*...*...* Moon *...*...*
 会えなくなって、どれくらい経ったんだろう……。


 なんて。
 私は自分の部屋に置いてある卓上のカレンダーを見て苦笑する。

 ── まだ、たった、一週間しか経ってないのに。

『夏休み、頑張ってますね、ヴァイオリンを』

 一緒に過ごした夜、張り切ってそう告げたはずなのに時間は恐ろしいほど進んでくれない。

 このゆっくりさ加減は、恨めしいくらい。

 コンクール中はどれだけ時間があっても、足りない、って思って。寝る時間を確保するのもやっとだったのに。
 始まったばかりの夏休みは、まだ1ヶ月近くも残ってる。

 ……いいんだもん。こうなるのは、ある程度予測してたから。

 夏休み中にも関わらず私は、何度か学院に脚を運んでは、金澤先生に助言をもらいながら、9月から始まる音楽科の授業のための下準備をしていた。
 今日も金澤先生の楽典の参考書を借りる、という名目で学院に来ている。

 毎日の殆どに何かしら予定を入れて。
 予定と予定を糸で繋いで、柚木先輩に会えないでいる時間を普通の状態にしている。

「なーんかさ。若いっていいよなー。人に隠す、ってことを知らない。『色に出にけり』、って古人はよく言ったもんさ」
「え? えっと……。それがどうして『いい』んですか? 隠す、って……何を?」
「いんや。まぶしい、ってことさ。── こっちが妬いちまうくらいにさ」
「まぶしい??」

 音楽室の横に備え付けられている準備室の中、金澤先生は私の手に数冊の参考書を手渡すと、いつもより長くなったヒゲをさすった。

「ありがとうございます。これで全部、ですか?」
「おおっと、全部じゃない。分割、だな。読み終わったらまた来いや」
「え? あ、あの、私、多くても、全部目を通してきますよ?」
「一括で渡したら、お前さん、なかなか学院には来なくなっちまうだろ?」
「???」

 えーっと……。
 確かに学院まで足を運ぶのは面倒と言えば面倒だけど、家から5分くらいだもん。来なくなっちゃうってことはない。
 んんん?

 金澤先生は私の顔に浮かんだ表情を見て、苦笑しながらタバコに火を付けた。

「金澤先生……?」

 ええっと……。
 なんだろう、リリと出会って、コンクールに出て。
 柚木先輩やみんなの助けがあったから、こうして音楽科に行きたい、って今、頑張ってるつもり、なんだけど。

 もしかしたら、小さい頃から音楽に触れていた人たちと一緒の授業を受けていくって、私の想像以上に大変なことなのかな……?
 音楽の道に進む、って決めたとき、金澤先生は柚木先輩と一緒にエールを送ってくれたのに。

 そう言えば、金澤先生だけは、

『結構大変だぞ? プロっていうのは』

 なんて、おどけた調子で厳しいこと言ってたっけ。
 だから、金澤先生はこんな歯切れの悪いこと、言うのかな……?

「った」
「こら、そんな顔しなさんなって。……ときに、お前さん、高2の夏休みだ、っていうのに、こんなところ来てていいのか?
 あのうるさい天羽や、カレシと遊ぶ予定はないのか? ん?」

 金澤先生は私の頭に手を置くと、長身を低くかがめるようにして私の方に顔を向けた。

「はい。天羽ちゃんとは今晩会いますよ? 冬海ちゃんと一緒にパジャマパーティするんです。
 ……あ、今、先生、参加したい、って思ったでしょ?」
「んなワケあるか。発展途上の青くさい女なんて興味ねぇよ。
 ……で? カレシさんはどうしてるんだ?あいつ、ああ見えて結構束縛しそうなタイプだと俺は踏んでるがね」
「カレシさん……」

『カレシ』と聞いて、私が思い浮かべるのはただ一人の人。

 けど、柚木先輩が別荘へ出かけてしまってからは、電話もメールも何もなくて。
 きっと天羽ちゃんなら、『こっちからの行動あるのみ』ってハッパをかけてくれるだろうけど、
 私はどうしても遠慮の方が先に出てしまって、何一つ行動できないでいる。

 柚木先輩の周りの誰かが私との電話を聞いていたらどうしよう、とか。
 そのことを先輩が責められたら、どうしよう、とか。

 ううん、それ以前に。

 柚木先輩が迷惑って思うんじゃないかな、とか……。

 一度抱かれただけでは分からない。
 そういうことをしたから、余計分からなくなることだってある。

 ホテルのでの柚木先輩は、今までで一番優しかったと思う。
 少しずつ、進んで。私の身体を気遣って。

 私もそのことに、何の後悔もしてないはずなのに。

 翌朝目にした柚木先輩の憂いを含んだ表情がすごく気になった。

 (まるで、私を抱いたことを後悔してるみたい……)

