脳内の中心で、声がする。
 ── 触れるな、と。
 触れたら、溺れる。離せなくなる。
 それは同時に、こいつの不幸と引き換えになるから、と。

 ── けれど。

 『今夜、一緒に、いたいです』

 泣き出しそうな顔でそう告げられて、これ以上自分を抑えることは不可能だった。


 一昨日 祖母に命じられて活けた花を思い出す。
 しつこいほど妖艶な香りのする緋色のしゃくなげ。
 ああ、明後日は、どこかの令嬢と会席って話だったな。だからか。

 きっと令嬢の雰囲気を、と求めた花は、洋花として盛るのに相応しい。
 俺好みの漆器、どれにも合わない。
 毒々しい、派手すぎる花。
 ── あいつ……。香穂子とは全く対照的な花。

 俺は音を立てて花ばさみを閉じると、目の前にある小さなランプで茎焼きをする。
 ぶすぶすという水分の飛ぶ音に続いて、枯れた匂いが辺り一面に広がる。
 俺は完全に茎が燻されたのを確認すると、ゆるゆると固い茎を花頭から矯めていった。



 ── いつか誰かに手折られる花なら。
 俺が、この手で。


 いつか泣かせることになっても。
 そして、いつか別れることになっても、だ。


 今のお前をそのまま見過ごすなんて、俺にはできない。


 みしり、と手の平に違和感を感じて見下ろすと、緋色のしゃくなげは首のすぐ下で折れていた。
 花首だけの花はどこか生々しくて見苦しい。
 俺は残骸を脇に置くと、新しい花に手を伸ばす。
 そして、手順通り 花の正面を見極めることから始める。
*...*...* Doll *...*...*

「梓馬さん、今日は朝方お帰りだったということですけど。今日がどれだけ大事な日かおわかりですね?」

 朝の食卓。
 言葉遣いは丁寧なものの ひどくトゲのある口調を秘めて、お祖母さまは俺の顔をにらみつけた。

「大丈夫ですよ。会食は今日の11時からでしたね?」

 名前も歳も。顔さえも曖昧な、令嬢。
 柚木家に相応しいか否かで決められた、それだけのオンナ。
 ああ、確か、あいつと同い年だったかな? そこだけはなんとなく覚えている。

 香穂子と一緒の夜を過ごして。
 あいつの匂いを身体中にまとわりつかせて。
 ── 全く、俺は何をやってるんだろうな。今日は別の女とお見合い、か。

「お、お兄さまは、夏休み前の打ち上げがあったんですって。
 ね? お兄さま。確か火原さん、って方からお電話があったような……」
「雅は黙ってらっしゃい!」

 お祖母さまはするどく言い捨てると、手にしていたナフキンを握りしめテーブルの上においた。

「……あなたは殿方ですからね。傷つくのは女性の方でしょう。そのことは気にしていません。
 ただ、梓馬さんが柚木家の名を貶めるのが気に入らないのです」

 雅は申し訳なさそうに俺に目配せをしてくる。俺は軽く頷くと、お祖母さまの方へ膝を向けた。

「たとえ三男の嫁とはいえ、一般の方では柚木家にふさわしくありません。
 遊ぶのは結構ですが、立場をわきまえて行動なさい。決して深入りしないように」
「わかってますよ」
「本当ですか?」
「ええ」
「それは結構。では時間までゆっくりと身体をお休めなさい」
「はい」

 お祖母さまはお手伝いの人に椅子を引かれると、姿勢良く立って部屋を後にする。
 ぴんと重りを張ったかのように、背縫いの線がまっすぐ遠ざかっていく。
 それはそのままお祖母さまの権威を維持している小道具のようにも見えてくる。

「お兄さま……」
「悪かったな、雅。お前にまで気を遣わせて」
「……昨日、お兄さまが一緒にいた人って……香穂子さん、でしょう?」

 俺は雅の質問に答えることなく、目の前のカップに手を伸ばした。

「それにしても、ひどい! お祖母さま、なんてことおっしゃるの?
 男の人なら遊んでよくて、女は遊んじゃいけないの? もし私が遊ばれるって立場になったらどうなる、ってお考えになったことあるのかしら?」
「俺たちは、お祖母さまの持ち駒だよ。拒否権はない」
「え?」
「だから雅も男遊びを知らないうちに結婚させてしまう、ってお考えなんだろう? わかりやすいよな」
「そんな……」

 カップに注がれている紅茶。
 乳白色の器に金色の輪が美しい。

 そう言えば、俺の誕生日に、あいつも淹れてくれたことがあったな。
 俺が好きそうな茶葉があったと言って、嬉しそうに勧めてくれたお茶。
 香穂子を縁取るように浮かんだ湯気さえも思い出せる。

 ── 同じ飲み物なのに、まるで違う味わいに感じるのはどうしてだろうな。

 身体が軽い倦怠感に包まれている。
 当たり前、か。昨日ほとんど寝てないのだから。

 想像以上に柔らかい肌。熱い中。
 何度達しても、貪欲に求め合って。

 心も身体も最高の相性だと知ってしまった今。
 なんとかそれをつなぎ止めたい、続けたいと願うのは、人の原始的な本能のような気がする。

 なのに、それが、できない?
 プライドという、本能とは対極の場所にいるモノのために。

 そう考えて唖然とする。
 一体俺はどうしたっていうんだろう。
 プライドや家。
 そういうものに縛られて生きていく人生を当然だと思っていたんじゃなかったのか……?

