*...*...* Maybe *...*...*
 からりとした潮風が凪いできた、と思ったら、突風になって窓から入り込んできた。

 一昨日までの梅雨がウソみたいに、軽い空気がまとわりつく。
 空気を縁取るような強い日差しが、夏本番を伝えてくる。
 教室の中にいてもわかるんだよね。
 窓から入ってくるぱきっとした光は、明らかに今までとは違う。

 ── 来週からは、夏休みが始まる。

「ねね、香穂は、この夏休み、どうするの? 何か計画あるの?」

 昼休み、この頃一緒にランチをすることもある天羽ちゃんが興味津々、といった感じで話しかけてきた。

「んー。まだはっきりとは決まってないの。来年は受験だもんね。
 今年はめいっぱい遊び倒したい、って思ってるんだー」
「そうだよ! 『17歳の夏』って、なんだか、何をやっても許される、って感じがしない?」
「そうそう」

 そうなんだよね。
 17歳の夏。17歳の恋。17歳の別れ。
 冠詞みたいに、名詞の前に『17歳』って言葉が付ければ、どんなこともたいていは許される気がする。
 って、別れはちょっとせつないかも……。

 けど、けどね。
 別れても、別れた分の痛みや人を思いやる気持ちが育っていれば、それはまた次の恋につながる、ハズ、だもん。

 きゅ、っとブリックパックのカフェオレを口に含んだとき、天羽ちゃんは私のおでこをこづいた。

「そういえば、この頃、香穂はコンクールのメンバーと会ったりしてるの?」
「え? えっと、それは……っ」

 思わずヘンな風にカフェオレを流し込んだからか、喉が詰まって声が掠れる。

「ああ、柚木先輩とは毎日会ってるみたいだね。黒塗りの車で仲良くご登校って感じだもの」
「あ、うん。ちょうど、通り道だから、って言って……」

 ど、どうしてだろ。
 人の口から、『柚木先輩』という名前を聞くと、どきっとする。
 まだ私が柚木先輩と付き合っていることは、誰にも言っていないからかもしれない。

 もちろん、言えたら、素敵だな、って思うこともしょっちゅうだけど……。

 自分からカミングアウトする前に、なんとなく身体がその先を告げることを止めてしまってる気がする。
 ぼんやりしているとそのとき振られた話題は別の話題に移っていて。
 つい、そのままうやむやになっていることが多い。

 何となく。
 今まで生きてきて、どんな人と付き合ったりするんだろう、って考えたこともあった。
 まるで子どもな私は 席替えがあるたびに 自分の隣りの男子のささやかな親切が すごくすごく大切に思えて。
 そのたびに、心惹かれてしまうこともあった。

 けど、先輩を好きになって、今までの自分はなんて子どもだったんだろう、って気付く。

 今までの『好き』っていう気持ちじゃ、表現できない、先輩への気持ち。
 17歳って、オトナと子どもが共存している歳なんだ。

 わ、私……。
 付き合ってるんだ……。ずっと好きだ、って思い続けてた人と。

 でも……。
 嬉しいような誇らしいような気持ちの横に。
 周囲に秘密にしていることをなんとなく寂しく思ったりする自分もいる。

 公認、っていうのかな。
 みんなが付き合っていることを知っていて。みんなが応援してくれてる。
 そんな状態って、安心できて、好き。

 でももしそうなったらそうなったで、新たに生まれる不安もある。

 コンクールの間。
 ううん。今も、練習室に行くと、すごい勢いで睨んでくる親衛隊さんや、音楽科の生徒さん。
 その人たちの風当たりを、もっともっと強く受けたら、どうなるんだろう、っていう不安。

 それと柚木先輩のイメージ。
 誰でも自分に夢中になっている人間は可愛く見えるものなんだろう。
 どこを取っても普通すぎる私が 柚木先輩の傍にいたら 学院内のイメージダウン、確実だもの。

 ── だから、絶対、私からは、言わないんだ。付き合ってるとか、そういうの。

「ふぅ……」

 私はブリックパックからストローを抜き取ると、ほっと息を吸い込んだ。

 ……難しいよね。
 男の人と付き合う前の私。
 対岸にいるときは 橋を渡ってしまえば、付き合い始めてしまえば、幸せに違いないって思ってたのに。
 いざ渡ってみると幸せの分だけのドキドキ感や、温かい気持ち、痛い想い。いろんなモノを連れてくるから。