 私、また、自分では分からないうちに、何かとんでもない間違いをしちゃったのかな?
 先輩が、イヤがるような。

 ── 考え過ぎかな? ……そうだったら、いいのに。

 しばらく言葉が出ない私を金澤先生は観察するかのように目を細めて見ている。

「やれやれ。……ったく。『触れなば落ちん』って風情だな。あいつも罪作りな」

 私はかぶりを振る。
 うう。
 うっかり、まるで金澤先生が、柚木先輩と私が付き合っていることを全て知ってるかのように考えちゃった。

 けど。
 ── 柚木先輩とのことは、言わないんだもん。絶対。私の口からは。

 私は金澤先生に笑い返すと腕の中にある本を抱え直した。


「ご心配なく、です。……私、カレシさん、いませんから」
*...*...*
 夕食も終わって。
 冬海ちゃんは、ご飯もお風呂もどうぞ、と言ってくれたけど、今回は純粋にパジャマパーティを楽しんでみよう、ということで、私は軽くシャワーも浴びて、お気に入りの服に着替えた。
 レースのキャミソールと、シフォンのフレアースカート。
 夏に、目に涼しい色を着るって本当に気持ちいい。
 それだけで周りの空気、2、3度はクールダウンできそうな気がする。

「天羽ちゃん、準備オッケイだよ? 9時くらいにウチの玄関で待っていればいいかな?」

 携帯に話しかける声も自然と高くなる。
 天羽ちゃんもこの日を楽しみにしてたのか、弾んだ声を返してくれた。

 やっぱり、この3人のメンバーってことは、コンクールの話題が中心になるのかな?
 ふふ。また天羽ちゃんは、ネタ探しにやっきになるのかな?
 月森くんの自宅での会話が気になる、って豪語してたから。
 直接聞いたら? って言ったら、もう聞いたよ、ってばっさり言い返された。
 そのときの様子を想像して冬海ちゃんと大笑いしたのも、夏休みに入る直前だったっけ。懐かしいな。

 不意に、チクリ、と胸が痛む。

 コンクールと聞いて真っ先に思い出すのは、今、会いたい人。でも、会えない人。
 金澤先生から借りてる音楽科の教科書を読めば、あの人の声が響いてくる。
 ヴァイオリンを奏でても、そう。

(すべてのことが あのひとに つながっている)

 私は携帯の表示画面を確認する。
 まだ待ち合わせの時間には早いけど、携帯だけ持って、ちょっと外に出ていよう。
 ヴァイオリンや楽譜。音楽史の本。
 音楽に関わるものが山積してるこの部屋だと、余計、先輩のこと、考えちゃうんだ。

「あ、あれ? 時間変更、かな?」

 突然手にしていた携帯が肩を震わせ出す。
 私は画面も見ないまま親指でボタンを押した。

「天羽ちゃん、どうしたの? 時間変更?」
「……お生憎さま。俺だよ」

 電話口から響く声。
 ずっと、聞いてなかったような気がするのに、聞いた途端、距離も時間も縮む声。

「先輩……」

 ……話したいことはたくさんあるのに。何から言っていいかわからない。

 私のバカバカ。日頃、先輩に向かって浮かんでくる言葉を少しでもメモっとけば良かった。
 そうしたら今、こんなにあたふたすること、なかったのに。
 ええっと……。とりあえず、今、メモなんか、ないから……。
 ……どうしよう。何から、言えば、いいの?

 電話の人は、優しい口調で。
 けど、その中に秘めた押しの強さはそのままに、耳元で囁く。

「ああ、今から迎えに行くから。時間、空けておいて」
「は、はい? あの、私、今日は天羽ちゃんと約束が……」
「人気者の日野さんなら、1度や2度キャンセルしたって、また次の予定が入るでしょう?」
「へ? そ、そんな……」
「とにかく、俺は行くよ。どっちを取るかはお前次第。じゃあな」
「ちょ、ちょっと、待っ……。あ、切れた……」

 耳に残るのは、通話の終わった電子音。
 私は慌ててリダイアルを押して、天羽ちゃんの携帯に連絡を入れて。
 察しのいい天羽ちゃんは、しばらく絶句した後、明るく許してくれた。── 今度、ランチをおごるように、と笑って。

 私は携帯を机の上に置くと、大きく息を吸い込んだ。
*...*...*
 指定された時間に自宅の玄関前で立っていると、ヘッドライトがさらさらと綺麗な糸を引いたように近づいてきた。
 見覚えのある黒い車は存在を知らしめるかのように、赤いハザードランプを点滅させて停まる。

