、勉強、のこと、ですよね……」

 先輩の顔を覗き込むようにして確認する。
 またさっきみたいに、先輩のペースで、自分だけ乱れちゃうのは恥ずかしい過ぎる!

 先輩はこらえきれなくなったような笑いを漏らした。


「どっちも、かな?」
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