*...*...* Place *...*...*

「じゃあまたね、日野さん」
「あ……、はい。ありがとうございました」

 あ、そうか。こういうときは日野さん、なんだ。
 私は柚木先輩の変わり身の早さに、いつも慌てる。
 そっか、そう、だよね。そう、なんだけど……。

「……頑張って来いよ」

 こつん、と頭をこづかれて、やっと私は笑顔になれる気がする。


 私は柚木先輩の背中を見送ると、おそるおそる2年A組の教室へと脚を進めた。
 一番後ろの窓側に、まっさらな机が置いてある。中に何も荷物がないことを確認して、私はちんまりと席に着いた。

 音楽科の教室は、普通科と大きさは一緒くらい。けど一番違うのは、背後にある大きなロッカーみたいな設備。
 大きさもさまざまだ。……なに、入れるんだろ? 体操服? 違うよね、きっと。
 しかも、こつこつと足に響いてくる床の音はどこか硬質で冷たい。
 あ、そうか。もしかして教室全体に防音効果の設備が施してあるのかな?

 教室はだんだんと賑わいを増してくる。
 私の横を通り過ぎた女の子が、私の隣りの席の女の子の肩を抱いた。

「おはよー」
「あ、おはよ。ね、今日の実技、どう? 自信ある??」
「あー、全然。ね、今 練習室って開いてるかな? ちょっと さらってきたいんだけど」
「あ、あたしも付いていっていい?」
「うん、行こう?」

 複数クラスのある普通科と違って、音楽科の2クラスはよほどのことがない限り、3年間を同じ仲間で過ごす。
 だからかな、2年の半ば、と言っても、この仲の良さはやっぱり普通科より濃密かも……。

「日野さん。おはよう。あ、2学期から編入だっけ? よろしくね」
「森さん!」

 なんとなく気心の知れている人の顔って、目の中に飛び込んでくる。
 私はすがるような気持ちで、セレクションの間ずっと伴奏を頑張ってくれた森さんの顔を見上げた。

「あ、あの。いろいろ教えてね。不安ばっかり、っていうか、どこをどうしていいのか、それも分からなくて」
「あ、まずね、ヴァイオリンは後ろのロッカーに入れるの。空調もばっちりだから、早めに入れた方がいいわ」
「あ。は、はい!」

 私はヴァイオリンケースを取り上げると、ずらっと並んだロッカーの背を順番に見ていく。
 あれ? 私の名前ってついてるのかな??

「日野さん。ヴァイオリンはこっちよ?」
「え?」
「うん、楽器ごとに分かれてるの。窓側はチェロね。次はビオラ。最後はヴァイオリン。ロッカーの大きさが微妙に違うでしょう?」

 きちんと並んだロッカーの背は朝日を浴びてまぶしいほど。
 けど……。あれ? チェロ、ビオラ、ヴァイオリン……。これでロッカーは全部、なの?

「そうなんだ……。ありがとう。教えてくれて。あ、あのね、フルートとか、トランペットは、どこに置くの?」

 冬海ちゃんはどこに自分の楽器を置いていたんだろう? 廊下かな? あれ、廊下ってロッカーあったっけ?

 そう言うと森さんは困ったように苦笑して私の顔を見つめた。
 そして適当な場所のロッカーを開けると、私のヴァイオリンを手に取った。

「んー。A組は弦とピアノ専攻者、B組は管専攻者ってクラスが分かれてるの。だから、この教室に管を置くスペースはないわね」
「そ、そうなんだ……。知らなかったよ」

 私はコンクール参加者さんの顔を思い出してみる。
 あ、そっか、だから、柚木先輩と火原先輩は、B組で、月森くんと私はA組。
 1年生コンビの冬海ちゃんはB組で、志水くんはA組なんだ。

 私はさっきの森さんの表情を思い出して赤面した。
 は、恥ずかしいかも……。
 このクラス分けのルール、知らなかった、では済まないほど、音楽科の中では常識なの、かな?

 森さんは はめていた綿の手袋を外しながら言った。

「今日はちょっと忙しいよ? 午前中は、専科で夏休みの課題曲の発表だから」
「課題曲?」
「そう。あれ? 金澤先生から連絡が入ってるんじゃないの? 個人でフルパートを仕上げてくるの。時間は一人総評も込みで10分。 今日は弦の人たちの発表よ。大体クラスの半分の15人だから、150分くらいかな。実際はもう少し長くなるけどね」
「150分? ずっと、音楽をやってるの?」
「そうよ」

 森さんは淡々と頷く。

 半日、音楽。
 私は唖然とする。
 だって普通科だったら、4種類も、生物やら、数学やら、グラマーやらいろんな授業を小刻みにやっている時間に、4時間、通しで音楽をやっちゃうんだ。
 音楽科、ってそういうところなんだ。