 いつもは恭しく運転手さんが開ける後部座席のドア。
 今夜は柚木先輩自身がドアを開けると私の方に脚を進めた。

「柚木先輩……!」
「香穂子、おとなしくしてたか?」

 車のライト以外は明かりのない夜。
 確かに先輩が言うように、夜は闇という魔法で、いろんなものを覆い隠してくれるかもしれない。
 ── 私の羞恥心さえも。

 柚木先輩は私の頭を軽く胸に押し当てると、背中に手を宛てて車内へといざなった。

 その雰囲気が、暖かみが一週間前と変わらなかったことに ほっとする。
 一週間で劇的に変わるもの、というのは、この世には少ないだろうけど。
 今の私は、そういう存在が絶対無い、と言い切ることができなくなってる。

 たとえば、先輩へ向かう私の気持ち。
 辛抱していた分、それはより大きさを増して、強くなってる。一週間前とは、明らかに違うもん。

 先輩は、ゆったりとした白いシャツと、ブラックのスラックスを身に着けている。
 さらりと長い髪は夜見ると、もっともっと艶を増しているよう。

 綺麗──。

 平安の昔、夜に光がなかったころ、美人の条件は髪の艶だった、というのも、納得できる。
 それほどの存在感。
 髪に縁取られた白い顔はゆったりと私を見つめ続ける。


 ……って、私ってば、柚木先輩、男の人なのに、なに女の子を見てるような視点で考えてるのーー。

 ばばっと赤くなった頬を隠すために、私は窓の外に目を遣った。

「……なに? 香穂子、もっと見ててもいいんだぜ?」
「ご、ごめんなさい。久しぶりだったから、つい、見ちゃいました……」
「その分、俺もお前のこと、見ていられるだろ?」
「恥ずかしいから、私のことはいいの。……えーっと、あの、柚木先輩? 私たち、どこへ向かってるの?」

 柚木先輩は私の質問に答える気がないのか、うっすらと笑うと、手の平を差し出した。

「香穂子。手、見せて?」
「え? 手?」

 柚木先輩は私の左手を掴むと指先を握りしめて。
 指の一本一本を労るように撫でていく。

「夏でも、指先の手入れはきちんとしろよ。指は自分の気持ちを語る一番雄弁な道具なんだから」
「あ、……は、はい」
「おやおや。これくらいのことで顔を赤くされちゃ困るね。今から、あのホテルに行こうっていうのに」
「え? そ、そうなんですか……」

 さらりと行き先を告げられて。

 私の中で、柚木先輩と一緒にいられることの嬉しさがしゅんと小さくなるのを感じる。
 ── 気持ちだけ、置いてけぼりにされた、ような……。

 ホテル、……あの、ホテル。
 ということは、やっぱり、そう、なっちゃうのかな……?
 この前の私たちのように。

 本当は、……そうじゃなくて。
 もっともっと話をする、とか、気持ちが通い合う、とか。
 気持ちの先に、そういうことがあれば、いいのに。

 まだ、私、先輩のこと、知りたい、のに……。

 身体だけが柚木先輩に慣れていっても、そんなのは私の身体じゃない。

 黙りこくった私の手を柚木先輩は、さっきと変わらずに握りしめている。
 車はするすると緩やかな勾配を昇り続けている。






 結局私は、先輩に対して何も反論できないまま こくりと息を詰めて 部屋に入った。
 この前柚木先輩と過ごした、ホテルの一室。
 照明を落とした部屋は、ふんわりと重力のない空間を浮かんでいるような、現実味のない雰囲気を醸し出してる。


 この前と唯一違うところは、部屋の真ん中に重厚感のあるグランドピアノが置かれているところ。


「柚木先輩……。あ、あの、私……?」
「ああ。ヴァイオリンはこれを使って?」

 先輩が目で指し示したサイドテーブル。
 そこにはいつも私が使っているのより一層艶の増したヴァイオリンが置かれていた。

「このホテルは柚木家で室内楽をするときによく 使うんだよ。だから一通り楽器はある。
 トリオもカルテットも出来るはずだ。お望みなら、吹奏楽もね」
「そう、なんですか……」
「……今夜はお前の音に浸りたい。……そう、思ってね」

 柚木先輩の指はなめらかに白い鍵盤の上を走っていく。

 ぴんと伸びた背筋。
 額に掛かる長い髪。
 開け放した窓から入る銀色の月の光は、ますます神々しく先輩を縁取っていて。

 ヘンデルのヴァイオリンソナタの主旋律が部屋中に広がる。

「先輩……」

 ヴァイオリンを構えながら、涙ぐんでいる自分に気付く。

 ヴァイオリンロマンスで付き合いだしてから。
 ゆっくり私を待っていてくれた先輩だから。
 きっと、これからも、私の気持ちだけを置いて、どこかに行っちゃうことは、ないよね?

 軽く指慣らしを済ませた柚木先輩は、私の顔を見て意地悪く微笑んだ。



「さて。お前の夏休みの成果を聴かせてもらおうか?」
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