*...*...* Longing *...*...*
午後の授業は2時間。けれどそのうち1時間は音楽理論の講義で、結局普通科と同じだなと感じた授業は現国だけだった。
隣りの席になった子が教科書を見せてくれたけど、これだけは、普通科よりも簡単な内容で、ほっとした。
ノートに板書しながら考える。
どういうことだろう、火原先輩……。
これまで通り、ってことだから、私もコンクール中と一緒で、これまで通りでいいのかな?
だとしたら、今までと何も変わらない、ってことだから、特に柚木先輩に言う必要はないかな……。
私はどうしたらいいんだろう。
今まで通り、単純な気持ちで、火原先輩にいろいろ聞いてもいいのかな。
「あれ? そこにいるのは日野さん、かな? 初めましてだね」
現国の先生は、見慣れない私に目を遣るとにっこりと微笑んだ。
「聞いてるよ、金澤先生から。普通科からなら、現国はバッチリかな?」
「だと、いいんですけど……」
私の声に釣られるようにしてくすくすと笑い声が漏れる。
それが決して失笑ではなく、温かいモノだったことにほっとした。
席がかなり離れている月森くんも、こちらを顧みるようにして微笑んでくれたことに、何となく元気をもらった気がする。
うう、で、でも。
……取りようによっては、
『音楽関係はともかく、現国くらいはなんとかなるよね?』
って言ってるように取れなくもなかったり、して。
やだな。
以前の私なら、人の言葉を言葉通りそのまま聞いていたのに。
柚木先輩と一緒にいるようになってからは、耳が聞いてくる言葉と心が捉える言葉が、微妙に食い違っているような……?
私は、今日1日の中で、初めて大きく息が付けたように感じた。
*...*...*
一緒にいることのできたコンクール中の時間が愛しいな、って思うのは、放課後1人で練習しているときだと思う。以前なら、フルートを持った柚木先輩に絶対会える、っていう自信みたいなものがあったから。
屋上、森の広場、音楽室、って、ヴァイオリンに触れながら歩き回るのは楽しかったのに。
学園内を探し回って。けど、見つけられなくて。
さすがに、しつこく し過ぎたから、先輩に呆れられちゃったかな、って悩んでたとき、珍しく優しい口調で包んでもらったこともあったっけ。
『俺はおまえが俺を捜すのは結構好きだな』
今は、柚木先輩も図書館にいることが多くなったから、私は練習室の予約が取れないときはいつも屋上で練習をすることにしていた。
鈍色のドアを開ける。
ベルが鳴るなり、教室を飛び出してきたからかな? まだ先客は誰もいなかった。
「ふぅ……。そっか、授業の復習もあるんだった」
好きな曲を好きな解釈で 好きなだけ弾いてたコンクールの時とは違う。
私は一番近いベンチに座ると、カバンから教科書とペンを取り出した。
よし、先に復習からやっちゃおう。
えっと、午前中のソルフェージュを完璧にすればいいのか……。
からからと風見鶏が勢いよく回っている。
風が出てきたのか雲の流れが速いみたい。
ふいにゆっくりと階段を下りる足音がした、と思ったら、大きく影が伸びて、柚木先輩が近づいてくるのが見えた。
「わ、いたんですか、柚木先輩……。私が一番乗りだと思ったのに」
「SHR、休んだんだよ。体調が悪いっていうことになってる」
「え? 大丈夫なんですか?」
「馬鹿。サボったって言うと人聞きが悪いだろ?」
「あはは、じゃあ、サボりなんですね。どうしたんですか?」
「……別に」
先輩はベンチに座ると、探るように私の顔を見つめて。
そしてつまらなそうに目をそらすと、私の手元を見つめた。
「あ、あのね。見て? 音楽科、初講義、初宿題です。ソルフェージュです」
「ふぅん」
「森さんが……。あの、コンクールの時、私の伴奏をやってくれた子なんですけど、いろいろ教えてくれて。
あ、月森くんも同じクラスだから、助かるんです。……主旋律、これで合ってますか? な、なに……っ?」
「── いい子だから黙って」
あごに手が伸びる。あごの裏。私の身体の中でも一番柔らかい部分。
ひんやりとした指が伝う。
柚木先輩のそれはいつも余裕に満ちているのに、今日はそんな様子はどこにもなかった。
── 怖い。
口から口へ。舌同士がまるで生き物みたいに絡み合う。
溶けて、吸い込まれて。
このまま私の身体は全部液体になって、柚木先輩に飲み込まれてしまいそう。
