*...*...* Liar *...*...*
 ピアノのキーがヴァイオリンに混じって、高く旋律を響かせて止んだ。
 香穂子は深く息をつくと、あごからヴァイオリンを外す。
 いつも使っているヴァイオリンと違うからだろう。
 余計な力を入れたあごの部分は夜目にもかすかに赤みが差していることがわかった。

「……まずまず、か?」
「ありがとうございます。……嬉しかった」
「なにが?」
「先輩のピアノと一緒に ヴァイオリンを弾けるの」

 香穂子はヴァイオリンを丁寧にケースに戻すと、顔を上げた。

「今までフルートとしか合奏したことなかったでしょう?
 音楽科の人に、柚木先輩のピアノもすごいのよ、って聞いたことがあって……。
 いつか聞いてみたいな、ってずっと思ってたんです。……ありがとうございました」

 俺はネルの布で鍵盤を拭くと、そっとグランドピアノの蓋を閉じた。

 たしかに火原の言ったとおりだった。
 香穂子の音色は伸びやかな色彩はそのままに、微妙に解釈を変化させてきている。
 素朴で力強い音色の中に、迷い、がある。

 故意なのか、無意識なのか……。
 照明を薄暗く落とした部屋では、香穂子の細かな表情まではうかがい知ることができない。


「……で? 今夜たっぷり聞いてやるよ。お前がこの1週間、どう思って過ごしてきたか」


 俺は香穂子の近くにあるソファに腰を下ろすと、香穂子を見上げた。
 香穂子は一瞬戸惑ったように視線を浮かすと、再び俺の顔を見て安心して、とでも言いたげに微笑んだ。


「え? 私? そうですね……。
 あ、先輩の行った避暑地って、どんなところだろう、とか?」
「それから?」
「んー。あとは、先輩、受験勉強、がんばってるかな、とか?」
「それから?」
「え? えーっと、それだけ、です。あ、そうだ。先輩、お茶、飲みますか? 淹れてきます」

 じっと見つめられることに耐えきれなくなったのか、香穂子は身体の向きを替えて一歩俺から遠ざかった。
 俺はすかさず香穂子の左手を掴む。
 そしてバランスを崩した香穂子をそのまま自分の膝の間に座らせた。

「……わっ。き、急になにするんですか?」
「って、そんなわかりやすい香穂子の嘘を、俺が見抜けないとでも思ったの?」
「う、嘘じゃないもん」
「嘘だね。もし嘘じゃないなら、まだ続きがあるだろ?」

 香穂子の髪をかき上げる。
 小さな形のいい耳が、元気よく跳ねた髪の間にちらちらとほの見える。
 香穂子は俺の息がかかるたび、ぴくりと身体を震わせた。

「香穂子。いい子だから言ってごらん」
「ううん? 本当にそれだけ、です。私……。
 夏休み中、会えなくて淋しいな、とは思ってましたけど。今日、こうして会えましたし。大満足です」
「……強情だね」

 俺は香穂子の左耳を露わにすると、唇を落としていく。

 ── マズいな。……今夜はこの前のように、ゆっくりと進められないかもしれない。
 自分の思いのままに、香穂子を壊して。
 それも一度じゃ足りないだろう。
 貪欲に、何度も。
 痛がる香穂子の中に自分の身体を進めてしまいそうだ。


 思いの外小さな身体を抱きしめる。
 最終セレクション。
 舞台の上で見た香穂子は、ヴァイオリンの音色に添えて、香穂子の背中から光が差しているように大きく見えた。
 なのに、今こうして抱いていると、香穂子の背中は俺の腕の中、すっぽりと埋まるほど小さい。

 はじめは緊張で堅くなっていた香穂子の身体が、徐々に柔らかくなってくる。
 ひんやりと空調の効いた部屋の中、二人の体温が交わり出して、新たな温度を作る。

 香穂子はゆっくりと俺に背中を預けると、自分の脚に乗っている俺の指に触れ始めた。

「あの……。あのね、先輩……」
「いいよ、聞いてる」
「……思い過ごしだったらいいな、って思ってる。……先輩は、この前の夜のこと、後悔してる?」
「香穂子?」
「あ、あの! あの日、送ってくれた朝の先輩の表情が心配で、私……。先輩、暗い目をしてた、から……」