「なになに、香穂〜。もしかして、柚木先輩に言われちゃったりした?
 『君って可愛いよね』とか、『僕と付き合って欲しい』とか」
「えええ? な、ない! 絶対、ない!!」
「その焦るところに、興味が湧くけど」
「天羽ちゃん!」
「あはは! 香穂ってホントにからかいがいがあるんだよねー。いいよ、いいよ。突っ込まないでおいてあげるから!」
「つ、突っ込んだって、何も出ないもん!」

 ふくれっ面をしながら、天羽ちゃんを見つめる。
 確かに本当だもん。
 私と一緒にいるときは、先輩は、『僕』なんて言わないし、『君』なんて言ってくれない。

「そのうち、出てくるって。いろいろとね」

 天羽ちゃんはおかしそうに私の顔を見つめると、私の突き出した唇をキレイに磨いた爪で押し返した。
*...*...*
 帰り道。
 外の蒸し暑さがウソのような車内で、柚木先輩は軽くため息をつくと、目が疲れたのかまぶたに指を宛てた。

「えっと、お疲れさま、です。受験勉強ですか?」
「まったくな。俺に勉強を教えて欲しいなら、少しは下調べでもしてきて欲しいものだね。
 時間は有限だってことに気付かないやつらが不思議だよ」
「あ、はは……」

 先輩は私と2人きりになると、あっさり被っていた仮面を脱いで毒舌になる。

「ん……。全ての人が先輩のように要領が良い、ってわけでもないですからね」

 先輩から見たら 私を含め ほとんどの人は、ずっとずっと底辺で同じ場所を堂々巡りしている。
 ちっとも到達点には届かなくて、あくせくしてる。
 きっと先輩はその横をエスカレータに乗ってるかのように、するするとゴールしちゃうんだ。
 そういう人って、いるもん。私の10の努力を1の労力で済ませちゃう人。

「そういうお前はなにしてた? もうすぐ期末だろ?」
「う、それを言いますか……」
「中間の時は、『コンクール中だから』って言い訳があったけど。今度は何もないぜ?」
「えっと、頑張る。頑張ります!」
「あのね。世間様は、頑張ってる経過なんか見てないの。結果が大事なんだよ。何点取るか、順位は何位か、ってね」

 疲れのせいか、やや凄みの増した流し目で見つめられる。
 車内って、こういうとき苦手。
 睨まれたら、手を伸ばされたら、逃げ場がなくなる。

 案の定、先輩はスカートから半分出た脚に手を置くと、顔を近づけてきた。

「それともまた俺に言って欲しいの? 『俺、バカは嫌いだよ?』って?」
「い、いえ! あ、あの……」

『バカは嫌い』

 その言葉は記憶のどこかに飛んでいってしまうほどの その後に続いた行為を思い出して、私は勝手に赤くなる。

 あのとき……。
 一人で。
 自分でも触れたことのない場所に、先輩の指が来て。
 しなやかな指の導かれるままに、私……。
 小さな悲鳴を上げて、それから……。


 ダメ。今、そんなこと、考えてちゃ、ダメだよーー。


「あ、あの。言われないようにします、今度は、絶対」
「へぇ。俺のボーターも聞かないでそんなこと、言う?」
「え? 先輩のボーター、って……?」
「全教科90点以上、ってところかな? 基本だろ?」
「はい?」

 文系の教科はいいところで、80点、理系に至っては目を覆いたくなるような点数の私が、全教科90点……?
 ……ムリだ。
 このままこの話を続けても、勝ち目はないよね。
 ってそもそも柚木先輩に勝てたことなんて今まで1度もないけど。

「そ、そうだ。あのね、そう言えば、あの、柚木先輩、夏休みはどうしてますか?」
「夏休み?」
「はい。期末が終わったら もうすぐですよ、夏休み」

 そうだ。もう1週間も経てば夏休みだもん。期末が終われば、楽しい休みが待っている。

 天羽ちゃんや仲良しのユミちゃん、女の子同士で短い旅行に行ったり、ショッピングに行ったりするのもいい。
 久しぶりにお姉ちゃんとじっくり明け方までおしゃべりするのも楽しい。

