*...*...* Shadow *...*...*
 別荘生活5日目。
 香穂子と最後に会ってから1週間が過ぎた。
 遅々として時間は進まない。
 自分で立てた受験勉強のスケジュールをこなしているときだけ、辛うじて、時計の針はくるりと一度回転する。
 それ以外の隙間の時間。
 それらはきっとどこか俺の見えないところで、歩みを止めているのではないかと思うほど。

 携帯は持ってきたが、受験勉強をしている俺のことを気遣っているのか、香穂子からの連絡は一切なかった。

 入ったメールは火原から2通と、あとは、クラスメイトからの数通。
 彼らは全員、学院附属の大学に行くことがほぼ内定しているからか、暢気で屈託のない内容ばかりだった。

『ヤッホー。柚木、元気? おれは相変わらずだよ。
 大学も内定してるでしょー? とゆーことで、毎日のようにオケ部に顔を出してる。
 結構、オケ部の後輩って人使いが荒いんだ、って分かったよ。(^^;)
 柚木は勉強頑張ってる? 柚木なら絶対大丈夫だって。おれが保証する(^o^)
 じゃあまたな』

 顔文字がいっぱいの火原のメール。
 文面から火原が飛び出してきそうな勢いだ。

 考えてみれば、音楽科から、経済だの経営だの、全く異なる部を受験することはかなり特殊なことだともいえる。
 学院では全く授業がない理系科目も独学で理解し、ある程度まで実力を上げておかなくてはいけない。
 でも。そもそも、こうなることは、全て俺の想定内で。
 学院の音楽科を受験するときから、柚木家の暗黙の了解でもあったから。

 ……俺がこういう高三の夏を送ることも、分かり切っていたわけで。

 実際、高校レベルの数学なら、基本的な論理思考ができれば、大して難しいモノじゃない。
 想定外、だったのは、音楽の道に進みたいと真剣に考え出した、香穂子との付き合いだろう。

 ……諦めることには慣れていたのに。
 ピアノの時もそう。勉学でもそう。
 何かしら兄より秀でたモノを自分の中で見つけたとき。
 俺はひっそりと墓を堀り、そこに埋めて、優しく砂をかけてきたのに。

 ── 香穂子だけは見過ごすことができなかった。
 何度も諦めかけて。
 そのたびに耳に飛び込んできたのはあいつのヴァイオリン。
 素直な音色の前に、俺も素直になるしかなかった、から。

 俺がメールの礼と近況を短く伝えると、とって返したようにメールが来た。
 ……全く。このレスポンスの速さは火原らしいよな。

『そうそう。そう言えば、今日学院の音楽室で香穂ちゃんに会ったよ。
 香穂ちゃんの音を久しぶりに聴いたけど、なんか、コンクールの時と変わってた。
 土浦くんに似てるかなーって。ちょっと切ない系な感じ? おれには少し難しかったよ。(^^;)
 じゃあまたな』

「ふぅん……。なるほどね」

 俺は携帯を閉じると、椅子から立ち上がって窓の外に目を遣った。

 香穂子の作る音は、素朴で、力強くて。
 コンクール中、どんなキーワードのセレクションでさえ、どこかしら、清麗な音色を響かせていたはず。
 純真なばかりの、音を鳴らして。
 香穂子を気にかけている土浦が、感情を音に乗せる方法を何度も教えていたようだが、香穂子は首をかしげてばかりだった。

 ── それが。
 誰に教えられることもなく、そんな憂いを含んだ曲を演じられるようになったとはね。

 ……それとも。

「まさか、な」

 香穂子が憂いを含んだ理由が、俺であったなら、いい。
 俺がこんなにお前に囚われているのと同じくらい、香穂子も、俺に囚われていてくれたら。

 ったく、俺はどうしたっていうんだ?
 一人の人間にこれほどまでに溺れるなんて。

 俺はフルートを手にすると、部屋から続いているバルコニーへと脚をのばした。
 もしかしたら、手すさびに奏でることもあるか、という程度で手にしてきた楽器。
 コンクールの時のような、戦友という存在とは違う、相棒のような楽器。

 音楽とは、コンクールが終わる頃、おさらばだと思って。
 それからしばらくというもの、全く手にしない日々が続いていた。

 そんな夏の日、香穂子から音楽科転科の話を聞いた。

『私が音楽を続けたら、音楽が先輩と私を繋げてくれるかな、って……』
『は? 俺が音楽から離れることは知ってるよな?』
『知ってても……、それでも。そうしたい、って思ったんです、私』

 俺はまた少しずつ、フルートを奏でるようになったのは その辺りからだ。
 そのことでお祖母さまが苦々しい表情を浮かべていることは知っていたけど、ピアノを辞めたときと違って俺はフルートを奏でることを辞めることができなかった。

 土浦くんのような曲想。憂いを含んだ音色。

『お前さんなら、結構、辛気くさいのも好きかと思ってさ』

 以前俺の性格を見透かすような口調で金澤先生が俺をそう評したこともあった。

 俺自身、意外だったね。
 俺は周囲の評価が大切で。人受けする曲ばかりを奏でてきたから。
 自分の感情を吐露するために、楽器は存在するんじゃない。
 そう思ってきたのに。