「えーっと。その間、ピアノ専科の人たちは何してるの?」
「んー。ソルフェージュBじゃない?」
「そ、ソル……??」
「聴音、って言えばいいかな? ヴァイオリンのメロディを楽譜におこすの。結構 いい勉強になるのよ、これ」
「そ、う、なんだ……」

 私は、おそるおそる聞き返した。

「っていうことは、えっと……。明日、ピアノ専科の人たちが発表をしているときは……?」
「もちろん、弦専科の人たちが、ソルフェージュBをするの」
「…………」
「大丈夫よ? ピアノの音は聞き取りやすいから。キーになる和音聴音が出来ていれば、わりと誰でも……。あ、先生が来たから またあとでね」

 森さんは慰め顔で微笑むと、自分の席へと足を進めた。
 私も後を追うようにパタパタと自席に着く。

 ……えーっと……。今、言われたことだけでも整理しなきゃ。
 ソルフェージュBが聴音、で。和音聴音は聞き取りやすい、って、ホント?
 そもそも和音聴音って、どの和音のことなの?


『音楽科でもないのに、コンクールに出るなんてさ』

 コンクールの真っ最中、何度もそうつぶやく音楽科の男の人っていたっけ……。

 いくら魔法のヴァイオリンがあったからって。
 ちょっとくらいファータ濃度が高かったから、って。
 請われるままにコンクールに出た自分は、今更ながら、すごく大それたことをしてたんだ、って改めて思う。

 きっと、音楽科って、毎日毎日が音楽の連続で。
 好きで入学した人さえ、悩んだり、迷ったりする時もあるだろう。
 自分とのジレンマ。
 好き、だけじゃ埋められない、実力との距離。自分の居場所がなくなるような気持ち。
 そんな中、誰だって、一度は『星奏学院音楽コンクール』── 未来の成功を約束されるかもしれない、コンクール、に、出たいと思うに違いないよね。

 担任の先生はゆっくりと教壇に昇って。ぐるりと教室内を見渡すと私に目を留めた。

「あー。みんなも知ってるだろう? コンクールに出た日野さん。今日からこのクラスで一緒に授業を受けることになった。 不慣れだろうから、いろいろ教えてやれよ?」
「……あの、よろしくお願いしますっ」

 私は、自席で立ち上がると、一斉に向けられた視線を避けるように目を伏せる。
 も、もう。……小学生じゃないんだし、顔が赤くなるのだけは止めたいのに。
 鏡を見るまでもなく、私の頬は熱で赤味を伝えてくる。

 ── コンクールに出た今でも、全然、慣れない。

 こういうとき、注目され慣れてない人間ってすぐわかると思う。
 人の視線を受け止めることを日常的に行ってる人。……柚木先輩はすごく上手い。
 案外、土浦くんも上手い。

 人の視線を受け止めるっていうことは、複数の人の呼吸をゆっくりと、受け止めて、まとめて。微笑むことができるかどうか、なんだ。

 私は一斉に振り返った制服たちの、胸元とか、濃いグリーンのスラックスとか。
 顔ではない全然違うところを目の端に捉えながら、ぺこりと頭を下げた。


『結構キツイぞ。転科っていうのは。趣味と職業の違いってのかな? 楽しければいい、っていうのとは全然ニュアンスが違うから』

 夏休み最後の日、借りていた楽典を返しに行ったとき、金澤先生に猫をなぜながら難しそうな顔をしてたっけ。

『そうですね。でも、やるって決めちゃったんです』
『まあなあー。……いや、お前さんは俺が思っているより弱くないのかも、な』
『え?』
『案外、タフで、打たれ強いんだろ? あいつと一緒にいるくらいだから』

 金澤先生は抱いていた猫を降ろして私の方を見つめた。

『先生……?』
『ま、なんかさ、壁にぶち当たったら、俺のところにも来いや。長い歳月 生きてるから、少しは相談に乗れるぞ?』

 相談……。
 そんな、編入初日、それも授業も始まる前から相談なんて出来るワケ、ないし……。

「ふぅ……。やっていけるのかな、本当に……」

 思えば、柚木先輩は、私の進みたい、っていう気持ちに、何一つ、枷になることは言わなかったっけ。
 もっと、意地悪なまでにあれこれ言ってくれるかな、と思ってたのに……。

 ……でも、どうだろう。
 柚木先輩が何か言ってくれたら、私は今の私になることを諦めてた?

 私は今日も暑くなりそうな日差しに目を遣る。
 じりじりと照りつける光は、木々の葉を少しずつ乾かしていく。


 きっと、違う、よね?