 けど、……できれば。
 何年経ったあとでも、『楽しかったね』って笑いあえる想い出を、目の前の人と作れたら……。

 柚木先輩は大きくため息をつくと顔をしかめた。

「夏休みは別荘に行ってる。毎年、家の恒例になっているんだよ。避暑地の別荘で過ごすことは。
 バカバカしいよな。どこに行ったって暑いものは暑いのにさ」
「夏休み、ずっと、ですか?」
「たぶん、ね」
「え? 夏休み、会えないんですか?」
「── たぶん、ね」
「そっか……」

 うう、そうなんだ。
 ……ひゅるひゅる、って弾んでいたボールに穴があいて、急にしぼんでいく、そんな感じ?
 期末がどう、ってことよりショックかもしれない。

 そっか……。
 私は脚の上にある先輩の手に触れてぼんやりと考えた。

 先輩は家のことに関して、あまりたくさんのことは教えてくれないけど。
 私のような普通の高校生とはかなりかけ離れた お家なんだな、ってことは言葉の端々で分かっていた。
 だいたい、高校生が毎日黒塗りの車でご登校っていうのも、普通じゃないもん。

 ── だから、その分だけ、先輩の中における『家』っていう存在も大きいのかな、なんて。

 『夏休みのイベント特集』っていって、今日 天羽ちゃんが手渡してくれた号外の記事。
 みると、週末ごとに行われるイベントが全て網羅されていた。

 花火大会、海開き。深夜0時までライトアップされる観覧車。
 そ、そりゃ、先輩が受験生だ、ってことは頭ではわかってたけど。

 ん……。でもたくさんあるイベントのうち、一つくらい行けるかな、とは思っていたのに、な……。

「なんだ? しょぼくれた顔して」
「べ、別に、元気ですよ? ほら。オンナ友達を確保しまくろう、って思ってたところですよ?」
「へぇ」
「天羽ちゃんや冬海ちゃんや、クラスメイト。相手がいっぱいありすぎて困っちゃうくらい、かな?」

 きっと、寂しさを感じるのは、今じゃない。
 夏休み中、私は冷房も防音も充実している学院に何度も脚を運ぶだろう。── ヴァイオリンのために。
 そのとき、見慣れた景色の中で、見慣れた先輩の姿が見られないことに、寂しい、って感じるんだ。

「ふぅん。無理してそんなこと言って」
「無理してないもん」
「強がるなよ」

 いつの間にか私は、私の脚の上にあった先輩の手に触れていた。重なっている手に力が入る。

 どうしよう。どうしたら、いい?
 この手を離したまま、1ヶ月も、いられるのかな、私。


 ……一緒に、いたいのに。



 この、とらえどころのない、大きな子どものような人。
 意地悪で、性格が悪くて。
 器用なクセに、すごくすごく不器用なこの人を。
 ── もっと、近くに感じていたいよ。

 飲み込んだ唾液が、のどの奥、こくりと不自然な音を立てる。
 聞こえちゃったかな。……恥ずかしい。

「先輩……」
「なに?」
「じゃあ……。今夜、一緒に、いたいです。……あの、先輩が、いいよ、って言ってくれるなら」

 自分の口から出た言葉が、思いがけず、車内に大きく響く。
 運転席の白い制帽さんは、なにも聞いてないよ、と言わんばかりの態度で、整然と目の前を見つめている。

 先輩の目は 私を捕らえると おやおやと言いたげに細められた。

「ふぅん。……準備万端、って?」
「ち、違います!」
「違うんだ」
「あ、えっと、違う、っていうか、違わない、っていうか……。万端ではないけど。……いい。先輩となら」