 香穂子は怯えたように身体を縮ませると、小さな子どものように俺の指をきゅっと掴んだ。

「私、初めてでよくわからなくて……。
 なにか 自分の気づかないところで 私、先輩が不愉快になるようなこと しちゃったのかな、って」
「……馬鹿」

 ふぅん。なるほどね。
 俺は安心させるように、もう一方の手で香穂子の髪を梳いた。
 ……これが香穂子の音が変わった理由、ね。

 ── バレるなんて思ってもみなかったな。
 俺はある種の驚きを持って、香穂子の髪を見ていた。

 俺が香穂子の嘘を簡単に見抜くように。
 香穂子も俺の嘘を軽々と見抜くんだな。

 あの日、俺は香穂子に不満があったわけではなかった。
 この日の午後、執り行われる例の見合いに、やりきれない思いを抱いていて。
 別に見合い相手はどうでも良かった。
 ただ、見合いという行為をする自分が薄汚いような、香穂子に対してひどく不誠実な気がしていた。

 おかしなものだ。
 今まで、諦めるべきものは、潔く何もかも捨てて。
 柚木家の一駒であるべき所作を当然のごとく行ってきたのに。

 ── 香穂子を抱いたことだけは、俺は俺自身を責め立てたくなるような自己嫌悪に追われ続けている。

 香穂子は俺の手の動きに安心したのだろう、さっきとは違う弾んだ声を返してきた。

「えっと……。私の勘違い、かな? ごめんなさい、ヘンなこと言って。もうこのお話はおしまい、ね?
 ……あ、お茶、淹れてきます」
「お茶はあとでね」
「え……?」
「── 待てないんだよ」

 背中越しに、香穂子のキャミソールを撫でる。
 再びぴくりと、今度はさっきよりも大きく肩が動いたところで、俺は直接キャミソールの中に手を入れると、ゆっくりと香穂子の肌を愛撫し始めた。

 優しい色の下着は、たわいなく包んでいた二つのふくらみを解放する。
 飛び出した突起は、それ自身が香穂子とは違う生を持った生き物のように息づき、堅さを増してくる。
 キャミソールは胸のふくらみの上、ちょうどよいところで止まった。

「……感じやすい身体だな。まだそんなにしてないのに」
「し、しらない……っ」
「見えるだろ? ほら。……いい色してる」

 俺はそれを持ち上げて香穂子に見せつける。
 当人は恥ずかしさが勝るのか、身を捩ると俺に横顔を見せる。
 ……ったく。
 その胸を突き出した体勢が、却ってそそる、ということを分かってるのか?



 触れながら、願う。
 香穂子の身体の中で、俺の触れない部分が一箇所も残らないように。
 俺の手の感触全てを、香穂子がくまなく記憶するように。

 いつか、手放すことになっても。
 俺の手が、この瞬間の香穂子を ずっと覚えていられるように。


 多分、顔を合わせてないから、香穂子は気づかないだけだろう。
 ── 俺は、いつまで自分の状況を偽り続ける?



 俺は照明を落とすと、香穂子を抱いてベッドへと向かう。
 香穂子はされるがままに穏やかに俺の手に従う。


「そう言えば、今日ね……」
「なに?」
「学院に行ったとき、金澤先生が、しげしげと私のこと見てた。
 私は何も言ってないけど、柚木先輩とのこと、気づいているのかもしれない」
「……そう」
「私の考え過ぎかな……。私を見る目が今までとはなんだか違うような……」

 ふぅ、と香穂子は息をつくと、その考えを吹き飛ばすかのように首を振った。



「おいで。――香穂子」
「うん」



 キャミソールについているボタンを一つ一つ取っていく。
 それは、これから始まる行為がとても神聖なものに思えるほど、規則的な音を立てて。

 ヴァイオリンとピアノが俺たちを見てる部屋。
 そこで、……香穂子を抱く。


 香穂子は羞恥に揺れた目をして、俺を見た。


「柚木先輩……。ちゃんと抱いて。他の誰も入る余裕がないくらいに」


 その涙を溜めた瞳に、下半身が疼く。
 香穂子は、俺自身知らなかった俺というのをいつも引き出す。
 こいつは、この言葉で俺がどれだけクるかなんて、まるでわかってないんだろうな。



 そんなところが愛しくて。
 ── 香穂子へ向かう想いは溢れそうになる。



 微笑もうとした俺の口から出た言葉には、いつもの俺らしい余裕はどこにもなくて。




 俺の、本心が、ほとばしる。




「── 言われなくても そうするつもり」




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