動揺? この俺が?
 まさか、ね。そんははずはないだろう。きっと何かの勘違いだ。

 俺は、見慣れた屋上から続く階段を降りる。ああ、俺は具合が悪くてSHRを休んだんだったな。
 じゃあそれなりの様子を見せて今日はさっさと下校するか。

 透き通るような硬質の雲が広がる、秋色の空。
 屋上から見下ろす正門は、もうすぐ俺の好きな金色に染まり始めるだろう。

 今の気分に、この学院の風景は似つかわしくない、から。
*...*...* Honesty *...*...*
「柚木くん! 大丈夫なの? なんだか顔色が悪いわ」
「そうよ。今日は早めに帰った方がいいんじゃない?」

 教室に戻ると、クラスの女生徒が驚いたように顔を上げ、俺の周囲を取り囲む。
 今までは、そんな声が自分のステイタスの一部だと思っていたけど、今はどうだろうな。
 まあ、ないよりまし、な程度の扱いか。

「ありがとう、君たち。そうだね。今日はこのまま帰らせてもらうよ」

 俺はいつも通りの笑顔に、少しだけ憂いを混ぜた表情を作ると、鞄を手に正門へと向かった。
 レンガ色のアプローチに、紅葉の進んだポプラの枝が風に吹かれている。

 ── 独り。香穂子はいない。

 結局、追いかけてくるかと思った香穂子は、屋上のドアのすき間に立ちすくんだまま、隙間の影に消えた。

 あんな風に、従順にヴァイオリンの知識を身に着ける香穂子だったから。
 人の想いを受け入れる、と言うのに、元々 才長けていたのかもしれない。

 ── 抱けば抱くほど、離れがたくなってくる。

 なのに、俺はどうしたっていうんだ? 火原が香穂子に自分の気持ちを告げているのを見て、こんなに慌てている。

 挙げ句に、火原はどうか、と勧めたりして。
 自分の本心とは裏腹な態度を取り続けて。もし、本当に香穂子が俺から離れていったら。


 ── 親友が、俺のしてきたことを香穂子にもする。そして香穂子は、俺のとき以上の反応を見せる。


 そう考えるだけで目が眩む、のに。
 俺は、遠くに黒塗りの車を認めると ため息をついた。

 ……俺が、香穂子を火原に。そう考える理由もある。あるから余計、タチが悪い。

 運転手の田中は、俺の指定した時刻通りに正門前に車を回していた。
 俺の姿を見つけると、勢いよく運転席から飛び降り、後部座席のドアを開ける。

「梓馬さま……?」

 田中の何か言いたげな目に出くわす。

「このまま車 出して。今日は一人だから」
「……はい。かしこまりました」

 俺は深く椅子に腰掛けるとアームレストに腕を置いてそのまま目を閉じた。

 ── どうすればいいんだ?
 香穂子へ向かう俺の思い。火原の思い。香穂子自身の気持ち。
 この三角関係なら簡単だ。香穂子の気持ちが俺に向いている限り、それで終止符が付く。

 しかし……。
 俺たちの想いの外側から忍び込んでくる思惑がある。それが俺を混乱させているのだろう。


『梓馬さん? この前ご会席した礼乃さんのことですが』
『はい。お祖母さま。なんでしょうか?』
『先方さまではかなりあなたのことをお気に召したようでしたよ。近々ご本人から連絡があるかと思います。
 その折は、どうぞ我が家へお通しなさい』
『……はい』
『柚木家と三条家と縁戚となる。……ええ、ええ。悪くない取り合わせですとも』


 夕食のたびにのぼる話題。雅がちらちらと不安げに視線を向ける。
 この慶事に相好を崩すお祖母さまは、珍しく俺たちの表情には気付かない。
 柚木家の一員である以上、お祖母さまの意見は絶対で。

 ……俺はあの人形のような女と、ずっと取り繕った俺のままで過ごさなくてはいけないのか。

「梓馬さま……」
「なに?」

 俺は薄目を開けて運転席を見つめる。
 ……珍しいこともあるものだ。
 普段、俺が目を閉じているとき、田中は決して自分から話しかけてきたことがなかったのに。
 田中は苦しそうな表情で、フェンダー越しに俺を見た。

「三条家のお嬢さまと歓談の場が設けられてると 雅さまから伺いました」
「ああ、そうらしいね。……それが?」
「はっ。いえ……」
「なに?」
「……ご用のあるときはおっしゃってくださいませ」
「ありがとう。特にないだろうね」