 今になって振り返ると。
 音楽だけじゃない。勉強だって、人生経験だって。
 きっと私よりもずっとずっと先を歩いている先輩に、私は何一つ敵うモノなんてない。

 だから、コンクールが終わって、お互いの気持ちを確かめた後、柚木先輩が強引に、私を抱こうと思えばいつでも抱く機会はあったはず。

 けれど先輩はそうしなかった。

『お前がそういう気になるまで待っててやるよ』

 ゆっくり。そんな言葉がぴったり。

 先輩は、先輩自身の気持ちを抑えて。
 ゆっくりゆっくり、私が少しずつ先輩を求める気持ちが育つまで待っていてくれた気がする。

 初めて、という不安を越える、この人と一緒にいたい、という気持ち。

「わかったよ。……田中、悪いけど、いつも家で使うホテルに車、回して?」
「梓馬さま、今夜は……」
「いいから」
「……かしこまりました」

 柚木先輩の目が、ちかりと光る。
 運転手さんはそんな先輩の様子をフェンダー越しに見て。
 軽く口を引き締めると また前を見つめ出した。

 今夜もまた柚木先輩の家で、なにか行事があるのかな、と感じたのは事実。
 でも。

「先輩……」


 安心しろ、と握られた手が言う。
































「……わぁ……。この部屋、素敵ですね」

 品の良い、シティホテル。
 ロビーさえも普段の私なら敷居が高い感じがする。
 柚木先輩は物慣れた態度でキーを受け取ると、エレベーターのボタンを押して。
 落ち着いたベージュ色でまとめられた1室に、私たちはいる。

「ね。外、見てもいいですか?」

 ここから見下ろす、私と先輩が生活している街はどんなだろう?
 きっと小さくて、ちっぽけで。けど、とても大切なモノ。
 同じ街に住んで、同じ学校に行かなかったら、出会わなかった人。大好きな人が住んでいる街。

 不思議。だけど、嬉しい。

 音を立てて、レースのカーテンを広げる。
 ── そこには。

「すごい……」

 このホテルがやや高台にあるからかな。
 日頃見る星空とはまるで違う満天の星が私を覗き込む。
 眼下には星を隈無く反射しているような、小さな明かりが無数に点在している。

 ……まるで、明かり一つ一つにそれぞれのお家の夕食の匂いがまとわりついているみたい。

 先輩はタイを軽く緩めると、私の背後に近づいてくる。
 そして、私の背中を抱きかかえるようにして、窓の向こうの景色を眺めた。

「お前の家はあそこあたりか?」
「あ、そうですね。学院を目印にすればわかりやすいですね。先輩の家は、あっちの方、かな?」
「見えないぜ、ここからじゃ」
「ん……。離れてますよね」

 家と家との距離が、まるで私と先輩との家の違いを表してるようで、私はしゅんとなる。

 好き、だから。
 だから、いい、って。
 今の状態になることを、私は心から望んでいるのに。
 大好きな人の身体がすぐ近くにあるのに。

 ふわりと浮かんでくる、この泣きたくなるような不安な気持ちを、なんて言うんだろう。
 肩に私の髪じゃない髪が流れ落ちる。すぐ近くに先輩の顔がある。

「……香穂子」
「はい?」
「……待ったよ、俺は」

 低い低い声。強い気持ちが込められるような熱い声がする。

「先輩……」
「お前とこうなることを 子どもみたいに 待ちわびたよ。……全く、俺らしくない」
「あ、ありがとう、ございます……」

 思えば、先輩は私とこうするために何かしらの聞こえない言葉を発し続けてくれていたのかもしれない。

『その鈍いところがお前のいいところだよな』

 以前、土浦くんにもため息混じりに言われたことがあったっけ。
 今になってみれば、その苦笑の中に込められたもう一つの意味がわかる。
 だから、人の機微に長けている先輩からしたら、私の態度は まどろっこしいくらいの反応だったんだろうな……。

「想像の中で何度も抱いて……。今夜教えてやるよ、どれだけ俺が我慢してきたか」
「もう、先輩ったら」

 先輩の腕の中、振り返る。
 先輩の言葉に、恥ずかしくなって、茶化そうとして。

 そこで出くわした真剣な目の色に、何も言えなくなる。
 ── 男の人。
 初めて本当の先輩を見たときと、同じくらい、ううん、それ以上の恐怖が浮かんでくる。

 男の人の色気。凄み。

 ああ。
 今夜 私は頭の先からつま先まで ぱりぱりと音を立てて 先輩に食べられちゃうのかな。

 私が緊張しているのを感じたのだろう。
 目の前の人は、今度はどうやったらこんな風に微笑えるんだろう、ってほど、そつのない笑顔で微笑みかけてくる。
 上品で。何の計算も含まれていないような、限りなく甘い顔。