 俺はフルートを口に宛てると、森を観客にしてフォーレの『子守歌』を弾き始めた。

 ── まるで違う。
 他者のために演じる曲と、己のために奏でる曲。
 古びたクリーム色のバルコニーには観客などいない。自分だけのステージだ。

 深い木立の中、音色はさらに幅を増して自分の耳に届く。
 脳内に刻まれている、ヴァイオリンの音が、反復するように広がる。


 ……もどかしいのはこんなとき。
 音に、あいつに、触れられない。


 ふと眼下に目を遣る。
 そこには運転手の田中が避暑地でもいつもと同じような服装で、熱心にボンネットを磨いているのが目に入った。

 今日は両親もお祖母さまも所用があるといって朝方、近くの駅へ送り届けたばかりだ。
 この週末は、俺一人。
 この間、彼が車を出す必要はない。

 俺の視線に気が付いたのか、田中は顔を上げると 俺の顔を見て一礼し 再び黙々と手を動かし始めた。

「ああ、ご苦労だね。田中もゆっくり休めばいいよ」
「いえ。いつ梓馬さまにご用ができても良いように、と」
「そう?」
「そうでございます」

 まじめくさった顔で返事をする田中に。
 ……別に柚木家への忠誠心を聞きたかったわけじゃない。
 田中の人生など今まで羨ましいと感じたことも、ない。

 でも、このときだけは。
 自分の生き方に何も不満を感じてないような悟りきった表情に 気持ちの奥を引っかかれたような気がした。

「……ふぅん。たとえば僕が、香穂子の家に用があると言っても?」
「おっしゃるとおりにお車をお出しいたします」
「……じゃあ。いつものホテルで例の準備をしておけと言っても?」
「すぐ手配いたします」

 田中は判で付いたような模範的な返事を返してくる。

「……分からないな。どうして?」
「それが梓馬さまの本当のご意志だと感じるからでございます」

 田中は腕を伸ばし、カフスに隠れていた腕時計を覗き込んだ。


「今から10分でホテルのご用意をいたします。日野さまのお宅までは約3時間必要でございます。
 今から15分後に出発できるようにご用意くださいませ」
*...*...*
 窓の外。
 夜のネオンが一筋の線になって、俺を追い越していく。
 俺はそれをひどく不思議なことのように感じる。

 今、俺を乗せた車は香穂子の自宅へと向かっている。
 この状況を、なかなか認識できないでいるからだろう。

 柚木家の使用人。
 指示したことを完璧に行う、整然とした主従関係。
 それ以上でもそれ以下でもない、人間。

『後ろは気にしなくていいから』

 その程度の扱い。

 思えば今まで。
 俺は 目の前の男に 人の話を聞く耳や 感情があるなんて考えたこともなかった。

 ハンドルを握る運転席の彼は、深夜に近づこうとする時間にも関わらず、真っ新な制帽をかぶり窮屈そうなネクタイを締めている。

 バックミラー越しに、目が合う。
 俺は笑った田中の目元に、深くはない皺が刻まれているのを知る。


「梓馬さま?」
「……なに? 田中」
「もし私が僭越なことを申し上げるのを許していただけるなら……」
「…………」
「私は、以前の梓馬さまより 今の梓馬さまの方が好きですね」
「……まあ、この場合は、『ありがとう』と言うべきなんだろうね」

 田中の業務の時間であるような、プライベートであるような、曖昧な時間。
 俺としても、学院の往復以外ではこんな風に田中を使ったことがない。

 堂々としているのが当然のような。
 いや、でも、多少、田中の話も聞いてやった方がいいのか……。
 主従関係のあるべき姿に、思案に、暮れる。

 田中は、俺の返事をこのままの会話を続けるための免罪符を得たと思ったのか、朴訥とした口調で話し出した。

「家柄もある。容姿もいい。
 普通の高校生と比較したら比べものにならないくらい、恵まれた環境の中で、
 梓馬さまはいつも憂いを含んだ表情をしていらっしゃった。
 あふれ出すような生気、というものが感じられませんでした」

 俺はアームレストに腕を預けると、座席に深く腰を降ろした。

「……いいよ? 続けて」
「いつもお兄さま二人を立てて立てて、黒子を演じていらっしゃるような……。
 時に、そのご様子がとてもお辛そうだとも拝察しておりました」
「…………」
「ところが日野さまとご一緒の時の梓馬さまは……。
 失礼ながらちょっとお言葉遣いは普段と違うものの、のびやかな、明るいお顔をされていました。
 それが、私はひどく嬉しかったのです」

 田中は話しすぎたと思ったのか、そこで一度 話を切って。
 オレンジ色に光ったスピードメーターを一瞥すると、再び深くアクセルを踏み込んだ。

「……田中は、どうして俺が明るい顔をしてると嬉しいの?」

 不思議な気が、する。
 今まで多くの人間が長兄次兄におもねってるのを見てきた。
 けれど、三男である俺の表情を見ている人間が家の中にいるなんて考えたことがなかったからだ。

「おわかりになりませんか?」
「ああ。わからないね」


 育った家庭がそうさせたのだろう、俺は人の機微にかなり敏感な方で。
 人から向けられる善意、悪意には、それが生まれたての萌芽の段階で状況を察することができる。

 この田中の意図はなんだろう。
 柚木家の三男という軽い立場の俺でも、何か使えるところがあると思ったのか……?




 返ってきた田中の答えはとてもシンプルで。
 そこには何の邪推も挟むことのできない、優しい口調そのものだった。



「私が梓馬さまのことを大切に思っているからでございますよ」
←Back