 俺は田中の気持ちをつぶさに感じながらも、早く話を切り上げたくて。── 香穂子を車内に感じたくなくて。

 思えば香穂子はどんなときも、田中に気を遣っていた。
 気にしなくていい、と告げても、私は先輩のようにはできません、とか言って。
 別に俺がちょっと触れたから、といって声まで揺らすことはないのに。
 馬鹿正直すぎるんだ、あいつは。

 そして、香穂子の気遣いに気が付かないほど、田中も愚直ではなかったから。

 この3ヶ月の間に俺が香穂子を連れて車に乗り込むのをどこか嬉しそうな顔で見ていることがあった。
 ったく。何を、俺は考えているのか。自分で手折って、自分で切り捨てようとしているものに。

 俺は再びアームレストに腕を置くと目を閉じた。
*...*...*
 リビング、ダイニングという共通部と、それぞれの個室というのはゆったりとした渡り廊下で繋がれているこの家。
 絶え間なく人の流れを感じる家の中で、俺は自分の部屋にいるときだけ大きく息をつくことができた。

(疲れた、な)

 体調が悪い、と言っていたのはただのジェスチャーだったのに、この調子では本当に具合が悪くなってきそうだ。

 俺はネクタイに指を引っかけ、素早く制服を脱ぐとそのままいつもの薄鼠色の丹前に着替えた。
 いつの間にか長くなった髪も一つにまとめる。
 そして机の脇に置いてあった、数Uの参考書を開くと問題に集中する。

 音楽科に進むときの条件として、普通科と変わりない授業内容を独学で習得するという項目があった。

『ゆくゆくは経済を専攻して、柚木家の一員として、力を発揮なさい』

 目は解析問題の字面を追っていく。すっきりと頭に響かない。

 今までの自分の生き方に間違いはなかった。なのに……。
 どうしてこんなにまで、心乱れる?

 俺は息をつくと愛用の万年筆をノートの脇に置いた。


 ── 香穂子はこれからだ。
 音楽の道に進み始めて。もっと表現力をつけて。自分の音を広げて。
 やがて香穂子の作る音は、人の心を掴んで離さなくなる。── あいつの誠実な音色そのままに。

 そんな香穂子に対して、俺も誠実でありたい。
 今の俺が望むのはそれだけだった。
 なのに、それができない自分がいた。
 一番簡単で、一番大切なこと。火原なら、真っ先にできるであろう、こと。

 俺の本心を見せた香穂子に対して、今の俺ができる一番誠実なことは、別れを切り出すことだと考えた、から。

「……ん?」

 香穂子を巡るたくさんの思考の中、俺の耳は小さな足音を捉えていた。
 でも歩幅の狭い、小さな音。秘やかな音は聞き慣れた音でもあった。

「雅?」

 音は、俺の声にはっとして止んだ。
 やがて気を取り直したかのように、雅の凛とした声が廊下越しに届く。

「ええ。そうよ。今、お部屋に入っても構わなくて?」
「どうぞ」

 田中といい雅といい、今日は珍しいことが続く。
 そして、これは始まりであって、多分、終わりじゃないのだろう。そんな予感がある。

 雅と俺の部屋は行くのに手間がかかる、という程の距離ではないが、隣り同士、というわけでもない。
 何らかの目的がないと立ち寄るのが億劫になるほどの距離にあるからだ。

「俺に なにか用?」
「ええ、そうね。少なくともお兄さまにとっては大切な用でしょうね」

 雅は後ろ手に襖を閉めると、俺を見上げた。

「なんだろうね。俺の大切なことで、雅の手を煩わせることなんてあったかな?」
「香穂子さん」

 雅は簡潔に告げた。
 不安そうな色が隠し切れてない。

「香穂子?」
「今、私の部屋にお通ししてあるの。
 私が帰ったときね、玄関の近くで立ちすくんでたの、香穂子さん。
 それを、私のお友だちっていうことにして強引に私の部屋に入ってもらったの。
 制服が違うけど、小学校時代のお友だちってことで」

 だから、行って、と、雅は口元を引き締めた。

「ああ、悪かったね。手間をかけたね」
「ううん。でも、こういうときはあれね。幼いお顔立ちだとわからないわね、香穂子さんが私より年上ってこと」

 雅はそう言って小さく笑った。

 五人兄弟のうち、二人だけ、年が離れて育った兄弟。
 日頃長兄次兄長女へと注がれる視線の中、俺たちはひっそりとその視線をお互いの中で補うように育ってきた。
 折に触れて口の端に乗せた、香穂子への俺の気持ちを雅は敏感に感じていたのだろう。