そして、ベンチには私の制服とノートだけが残るんだ。
……それも、いい、かな。
身体は正直で、怖さがなくなると同時に、私の手は縋るように柚木先輩の背中に回される。
先輩の背中は思ってる以上に大きくて、手と手が繋がらない。私の腕の中には囲えない。
それが寂しくて、私は腕に力を込めた。
なにかが、先輩に、こう、させてるんだよね。
なにかが、先輩を、動かしてて。きっと先輩自身、止められなくて。
それを私に投げ出してる。肩の荷物を降ろすように。
時々見せる憂いに満ちた顔。
言ってくれたらいいのに、って思うこともある。けど、聞き出せないでいる、もどかしさ。
── 代わってあげたいよ。私ができることなら、何でも。
行為に夢中になった私を落ち着かせるように、先輩はゆっくりと顔を離した。
「ごちそうさま。お前が美味しいから なかなか止められなかったよ」
「うう……。唇が熱い……」
自分の声が心許ない。
私は赤味を増してるだろう、口角を指で撫でた。
再び至近距離で見る柚木先輩は、いつもの余裕たっぷりの意地悪な先輩で。
「ま、せいぜい音楽科でも頑張って欲しいものだね。
コンクール優勝者の成績がイマイチっていうのも、コンクールのレベルの低さを露呈するようで恥ずかしいから」
「先輩、相変わらずキツい、です……」
「そう? お前の成績が俺たち参加者の評価に響くのも癪だから。
俺もコンクールの一参加者だった、っていうことを忘れないようにね?」
「そんな、忘れようって思ったって忘れられませんよ」
言われっぱなしなのがクヤしくて、思わず柚木先輩の顔をにらみつけて言い返すと、私の表情がおかしかったのか、先輩は声を上げて笑った。
「先輩……」
……あ、あれ。ヘンなの。
ヘンだ。私。
笑ってるのに、笑い合ってるのに、鼻の奥がツン、ってする。
ふいに、泣きたく、なってくる。
悲しそうな先輩と意地悪な先輩、どちらを選ぶ? って聞かれたら、私は一も二もなく意地悪な先輩って答えると思う。
私に意地悪言って。からかって。笑って。
私が望んでることは、とてつもなく壮大だったり、とんでもなく些細だったりするんだ。
私、先輩に、笑ってて欲しい。
── せめて私と一緒にいるときくらいは。
柚木先輩は優雅な動作で立ち上がると、階段へ続くドアへと向かった。
「音楽科のことは火原もいろいろ教えてくれるだろう? あいつは いいやつだから」
「火原先輩? そ、そうですね……」
突然柚木先輩の口から火原先輩の話題が出て、胸が慌ててるのが分かる。
『これからも良い先輩でいさせて?』
無邪気な先輩の声が耳から離れない。
そう、今まで通り、ってことだもん。
だからお昼休みのことをわざわざ柚木先輩に伝えなくても、いい、よね?
心臓が耳のそばで脈打ってるみたい。
どうしたら、いいの……?
柚木先輩は背中を向けたままつぶやくように言った。
「お前、火原はどうなの?」
「え? どう、って……。どうなんだろう……? 先輩です。音楽科の。それだけです」
「……俺は……。あいつ、火原になら 安心して香穂子を任せられる」
「任せられるって……? どうしてそんなこと、言うの?」
「別に。お前と火原とならお似合いだろう、と思っただけ」
別れの合図のようにドアが鈍い音をたてて開いた。
なんだろう。どういうこと?
任せられる、って……。お似合い、ってなに?
「ま、待ってください。ちょっと、あの……っ」
立ち上がって、追いかける。ドアの隙間に指を入れる。
夏休みの間、結構大切に扱うようになっていた、自分の指。
けど このときは構う余裕なんてなかった。
「── 馬鹿」
「あ、あれ……?」
挟まれることを覚悟していたのに、ドアは数センチ開いたままで とまった。
足元を見ると、ドアの間には光沢のある先輩の靴が 挟まってる。
(かばってくれたんだ……)
背を向けてて、私のことは見えてなかったはずなのに。
お礼を言わなくちゃいけないのは分かってたけど、私の頭は混乱してたんだ、と思う。
急に明るいところから暗いところへきたからだろう。
細かい虹色の粒子が視界の中、ちらちらしてる。
そんな中、懐かしそうな、優しそうな表情を浮かべた先輩がいる。
どうして、そんな顔、するんだろう?
出会ったときのような、完璧までな、笑い方。もう、遠くへ行っちゃったような、笑い方。
「ああ、ごめんね。日野さん。僕、今日は体調が優れないから、先に帰らせてもらうよ」