 今まで通りの生き方をするということは、つまり、香穂子とは全く交差しない、別の人生を歩むことを意味する。
 そう考えるだけで、取り返しの付かない大きな落とし物をした気になるのは──。

 俺はテーブルにカップを戻すと雅に笑いかけた。

「俺は少し眠ってくるよ。まだ時間もあるしね」
「お兄さまっ……」

 気が抜けたように座ったままでいる雅の頭を撫でていく。

「……心配するな。お前は兄さんが守ってやるから」
*...*...*
「あとは若いお二人だけにして……」
「そうですわね。頼みましたよ、梓馬さん」

 鶏たちのざわめきのように 俺と令嬢以外の人間はかしましい。
 俺は 内心を気取られないように微笑むと 腰を浮かした。

「わかりました。……さ、礼乃さん、行きましょうか?」
「……はい」

 相手ははにかむようにうつむくと、俺の後を付いてくる。
 ── 大きな、人形。

 二時間近くも一緒にいるというのに、俺と令嬢の間にはなんの感情の交流もないような気がする。

 ま、当たり前か。
 俺も、本当の俺を出してないのと同様に、この令嬢も分厚い仮面を貼り付けているのかもしれない。

「礼乃さん、今日は疲れたでしょう?」
「……はい、少し」
「振り袖も着慣れないと苦しいものだから。ましてやこんな季節ですからね」

 四季の花々が美しく咲きそろう お祖母さまお気に入りの中庭。
 蒸し暑くどんよりとした空気が そのまま水面に反射して、どこか抽象画のような曖昧な花色を映し出している。

 ── 今頃、香穂子は何をしてるんだろう。

 明け方近くあいつを自宅まで送っていって。
 薄明かりの中で見たあいつの顔は、いつもより白っぽくて儚くて。幸せそうな顔をして微笑んでいた。
 決して花器に活けることができない夕顔の花みたいに。

 隣りにいる令嬢を振り返る。
 こんな原色に近い茜色は、香穂子には合わないかもな。

「あの……。梓馬さん?」
「はい。何か?」
「梓馬さんは、とても音楽の造詣が深い方と聞きました。
 フルートをなさるとか……。礼乃もぜひお聴きしたいのです」
「ああ、音楽、ですか」

 必要以上にグロスで光っている唇が 『音楽』という言葉を告げた途端、俺の感情にぴん、と膜が張ったのが分かる。

 フルートと一緒に響く音色は、香穂子のヴァイオリンだ。

 一緒に演じて、一緒に響かせて。
 俺の音色がキレイだと言って笑って。自分の音が出せないと言って しょげて。
 あいつ、俺がフルートを奏でるたびに、小さな子どもみたいにころころと表情を変えたな。

 そして。
 ── 俺は、それを見るのが何より嬉しかった。
 フルートを習い始めたときの感情がそのまま浮かんだ。

 たかだか1ヶ月前のことなのに、この感情は俺の中で酷く遠くにあるもののように感じる。

 もう一度、俺の人生の中で、コンクールの時のような昂揚を味わえるときはあるのか。
 ── あいつ、なし、で、さ。


「梓馬さん……?」

 目の前の人形は返事のない俺を不思議そうに見上げる。


 ごめんね。……だから、悪いけど。
 君に、音楽の世界に、立ち入って欲しくないから。


「ええ、そうですね。そのうちお聴かせしましょう」
「え? 今、ではだめですか?」
「最近受験勉強ばかりで、フルートの方は練習不足なのです。
 だから今の僕が作る音は きっとお耳汚しでしょう。……さ、そろそろ部屋に戻りましょうか?」
「はい……」


 可もなく不可もなく。
 俺はこの日、柚木家の仕事を遂行した。

 ── 礼乃という令嬢の気持ちが、俺に流れなければいい。それだけを思ったり。
 全く。
 他力本願っていうのは、俺の大嫌いな代物だったのに、呆れるぜ。



 自室に戻って。
 俺はネクタイの結び目に指をかけると、軽く引っ張った。
 手には携帯。履歴で一番最初に出てくるあいつにリダイアルする。

「あ、柚木先輩! こんにちは」

 羞じらいの色を滲ませた声。
 昨夜耳元で聞いたのとは違う、少女のような声。

 これから、この先。
 ── 俺が何度抱いても、こいつはこいつのままで。
 こいつの中に、俺の痕跡は残らないのかもしれない。

 きっと、音楽と同じだ。
 俺の色に染めようとしても染まらない。
 俺を惹きつけて離さない、確固たる個を持っているこいつだから。

 って、なに当たり前なことを考えているんだろう、俺は……。
 どれだけ願ったとしても、人が人一人の人格を 完全に包含することなど できるはずがないのに。

「お前、今、何してたんだ?」

 やましいことがある人間ほど、周囲の人間を疑ってかかるという。
 案外この説は正しいよな、などと自嘲気味に思う。

「譜読みしてましたよー。王崎先輩がオススメだよ、って貸してくださったの」
「へぇ」
「王崎先輩のメモがついてて、わかりやすいんです。今度一緒に見てくださいね」
「今度?」
「あ、そっか……。夏休み、会えないんでしたね……」

 どういうんだろうな。
 数時間、半日会わないだけで、これほど想いが募るものを。

 1ヶ月以上も会わないなんて、俺自身が辛抱できるのだろうか。

「あ、あの、平気です。私、……ヴァイオリンと頑張ってますから」

 慌てて言う香穂子に言い返す。





「俺が平気じゃないんだよ」
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