 私は、誰にも強要されたワケじゃないんだ。
 ── 私が決めたんだよね。私は、この場所にいたい、って。


「日野さん……。日野さん?」
「あ! なあに?」
「あのね、午前中は講堂で発表会なのよ? 早く準備しないと」
「あ、そう、そうだったね。ありがとう。……でも、どうしてそんなに急いでるの?」
「聴音に良い場所、っていうのがあってね。席は早い者順だから、みんな良い場所取ろう、って思ってるんじゃないかな? 日野さんも調弦の時間とか必要でしょ? 急がないと」
「は、はい!」

 私は慌ててロッカーの扉を開ける。

「あ、あれ? どこだっけ……。ヴァイオリン」


 けど、さっき、森さんが入れてくれた場所がわからなくなって、私はまた泣きたくなった。



 ####




「ブラボーだね、月森くん。夏休みの間、さぞかし よく弾き込んだことだろう。本当にブラボーだね」

 パンパンと乾いた拍手の後、まばたきほどの時間を経て、感嘆に似た拍手が講堂に溢れる。

「……ありがとうございます」
「いやいや。女性のヴァイオリニストも見た目には華やかだが、パガニーニの『鐘のロンド』は やはり男の筋肉で奏でるものだと私は思っている。
 ── いやあ、本当にブラボーだね。みんな、改めて拍手を」

 私は舞台の袖に下がる月森くんを見続けた。
 弾き終えた今でも、月森くんの背からは熱気が立ち上ってるように見える。
 ……音楽科の人たちって、授業でも講堂を使うんだ……、ってそうじゃなくて!!

 舞台の袖にいる私にさえ、鋭く耳朶を打つ音色。
 G線を撫でるだけでわかる、これから始まるメロディの予感。
 ── また、月森くん、上手くなってる。

 元々、月森くんには、楽譜に込められている作者の想いを、誠実に忠実に表現するという才能があったと思う。
 今は、それを土台として、更に自分自身の想いを乗せて。
 2つの旋律はぶつかり合うことなく、また新たな美しいメロディを創り出してる。

「香穂子」
「……は、はい!」

 月森くんはパイプ椅子に座っている私に話しかけてきた。
 下の名前で呼ばれたことで、周囲のクラスメイトのざわめきが聞こえる。

「あ、あの……。すごく素敵だった、月森くん。コンクールの時よりも、ずっと素敵になってると思う。
 音が深い、っていうのか……。聞かせてくれてありがとう」
「俺は」

 薄暗がりの中、月森くんの目がチカリと光ったような気がした。
 さらさらした青い髪。まくり上げた二の腕はうっすらと汗をかいている。

「夏休み、ずっと学院に通っていただろう? よく見かけた」
「うん。そうなの。家で練習できるところがなくて……」
「……誘ってくれたら良かった」
「え? でも、月森くんの自宅って、防音の部屋があるって……」
「……関係ない」

 月森くんは食い入るように私の顔を見つめた。

「あ、そろそろ日野さん、袖に入って、スタンバって?」
「はい!」

 クラスメイトの声に押されて私は立ち上がる。
 月森くんは私のあとをゆっくりとついてきた。

(あれ……?)

 暗くて、視力が頼りないからかな。
 今まで全く気が付いたこともなかった、月森くんの匂いを感じる。

 柚木先輩と月森くん。

 どっちも素敵な香りなのに、全然違う香り。
 演奏の直後だからかな? ……上気した香りが鼻をくすぐる。

「何を弾くつもりだ?」
「あ、えっと、サラサーテの『ツィゴイネルワイゼン』かな。
 最後のセレクションで月森くんが弾いてくれたの、忘れられなくて。夏休みに楽譜を探したの」


 客席で歓声と共に大きな拍手が起きた。
 いよいよ、私の番、だよね。
 ふぅっと深く息を吐く。吐けば吐くほど、深く息を吸うことができるから。

「ん?」

 肩に重みがかかる。
 そこに乗っていたのは、爪が綺麗に切りそろえられた月森くんの指だった。

「多分、君自身よりも俺の方が君の演奏を期待していると思う。期待して、そして……」
「そして……。なあに?」

 月森くんは痛そうに眉を顰めた。
 その苦しそうな表情にドキリとする。

 記憶と同時に痛い感情が浮かんだ。
 数ヶ月前、同じ表情を見たことがある、って。
 ── 君を認められない、って。

 また、……私、何か、月森くんを不愉快にさせることをしてしまったのかな?


 月森くんはふっと表情を和らげると、ゆっくりと肩から二の腕に指を這わした。

「いや。演奏、頑張ってきて欲しい」
「うん……。ありがとう。聴いててね」


 私は楽譜を持った手を月森くんに対して軽く振ると、舞台の方に身体を向けた。

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