「怖いの? 日野さん」
「……はい? ひ、日野??」
「僕は君を怖がらせるつもりなんて さらさら ないけどね」
「日野さん、って言っちゃダメ、です。いつもみたいに、名前で呼んで……っ」

 反論は唇に塞がれる。

「── 怖がらなくていい。……香穂子」


 そのまま私を抱く腕の力は強くなっていく。
 一体、この優しい物腰の先輩の、どこにこんな力強さが眠っているのだろうって驚く。

 甘えて、近づいて。
 そのたびに意地悪く言い返されることに慣れた今。
 彼が純粋に微笑んでいても、どこか身構えてしまうところができたような気がする。

 待っててやる、って言葉に甘えて。
 先輩が私に触れることに慣れていって。
 私は、勘違いしてたかもしれない。

 キスと、軽く私に触れること。
 その狭間をずっとずっと繰り返していくんじゃないか、って。
 ── でも、違う。

 先輩の腕は、いつもの強さとは違う。全霊で掻き抱いてくる。

「……ん……」

 背骨が軋んで小さな音を立てても、先輩は私を離しはしなかった。

「……どうして欲しい……? 言う通りにしてやるから」

 歯列をなぞられ、上顎の内側をなぞられた。
 どこからか、身体中がさざ波のようにざわめき立つのがわかる。
 私の舌は攫われるように先輩のそれに絡めとられてしまう。
 そのまま吸われて、身体だけじゃなくて意識までもが先輩に持っていかれるのではないか、という焦りが浮かんで。

 それほど先輩のキスは、私をどうしようもないほど甘くそそった。

『香穂子』

 柚木先輩の声は私をとらえたまま、離さない。
 頭はカッっと熱いのに、聴覚だけは研ぎ澄まされてる。私の耳の後ろのほうで低く声が響いてる。

 いいのかな……。
 全てを解き放した先輩の前で、私も私の全てを見せてしまっても、いい?
 拙いけど、これが私の全部、だから。

 いつの間にか私の身体は下着だけになって、大きすぎるベットの上にそっと置かれている。

 熱い舌は生き物のよう。
 表現できない熱い感覚が私の首筋を這っていく。
 キスってどんどん思考を奪っていくんだ。

「── 抱くよ、お前を」

 とぎれとぎれに先輩の声が聞こえる。
 優しい手つき。唇が身体中を駆けめぐる。耐えきれなくなって声を上げる。
 貪欲な私。
 もっと、って身体が強請る。── もっと、あなたの近くにいきたい、って。










 二人して眠っている間に、雨が降り出したらしい。
 窓を穿つ雨だれが静かに五線譜を作る。



 先輩が生まれた季節のような雨降りの中、私たちは今までより、ずっとずっと仲良くなった。










 そっと動かした脚が思いの外大きな音を立てる。
 糊の効きすぎていたシーツが、今は私の脚の思い通りに形を変えた。

 私の隣りに密着していた温もりは今はなくて。
 先輩はベットサイドでシャツをはおると、いつものように品良くネクタイを結んでいる。

「先輩……?」
「まだ寝てろ。早いぞ」
「ん……」

 身じろぎをする。
 はらりと揺れた髪の中に先輩の香りを見つけて、どきっとした。
 いつものキレイな香りじゃない、男の人の香りだったことに、私はまたあわてる。

「先輩。あの……、ありがとう」
「バカ。それって普通、男のセリフだろう?」
「ん……。でもいいの。言いたくなった」

 先輩は、何もかも、まるでなかったようにシャツを着ている。
 そんな背中が、愛しい、と思うのも、私の中での初めての感情。

「先輩……」

 目の前の人は、続きを待つように首をかしげる。

 言いたいことは、いっぱいある。聞きたいことも。
 話したいことも、いっぱいある。これまでのこと、これからのこと。

 でも、今、言わなくてもいい。
 きっと、私と先輩の間にはこれからもたくさんの時間が流れていくはずだから。




「夏休み、私、頑張ってますね、ヴァイオリンを」




←Back