*...*...* Hanamizuki *...*...*
「やっほ、香穂ちゃん。どう? 音楽科の生活1日目は」

 解きかけていたお弁当。
 ピンクのチェックのナフキンをそのままにして、私は声の方を振り返った。

「火原先輩!」
「えーっと、香穂ちゃんのクラスの午前中の授業は、っと〜。あ、実技だったんだ。疲れたでしょ?」

 火原先輩は時間割を目で追って笑った。

「はい、とっても」
「きっと、コンクールの時みたいに、頑張ったんでしょ? エラいエラい」

 開けっぴろげな声。
 そのヴォリュームの大きさに、クラスのみんなが振り返る。
 けれど、火原先輩がこのクラスに来ることはよくある話のようで、みんなは何事もなかったかのようにそれぞれ自分の会話へと戻っていく。

 ── 不思議。
 火原先輩といると、自分の中の肩肘張ってた部分とかが、柔らかく溶けていく感じがする。

 コンクール中もそうだったっけ。
 ふわりと温かくて優しくて。
 そうだ、ちょうどこの季節に干したおふとんのような、お日さまの匂いのする人。
 くしゃっと撫でられた私の髪から、火原先輩の元気が流れていく。

 柚木先輩と火原先輩。
 初めはどうしてこんなに正反対な2人が親友同士なのか全然わからなかったっけ。
 火原先輩は、陸上部やバスケ部などに、気の合う友達が山ほどいそうな気がしたし。
 柚木先輩は、あの通りカリスマ性のある人だから、友達になりたいっていう人には困らなかっただろう、と思うのに。

「なに? どうしたの。香穂ちゃん」
「ううん? 何でもないです」

 私は、つん、と先輩の元気を表しているような髪の毛を見つめて微笑んだ。

 多分。
 柚木先輩は火原先輩といると、ありのままの自分が出せてすごく気持ちがいいんだろうな。
 本当の自分、とか、取り繕った自分、とか。
 そんなことはとてもとても些細なことに思えるくらい、火原先輩は居心地が良いんだ、きっと。

「気疲れ、っていうのかな……。今日の実技、すごく緊張しました」
「あはは、すぐ慣れるって。香穂ちゃんなら」
「……だと、いいなあ」

 見ると、火原先輩の指には、買い物用のビニール袋が引っかかってる。
 それは風でふわふわと揺れるっていう可愛いモノじゃなくて、2、3人分は入ってるんじゃないか、って思えるような、大きな重そうな袋。
 私の視線に気付いたのか、火原先輩は照れたように耳を赤らめた。

「腹が減るんだよね〜、実技。ほら、香穂ちゃんもおいでよ」
「え? どこに?」
「中庭に行こうよ、ね? 目の前のお弁当持ってさ。おれのも分けてあげるから」
「は、はい!」

 い、いいのかな……?
 私は火原先輩の声に押されるようにして席を立つ。
 えっと、……火原先輩と2人きり、でもいいのかな?
 いいよね、柚木先輩と火原先輩は大親友なんだし。

 半歩後を歩く私の気持ちを見透かすように、火原先輩は笑って言った。

「柚木もね、生徒会の仕事が終わったら来るって言ってたよ?」
*...*...*
 色づき始めたハナミズキの木立の奥に入る。
 そこには、気持ちの良さそうなベンチが数台並んでいるのが見えた。

「わぁ、いいなあ。桜館からはこんなに近くに中庭があったんだ」
「うん、そう。芸術にはリラクゼーションも大事だ、とか言ってさ。学院の創立者が結構ふんだんに緑を取り入れたんだって」
「そうですね。この苔の感じとか、1年や2年では出来なさそう……」
「座ろうよ」
「はい」

 さわさわと気持ちいい風が通っていく。
 コンクールの時とは確実に違う太陽の位置。低く、長く、影を作る。

 ── 秋、なんだ。

 火原先輩はいい感じに古びたベンチに腰掛けると、袋からたくさんのパンを取り出した。
 手にはブリックパックの牛乳が2本。……すごい、2本も一気飲みするのかな?

「そうそう、おれが音楽科に入ったばかりの頃ね、音譜に追いかけられる夢をよく見たよ。
 64分音譜なんてさ、頭でっかちで、真っ黒で。1つの部屋にメチャクチャたくさん入ってるじゃん?
 その中に挟まれてウンウン言ってる夢とかさ」
「あはは!」
「ほっぺたとかぺったんこになっても、そこから抜け出せないの。そのうちスタッカートが頭の上に落ちてきたりして。
 モゴモゴしてたらさ、夢の中でも柚木に助けられてさ。『全く火原は……。大丈夫かい?』とか言って。
 おかしいよね、夢の中でもあの口調 そのままなんだよ」

 火原先輩は気持ちいいスピードで昼食を平らげていく。
 こんな人にご飯を作ったら、私も嬉しいだろうな。
 何も残っていないお皿と、美味しいって言葉は料理人へのご褒美だから。


 私はお弁当を半分食べたところで箸を置くと、腕時計を見た。

 あれ、もうお昼休み、あと少ししか残ってない。
 柚木先輩、遅いな。生徒会の仕事が急に忙しくなっちゃったのかな……?