 お祖母さまの目に触れないように。
 お兄さまの一番良いと思う方向へ、と。

 微笑みを浮かべた雅の かっきりとした二重瞼がそう言っている。

「……ありがとう。雅に貸しを作ってしまったかな」
「ふふ。基本は倍返しだから。大丈夫よ、お兄さま」

 雅はにっこり笑うと俺の背を押した。
*...*...*
 通常、ドアではない襖に対してのノックは必要ない。
 その代わり入る合図として、数センチ、隙間を作る。それが中にいる人への挨拶になる。

「香穂子?」

 香穂子は雅の部屋で、小さな置物のように白い背中を向けて座っていた。
 純和風のこの家は、それぞれの個室まで和室だ。
 時折お祖母さまが来ることもあってか、雅の部屋は整然としていて、今、香穂子が座っているえんじ色の座布団がなければ、女の子の部屋ともわからないようなしつらえだ。

 香穂子は弾かれたように腰を浮かすと、俺の顔も見ないで頭を下げた。

「あ、柚木先輩。……あの、自宅にまで来てごめんなさい。
 さっきの、あの、屋上のこと、考えているうちになんだか、どうしていいか分からなくなって……」
「落ち着けよ、少し」

 俺は襖を閉めると、香穂子の肩を押しとどめ、同じ場所に座らせた。

 香穂子は対座した俺の姿を見て、目を見張っている。
 その素直すぎる眼差しが、ふと俺に余裕を持たせたりもする。

「なに? そんなに俺の和服が珍しいの?」
「……はい」

 香穂子は、小さな子どものようにこっくりと首を揺らした。
 そんな様子を見ていると、自然に微苦笑が浮かんでくるのがわかる。

『駆け引き』

 こんな言葉は、親友の火原同様、香穂子には全く縁のないものだ。
 ……陰鬱なこの家とはまるで相容れない。

 息を潜めたのか、香穂子の白い首が揺れる。手は正座した足の上、固く握られている。
 ── 香穂子の身体なら和服も映えるだろう。

「今度……」
「はい?」
「いや、何でもない。……で? どうしてここまで来たの?」

 『着せてやろうか』と言い出した言葉を慌てて口の中に留める。

 今度、とか。来週とか。来年とか、いつかとか。
 未来に続く言葉を、どうして、今の俺は、香穂子に対して口にできるのだろう。

 香穂子はしばらく、俺の膝前に目を落とした。
 泣き出しそうになっていた瞳は、再び顔を上げたときにはセレクション直前のような強い意志を持って、俺の目を覗き込んだ。

「先輩は意地悪です。ちゃんと言ってくれなきゃわからないです。私じゃ力になれませんか?
 どうして? どうして一人で決めて、一人で先に歩いて行っちゃうの?」
「香穂子」
「……柚木先輩のお家とか、私もいろいろ、もしかしてそうかな、って想像する部分はあります。
 けど、それは私の想像でしかなくて、事実じゃないんです。
 柚木先輩がお話してくれる、って言うなら、どんなお話も聞きたいです。
 今の私が、柚木先輩にできることはありますか? ……私じゃ、ダメかなあ……」

 香穂子の目が、夕暮れの迫った空気の中、ちかりとガラスのように光った。
 それを恥じるように、香穂子は下を向くと座布団の房を見つめている。


 誠実であることは別れること。こいつのために。
 確かにさっきはそう思った。
 けれど、今は、違う想いが浮かんでくるのが分かる。
 誠実なのは、伝えることだ。
 音楽よりも確かな手法で。自分の本心を。自分の考えた言葉で。

 所詮、人なんて分かり合えるはずなんてない。
 だから、俺は自分を守るために、よそ行きの顔を作った。
 その垣根を簡単に跳び越えてきた人間は香穂子一人だ。
 そして俺の予感が正しければ、きっと、これからも一人だろう、から。

 誠実であるがゆえの香穂子の行動。
 それに対して、俺も真実を伝える時が来たのかもしれない。
 俺は香穂子を見つめた。座布団と座布団の間。半間分の距離が遠い。


「大したことじゃない。世間じゃよく転がってる話。── 見合い話」
「はい?」
「……俺の」
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