「── 香穂ちゃん」
「は、はい、なんでしょう?」

 私はぼんやりと柚木先輩の来る方角の桜館ばかり 見ていたらしい。
 購買のパンをすっかり平らげた火原先輩は、そんな私を見て寂しそうに笑った。

「……おれ、ね。今まで人を羨ましい、って思ったことなかったんだ」
「火原先輩……?」
「周囲の人間が、柚木のことを羨ましい、って言ってるのを聞いても。
 親友であるおれの立場さえも羨ましい、って言うヤツがいても。
 ガキだったからかな? おれ、どうしてだか全然意味がわからなかったよ」
「はい……」
「だってさ、そうでしょ? おれはおれであることで充分幸せだったから。
 欲しいモノにはキリがなかったけど、おれはおれの範囲で幸せだったよ。柚木を羨ましいと思ったこともなかった。
 親友として大好きなヤツだけど、だからって、おれは柚木になりたいとは思わなかったよ」

 ひときわ強い風が吹いて。
 先っぽだけが赤くなったハナミズキの葉が、耐えきれなくなったように私の膝の上に落ちてきた。
 葉っぱはお弁当を包んだナフキンのピンクが色褪せるほど、綺麗な赤で。


 こんな饒舌な火原先輩は、初めてだった。
 目の前のあどけない人は、淡々と 確信に触れないように 軽い口調で話を続けている。
 そこには私への非難も、意地悪な響きもないのに。

 ── 責められてるような、辛い気持ちになるのは、どうしてかな……?


「けどね、香穂ちゃん。今は、おれ、柚木が羨ましいんだ」
「え?」
「……香穂ちゃんに、一番に、想われてる柚木が羨ましいよ」


 膝の上にあったハナミズキの葉っぱは、ふわりと宙を舞って火原先輩の足元へ落ちた。


 言葉だけが、切り取られたような、感覚。

 それって……。
 いくら、鈍い私でも、わかる。
 それって……。その気持ちは……。


「先輩……」
「ははっ。言っちゃった。── けど、本当の気持ち。
 難しいよね。誰も悪くない。もちろん、おれも悪くない、と思う。
 人への気持ちって理性で止められるモノじゃないから」

 私は深く頷いた。
 止められない、って、本当に、そう。

 恋、ってどんどん自分が貪欲になっていく過程を見せつけられるんだ、って思うときがある。

 初めは、笑ってくれたら、それだけで良かったのに。
 もっともっと、って知らない自分が ねだり出す。

 もっと、話をして。一緒の時間を過ごして。これから先も一緒にいたい、って。
 その人の全てが欲しい、って思っちゃうんだ。

 そして。
 私が想っている量と同じ分だけ、相手にも想って欲しい、って願っちゃうんだ。

 おかしいよね。
 刻々と変わる想いの強さを、わかりやすい単位で計ることなんて、できっこないのに。

「── だからさ」

 私の考えを断ち切るかのように、火原先輩は私の顔を覗き込んだ。

「おれ、香穂ちゃんへの気持ち、まだ、止められない。
 ムダだ、ってこと充分すぎるほど分かってて、ムリだ、って知ってても、止めたくない。
 ── だから、これからも香穂ちゃんのそばにいさせて?」
「……な、なんて言っていいか、わからない、です、私……」
「簡単だよ。今まで通り、ってこと。それなら、いい?」
「は、はい! あの、もう、お昼休み終わりそうだから……」

 私はお弁当の包みを持つと立ち上がった。

 柚木先輩はとうとうこの場所にはこなかった。
 火原先輩がウソをついたとは思いたくなかった。
 多分、そう、本当に生徒会の仕事で遅くなっただけだって思いたかった。

「お昼、ご一緒してくれて、ありがとうございました」

 来たときとは違って、今度は私が火原先輩の前を小走りに歩く。


 聞いてしまう前と後ではやっぱり火原先輩への感情が変わってくる。

 どうしたら、いいの?
 今まで後輩の一人として受け取っていた 火原先輩の好意。
 それをこれからはどうやって受け止めていったらいいのかな……?


 ── この時の私は、ハナミズキの陰で柚木先輩がこの話を全部聞いていたなんて思いもしなかった。
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